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筒井騒動

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筒井騒動(つついそうどう)は、慶長13年(1608年)に伊賀上野藩で起こったお家騒動である。

経歴

慶長5年(1600年)の関ヶ原の戦いで、伊賀上野藩主である筒井定次は東軍に与して戦功を挙げ、戦後、徳川家康より20万石の所領を安堵された。

しかし筒井氏内部では、天正15年(1587年)からすでに家臣団の対立(旧臣派と寵臣派)が表面化していた。この抗争で旧臣派の島清興は寵臣派の中坊秀祐によって追放されているほどであり、豊臣政権時代にはこの騒動のために「伊賀国替一定、沈思々々」と『多聞院日記』にあるように、早くから筒井氏の国替えも考えられていたほどである。関ヶ原の戦い頃になると一時的に筒井家内部の騒動は鎮静化していたが、慶長11年(1606年)12月に入ると、領内の火災における復興問題から再び両派による抗争が再燃した。

この頃、筒井家の実権は中坊秀祐が掌握しており、彼による専横が行なわれていた。慶長13年(1608年)6月、秀祐は駿府城の徳川家康に対し、主君の定次の悪政や鹿狩に熱中しての倦怠などを訴えた。これにより筒井氏は改易され、上野藩は廃藩となる。定次と嫡子・順定陸奥磐城平藩主・鳥居忠政預かりとなった。

後に定次は、慶長20年(1615年)の大坂の役豊臣氏と内通した罪により、切腹となった。

事情

筒井氏改易の直接の理由は、重臣の中坊秀祐が家康に訴えたためとされているが、有力説では次のようなものも挙げられている。

  • 家臣団の争いによる騒動。
  • 定次が酒色に耽っていたこと。
  • 定次がキリシタンを領内で優遇していたこと。
  • 豊臣氏に対する備えとして伊賀は重要な拠点であり、家康としては定次より信任の厚かった藤堂高虎を配したかったためとする説。

また、中坊秀祐も恩賞を目的にしてか、あるいは家康の意に通じてこのような訴えを行なったとされている。事実、秀祐は筒井氏改易後、家康から奈良奉行に任じられている。しかし秀祐は後に定次の旧臣によって暗殺された。