長井長弘
長井 長弘(ながい ながひろ、 生年不詳 - 天文2年(1533年)2月2日?)は戦国時代の武将。別名は斎藤利安。父は長井秀弘(または長井利隆)。美濃小守護代。通称は藤左衛門、越中守。子に長井景弘。美濃関城主。美濃小守護代として、有利な方につく日和見な行動をして勢力を拡大した。一説に同じく利安と名乗った長井利安と同一人物とも。
経歴
常在寺住職の日運の推挙で当時、油商人であった松波庄五郎(斎藤道三の父)を家臣として、さらに断絶していた家臣筋の西村氏の名跡を相続させ、西村勘九郎(正利)と名乗らせた人物とされる。また後に長井姓を与え、この勘九郎は長井新左衛門尉(豊後守)と名を変え、長弘の推挙により、土岐頼芸の寵臣となっている。
美濃守護土岐政房の後継を巡り、家督争いが起こった。土岐政房が嫡男頼武を差し置いて、次男頼芸を後継者に推したことが原因である。守護代斎藤利良は頼武を、小守護代であった長弘は頼芸を支持し、永正14年(1517年)、ついには合戦が起こった。
この戦いでは頼武方が勝った。しかし、翌年には長弘ら頼芸方が巻き返して勝利する。頼武は妻の実家である朝倉氏を頼り、妻子とともに越前へと逃れた。永正16年(1519年)、土岐政房が死去すると、機をうかがっていたかのように、朝倉氏は美濃に派兵して、頼芸方は圧倒し、頼武を守護の座に就けた。
しかし、長弘は政権奪取を画策し、大永5年(1525年)、長井新左衛門尉とともに挙兵し、新守護代となった斎藤利茂ら頼武方と戦い、主家の斎藤氏の居城・稲葉山城を攻め取り、同年6月には美濃守護所の福光館も占拠し、頼芸を守護とすることに成功する。そして長弘は頼芸を奉じて守護代斎藤氏に替わって、美濃の実権を握った。その後も頼武方との対立は続いたが、享禄3年(1530年)、頼武を再び越前へ追放し、頼武方の勢力も一掃した。
しかし、『斎藤系譜』によると天文2年(1533年)2月2日、越前に追放された頼武と内通したとして上意討ちの名目(不行跡の罪とも)で新左衛門尉に殺されたという(急死したとも)。その後、家督は子の景弘が継いだとされるが、天文3年(1534年)頃に新左衛門尉の子規秀(後の斎藤道三)に殺された(もしくは死去した)ため、長井規秀が遺跡を相続したとされる(斎藤道三#前半生を参照)。
参考文献
- 『小学館:週刊 戦乱の日本史 第37号 美濃国盗り』