小笠原長和
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| 時代 | 江戸時代後期 | 
|---|---|
| 生誕 | 
文政4年(1821年) または文政5年7月3日(1822年8月19日)[1]  | 
| 死没 | 天保11年10月23日(1840年11月16日) | 
| 改名 | 元之助(幼名)、長和 | 
| 墓所 | 佐賀県唐津市の近松寺 | 
| 官位 | 従五位下佐渡守 | 
| 幕府 | 江戸幕府 | 
| 主君 | 徳川家斉、家慶 | 
| 藩 | 肥前唐津藩主 | 
| 氏族 | 柳沢氏、小笠原氏 | 
| 父母 | 
柳沢保泰 養父:小笠原長会  | 
| 兄弟 | 
柳沢保興、長和、柳沢光昭、定、 相馬充胤正室、本多忠徳正室ら  | 
| 子 | 養子:長国 | 
小笠原 長和(おがさわら ながよし)は、江戸時代後期の大名。肥前国唐津藩4代藩主。官位は従五位下・佐渡守。忠知系小笠原家12代。
生涯
[編集]先代の唐津藩主・小笠原長会の養子となり、天保7年(1836年)に長会の死去により跡を継いだ。同年6月1日、11代将軍・徳川家斉に拝謁する。天保8年(1837年)8月25日、従五位下・佐渡守に叙任する。天保の大飢饉により領内で大飢饉が起こると、その救済に尽力した。しかし家臣の一部に不逞な輩がいたことが原因で、天保10年(1839年)に領内で一揆が起こった。これを鎮めるために尽力していた翌年10月23日、失意のうちに20歳で死去し、跡を養嗣子の長国(松平光庸の長男)が継いだ。墓所は佐賀県唐津市の近松寺。
系譜
[編集]父母
養子