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太枡騒動

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太枡騒動(ふとますそうどう)は、江戸時代後期の百姓一揆寛政4年(1792年)に発生し、御三卿田安徳川家領における課税強化に対して起こった代表越訴型一揆

近世、甲斐国では金納税制である大小切税法甲州金甲州枡の甲州三法が適用されていたことを特徴としており、生業は甲府盆地東部の国中三郡では米麦栽培のほか江戸中期以降には養蚕煙草栽培など商品作物の生産が普及している。甲府藩時代の寛文延宝期には国中地方の甲府藩領で藩政の疲弊による近世前期の代表的一揆である越訴型一揆が起こっている。享保年間に甲斐国は一円が幕府直轄領化され代官支配となるが、寛延3年(1750年)には甲府盆地東部の東郡地域において特権化する商業資本に対して生産者農民が闘争を起こした米倉騒動が発生している。

享保16年(1731年)に8代将軍徳川吉宗の次男宗武が江戸城田安門内に邸を与えられ田安家が創始され、続いて一橋家清水家が創始され御三卿と呼ばれた。御三卿領には幕領のうち10万石ずつが賄領地として配分され、甲斐国の幕領では延享3年(1746年)に国中三郡のうち東郡地域にあたる山梨郡八代郡から63か村3万石余りが田安家甲州領となり山梨郡一丁田中村(山梨市)の田安陣屋を拠点に支配が行われたほか、一橋家領、清水家領もそれぞれ成立し同様の支配を行った。その後、領地替により一橋家領と田安家領は解消され田安家領のみが存続し、騒動後も明治期まで存続している。

田安家領で甲州三法は維持されていたが、明和年間には地球的な異常気象の影響で日本各地でも干魃疫病が流行し百姓一揆が発生しており、甲斐国でも天候不順による不作や笛吹川水害などの自然災害にも見舞われていた。田安家領でも財政悪化に伴い租率の低下が指摘されており(飯田文彌による)、課税強化が断交された。

安永5年(1776年)には田安家領を含む国中3郡で結集し一国規模の甲州枡存続運動が発生し幕府側の譲歩を引き出しており、寛政元年には再び国中三郡で川除郡中割金制度の見直し運動を起こしており、これらの運動に参加した百姓のなかには太枡騒動の指導者も含まれていることが指摘されている(飯田文彌による)。

騒動前年の寛政3年(1791年)には田安陣屋において新枡(太枡)の適用による収奪取り締まりの強化が行われ、領民との間に不穏な空気が発生していた。翌寛政4年末の年貢皆済期限が迫ると領民の間では越訴が計画され、長百姓の7人の指導者らも選出された。同年12月27日には田安家領63か村のうち山梨・八代両郡54か村から選出された惣代が江戸へ出府し、さらに21人の出願実行者が選出され寺社奉行立花種周(出雲守)に訴状を提出して収奪強化など田安支配を糾弾し、従来の仕法への回帰を求める10か条の訴状を提出した。百姓の強訴は禁止されていたため21名は捕縛され田安家に引き渡されて処罰が下され、国元や江戸に残る惣代らも召還されて処罰された。

研究史

太枡騒動はじめ山梨県内で起こった百姓一揆は大正から昭和初期にかけて義民の顕彰とも関係して関心を呼び、この頃に刊行された郡誌類において紹介され、1916年(大正5年)の『東山梨郡誌』、1923年(大正12年)の水上文淵『義民重右衛門事跡』において太枡騒動の経緯が紹介されている。

戦後には百姓一揆研究が本格化し、1960年(昭和35年)には竹川義徳が事件の原因を山下治助はじめ前後の代官が行った収奪強化に求める見解を示し、翌1961年には年有泉貞夫が田安領の経済分析から事件の要因を現物での収奪強化や貨幣経済の浸透防止など領主の封建反動政策によるものとした。昭和53年には弦間耕一『寛政太枡事件』、飯田文彌『太枡騒動』が騒動の総括を行い、飯田文彌は百姓惣代が寺社奉行立花出雲守に提出した訴状に見られる田安支配の新規仕法に原因を求め、研究史も総括している。

関連項目

参考文献

  • 弦間耕一『寛政太枡事件』(甲斐郷土史教育研究会、1978年)
  • 弦間耕一「太枡騒動」『山梨県史通史編4近世2』第十二章第四節(2007年)
  • 飯田文彌「安永・天明期における甲州枡一件訴願闘争」『日本歴史』(385号)