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億兆安撫国威宣揚の御宸翰

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億兆安撫国威宣揚の御宸翰(おくちょうあんぶこくいせんようのごしんかん)とは、明治元年3月14日1868年4月6日)、五箇条の御誓文の皇誓に際し、これに附して明治天皇が全国民に対して下された御言葉[1]

概説

明治天皇

五箇条の御誓文が「戊辰の皇誓[2]」と呼ばれ、皇祖神に対して誓ったものであるのに対して、これはその時、臣下である全国民に向けて下された御言葉である。

文言の「億兆」とは国民全体のことであり、天皇は「天下億兆、一人も其処を得ざる時は、皆朕が罪なれば」と述べて、過去に摂関政治武家政権政治を任せてきた事への反省の弁と、神州(日本)の将来の為に一大改革を成し遂げるとの決意と責任感をお示しになられた。

(原文の詳細は自由民権運動の項を参照)

五箇条の御誓文由利公正らの草稿によって用意されたものであるの対して、この御宸翰は「幼弱」で実績のないまま皇位を践み、日々の生活の中で苦悩していた事など御宸襟を吐露され、また、永く天皇親政でなかった一因も天皇側にあると反省の弁が語られているなど、終始、謙った文言で国民へ語りかけるもので、異色の特徴を有する。

要旨

(現代語訳)朕(わたし)は、歳が幼にも関わらず思いがけず皇位を継承しましたが、それ以来、世界の国々とどの様に向き合って行べきかを日々思い悩んできました。私見を述べると、天皇親政でなくなった中世からは、武家が政権を専有し、表向きは朝廷を推尊していましたが、実質はこれを政権から遠ざけて、国民の父母としての役割を出来ず、赤子たる国民の情に接することが殆ど出来ないまま、遂に国民の君主である天皇の位も、ただ、名前ばかりに成り果ててしまいました。そのせいで現在では、朝廷の権威は昔より増しましたが、天皇への親近感は著しく衰え、一般国民と天皇の気持ちは天と地の距離ほど離れてしまいました。このような状況でどうやって朕(わたし)は日本を統治出来るでしょうか。しかし今やっと、朝政一新の時が到来しました。日本国民の中で一人でもその事を不満に思う人がいれば、それは総て、朕(わたし)の罪です。これからの事は、朕(わたし)も自ら身骨を痛め、心志を苦しめ、艱難の先頭に立って、古来から続く皇祖の努力の足跡を辿って、治政に励んでこそ、始めて天から授かった皇位にある国民の君主である「天皇」という名に背かないと言えるでしょう。昔、天皇親政の時代には、不忠の臣があれば自ら兵を率いて、これを征伐されました。昔の朝廷による政治は、制度が複雑ではなかったので、その分、君臣は相親み上下相愛し、德澤は天下に行き渡り、国威は海外に輝きました。けれども近代は世界の文明が大いに発展し、日本を取り巻く国々も覇を競う時代となり、その中でわが日本のみが鎖国し、旧来の因習に固執し、維新の成果を理解せず、朕(わたし)自身も、ただ宮中に安穏として、日々楽な生活だけをして、永年積み重なった世の矛盾に対して意に解さない時は、遂に各国から凌侮(あなどり)を受け侵略されるでしょう。そうなっては上は皇祖皇宗の努力を踏み躙り、下は国民を苦めてしまうことことでしょう。それを最も恐れています。それ故に朕(わたし)は、今ここに百官諸侯たちの前で国民に誓います。皇祖皇宗の御偉業を継承して守り、一身の艱難辛苦を厭わず、自ら日本を統治し、国民一同を安撫し、遂には万里の波涛を開拓し、国威を世界に宣布し、日本を天下泰平で磐石な国家とするため、国民一同も旧来の陋習のまま、朝廷尊重のみで、一人一人が神州(日本)の危急を理解せず、朕(わたし)の挙動に驚き、その行動に様々な憶測を交えて噂話し、人伝に伝わる内に話が誇張され曲解され、朕(わたし)の志から遠く離れてしまったのでは、そもそも朕(わたし)が君主たる指導力が足らないのであり、またそうなれば、皇宗皇宗から伝へられてきた日本も滅亡するでしょう。国民一同、よくよく朕(わたし)の志を躰認(たいにん)し、皆で相談して私見を改め、公共の正義を採用し、朕(わたし)の職責を助けて神州(日本)を保全し皇祖皇宗の神々を安心させる事が出来たら生涯の幸せとなるでしょう[3] —  『億兆安撫國威宣揚の(明治天皇)御宸翰

