コンテンツにスキップ

小笠原持長 (信濃小笠原氏)

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

これはこのページの過去の版です。121.113.181.214 (会話) による 2011年8月30日 (火) 12:01個人設定で未設定ならUTC)時点の版 (新規作成)であり、現在の版とは大きく異なる場合があります。

(差分) ← 古い版 | 最新版 (差分) | 新しい版 → (差分)
 
小笠原持長
時代 室町時代中期
生誕 応永3年(1396年
死没 寛正3年6月15日1462年7月21日
別名 豊千代丸(幼名)、彦次郎(通称)
官位 右馬助民部大輔大膳大夫、信濃守
幕府 室町幕府信濃守護
氏族 小笠原氏
父母 父:小笠原長将、母:側室
清宗
テンプレートを表示

小笠原 持長(おがさわら もちなが)は、室町時代中期の武将守護大名信濃守護。父は小笠原長基の長男小笠原長将、母は側室。子に清宗。府中(現在の長野県松本市深志)を本拠とした府中小笠原氏の祖。同時代に同姓同名の別人がいるが、こちらは京都に移り住み有職故実を専門とした同族である。

応永3年(1396年)に京都の小笠原家屋敷で生まれたが父は早世、祖父の死後家督は2人の叔父長秀政康に移り、嘉吉2年(1442年)の政康の死後は従弟の小笠原宗康に継承された。持長はこの状況に不満を抱き、畠山持国の後ろ盾で家督相続を主張、文安3年(1446年)に実力行使で宗康を討ち取った(漆田原の戦)。しかし、宗康は事前に弟の光康に家督を譲り、持国と対立する細川持賢及び甥の細川勝元も光康を支援したため、家督の奪取はならなかった。

宝徳元年(1449年)に諏訪大社が上社と下社に分裂すると騒動に介入、下社を支援している。同年に勝元が管領を辞任、代わって持国が管領に就任すると宝徳3年(1451年)に光康に代わって信濃守護に任命された。しかし、翌享徳元年(1452年)に勝元が管領に再任されると享徳2年(1453年)に守護職を交替させられ光康が守護に再任された。

寛正3年(1462年)に死去。享年67。子の清宗が後を継いだ。清宗も家督を巡って光康の子家長及び宗康の遺児政秀と対立、小笠原氏は清宗の府中小笠原家、家長の松尾小笠原家と政秀の鈴岡小笠原家に分裂、衝突を繰り返して衰退していった。小笠原氏の統一は持長の玄孫長棟が光康の曾孫貞忠を降伏させる天文3年(1534年)までかかることになる。

畠山持国の支援を受けられた背景には持長の母が持国の妾となって息子義就を産んだからとされるが、持長と義就の年齢差が大き過ぎるため近年では否定されている(義就は永享9年(1437年)生まれであり、兄とされる持長とは41歳も差があるため)。

参考文献