花山院持忠
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| 時代 | 室町時代前期 - 中期 |
|---|---|
| 生誕 | 応永12年(1405年) |
| 死没 | 文正2年1月7日(1467年2月11日) |
| 別名 | 鳳栖院贈太政大臣 |
| 官位 | 正二位、内大臣、贈太政大臣 |
| 主君 | 称光天皇→後花園天皇 |
| 氏族 | 花山院家 |
| 父母 | 父:花山院忠定、母:不詳 |
| 子 | 教助、定嗣、政長、兼子 |
花山院 持忠(かさんのいん もちただ)は、室町時代前期から中期にかけての公卿。権大納言・花山院忠定の子。官位は正二位・内大臣、贈太政大臣。花山院家14代当主。
経歴
[編集]応永29年(1422年)に従三位となり公卿に列する。参議・伊予権守・権中納言を経て、正長元年(1428年)に権大納言となる。永享2年(1430年)従二位・造営上卿となる。永享9年(1437年)右近衛大将に、永享13年(1440年)には内大臣に任じられる。嘉吉2年(1442年)に右大将を辞し、翌年には内大臣も辞した。文安5年(1448年)に44歳で出家。文正2年(1467年)薨去。享年63。薨去後に太政大臣が追贈された。
なお『看聞御記』には、父・忠定に相続人がおらず花山院家の家門が断絶しかかったため、「南方近衛息」(南朝関白近衛経忠の末裔)を密かに迎えて、4代将軍・足利義持の加冠によって元服してその偏諱を受けたとする記述がある[1]が、真相は不明である。
官歴
[編集]『公卿補任』による
- 時期不明:正四位下、左近衛中将
- 応永29年(1422年) 3月27日:従三位、参議
- 応永30年(1423年) 3月20日:兼伊予権守
- 応永32年(1425年) 正月30日:権中納言
- 応永33年(1426年) 正月6日:正三位
- 応永34年(1427年) 3月30日:権大納言
- 永享2年(1430年) 正月6日:従二位
- 永享9年(1437年) 11月某日:右近衛大将
- 永享11年(1439年) 正月5日:正二位
- 永享13年(1441年) 12月7日:内大臣
- 文安5年(1448年) 4月26日:出家
- 文正2年(1467年) 正月7日:薨去(享年63)
- 時期不明:贈太政大臣