御宸翰の影響

この「御宸翰」は「戊辰の皇誓(五箇条の御誓文)」と共に、当時の人々の心に計り知れない影響を与えた。維新の元勲であった板垣退助は特に顕著で御宸襟を拝し感涙。明治6年(1873年)、征韓論争に敗れてからは、陛下は「君主と臣下の意識間隔を矯正しようとされておられ」さらに「広く会議を興し万機公論に決すべし」と皇祖皇宗の神霊に誓われたのであるから、有司専制を除去し「皆で相談して私的解釈を捨て、公義を取り、天皇を扶翼して国家を経綸」する為の国会を開設するに如かずと述べ、有志と謀って民撰議院設立建白書を左院へ提出した[4]

自由民権運動への発展

日本における自由民権運動は、維新回天元勲板垣退助が億兆安撫国威宣揚の御宸翰の意を拝し尊皇思想を基礎とし、明治天皇五箇条の御誓文を柱として発展したもので、世界の自由主義思想とは潮流を異にする[5]。特に御誓文の第一条「広く会議を興し万機公論に決すべし」の文言は重視され、国会開設および憲法制定の根拠とされた[5]。自由民権家が例外なく尊皇家であったのは、その主導者である板垣退助の影響が大きい[6]。板垣は「君主」は「」を本とするので、「君主主義」と「民本主義」は対立せず同一不可分であると説いた[7]。これらの論旨の説明には「天賦人権説」がしばしば用いられたが、単なる海外思想の翻訳ではなく日本独自の特色を有した[8]。東北地方では河野広中、北陸では杉田定一、九州では頭山満らが活躍したが、初期において自由民権運動に参加した者は、いずれも板垣の薫陶を受けたものから派生している[1]

補註

  1. ^ a b 『板垣精神』”. 一般社団法人 板垣退助先生顕彰会 (2019年2月11日). 2020年11月1日閲覧。
  2. ^ 『立國の大本』板垣退助著による。
  3. ^ 『億兆安撫國威宣揚の(明治天皇)御宸翰』早稲田大学所蔵(所収『板垣精神(解説)』一般社団法人板垣退助先生顕彰会編纂、髙岡功太郎訳/解説)
  4. ^ 『自由黨史』板垣退助監修
  5. ^ a b 『我國憲政の由來』板垣退助著(所収『明治憲政経済史論』国家学会編、東京帝国大学)
  6. ^ 鈴木安蔵は「板垣(退助)君並に立志社先輩諸氏は武士階級の教育を受け育った人々であり、彼等の述べるところの自由主義とは『泰西大家の新説』と日本文化によって醸熟された武士道精神の融合により誕生したものである」とする。
  7. ^ 『立国の大本』板垣退助著、第三章・君民二致なし「元來、世の聵々者流は、君主々義といひ、民本主義といふが如く、各其一方に偏し、始めより兩者を相對立せしめて議論を立つるが故に、理論上兩者相敵對するが如き形を生じ、其爭の結果、社會の秩序を紊亂するに至る也。抑も予(板垣退助)の見る所を以てすれば、君主人民とは決して相分つべきものにあらず。何となれば君主といひ人民といふも、決して單獨に存在するものにあらずして、人民ありての君主、君主ありての人民なるを以て也。則ち既に君主といふうちには、人民の意志の綜合、換言すれば輿論の結晶體といふ意味が含まれ、人民といふうちには又た之を統治して其秩序を維持する所の、最高權を執る者の存在すといふ意味が含まる。是故に民無くして君在るの理無く、人民無きの君主は一個の空名たるに過ぎず。(中略)專制君主と雖も其理想は實に人民を撫育し、其安寧幸福を求むるに在り。是故に君主と人民とは二にあらずして一也。決して始めより相敵對すべき性質のものにあらず。兩者は始めより其目的を同うし、利害を齊うせるものにして、恰も唇齒輔車の關係に在り。(中略)君主々義の神髓は卽ち取りも直さず民本主義の神髓たる也。(中略)君主々義といひ若くは民本主義と稱して、互に相爭ふが如きは、抑も誤れるの甚だしきものにして、君民は同一の目的を以て相契合融和し、共同して經綸を行ふべきものたることを知るに難からざるべし。而かも特に我邦の體制に於ては、君民の關係は恰かも親子の關係の如く、先天的に既に定まり(中略)我邦に於ては建國の始めより、君民一體にして、君意と民心は契合して相離れず。之が爲めに我邦に在ては毫も禪讓若くは選擧の形式を躡むの必要無く、人民の總意、輿論は直ちに君主によりて象徴せられ民意は卽ち君意、君意は卽ち民意にして君民は一にして決して二致無き也」より。
  8. ^ 坂野潤治田原総一朗『大日本帝国の民主主義』小学館,2006年,190頁

参考文献

関連項目

外部リンク