Itagaki Taisuke
thumb|200px|板垣退助 thumb|200px|志士時代の板垣退助
板垣 退助(いたがき たいすけ、天保8年4月17日(1837年5月21日) - 大正8年(1919年)7月16日)は、日本の武士・土佐藩士、政治家。自由民権運動の主導者として知られる。幼名は猪之助。通称は退助。諱は正形。無形と号した。従一位勲一等伯爵(華族一代論を主張したため没後襲爵手続きをなさず)。キリスト教徒であり、同郷の片岡健吉(初代衆議院議長)の入信などに多大な影響を与えた。
生まれ
- 天保8年4月17日(1837年5月21日)、高知城下(現・高知市)に土佐藩士・乾(いぬい)栄六の子として生まれた。乾家は220石取りの上士であり、先祖は、甲斐の武田信玄に仕えた武将板垣信方との説がある。慶応4年(1868年)に官軍の参謀として甲府を占領した際、このことから退助が名将として有名だった信方の子孫であることを甲府の住民に知らせるため、姓を乾から板垣に改めた。
幕末
藩主・山内容堂の側用役から始まり、藩の要職を歴任した。
板垣退助は、討幕運動に参加し、戊辰戦争では鳥羽・伏見の戦いで藩の大隊司令として出征、土佐藩軍指令・東山道先鋒総督府参謀として会津藩などの攻略を行った。新政府軍の将として旧幕府領である甲斐国に進出した際、同国を支配した甲斐源氏の流れを汲む板垣氏の末裔であることを理由に同地の民衆の支持を得るため、乾姓から先祖の旧姓とする板垣を名乗るようになった。
明治政府の要職を歴任
自由民権運動
- 1874年に愛国公党を組織し、後藤象二郎らと「民選議院設立建白書」を建議したが却下された。
- 1875年に参議に復帰したが、間もなく辞職して自由民権運動を推進した。
- 1881年、10年後の帝国議会開設の詔が出されたのを機に自由党(日本初の政党の一つ)を結成して総理(党首)となる。
- 1882年(明治15年)4月、岐阜で遊説中に暴漢・相原尚褧に襲われ負傷した(岐阜事件)。その際、「板垣死すとも自由は死せず」と叫んだ。この事件の直後、小室信介(案外堂。1852 - 1885.8.25)というジャーナリストが岐阜で行った演説の題名「板垣死ストモ自由ハ死セズ」が、板垣自身の発言として世間に広まったものである。これには異説もあり、当時板垣の秘書であった内藤魯一という人物が事件現場で叫んだとも言われる。なお、このとき板垣を診察した医師はのちの政治家後藤新平であった。板垣は後藤を「彼を政治家にできないのが残念だ」と、語ったという。その後、後藤新平は、内務大臣、外務大臣、東京市長などを歴任した。
- 1882年(明治15年)11月、後藤象二郎と洋行。
- 1883年(明治16年)6月、洋行から帰国。
- 1884年(明治17年)10月、自由民権運動の激化で加波山事件が起き、自由党を一旦解党した。
- 1887年(明治20年)5月、辞退するも伯爵、叙爵。
帝国議会開設以後
- 1890年(明治23年)、帝国議会開設後、旧自由党を立憲自由党として再興した。
- 1891年(明治24年)、立憲自由党を自由党に改称しその総裁に就任。
- 1896年(明治29年)、第2次伊藤内閣・第2次松方内閣に内務大臣として入閣。
- 1897年(明治30年)3月、自由党総理辞職。
- 1898年(明治31年)、対立していた大隈重信の進歩党と合同して憲政党を組織し、日本初の政党内閣である第1次大隈内閣に内務大臣として入閣する。そのためこの内閣は通称隈板内閣(わいはんないかく、大隈の「隈」と板垣の「板」を合わせたもの)とも呼ばれる。しかし、内閣は内紛が激しく、4ヶ月で総辞職せざるをえなくなる。
- 1900年(明治33年)、立憲政友会の創立とともに政界を隠退。
- 1919年(大正8年)7月16日、死去、墓地は東京都品川区の品川神社の境内、社殿裏にある品川区史跡。戒名「邦光院殿賢徳道圓大居士」。墓石のとなりには、佐藤栄作の筆による「板垣死すとも自由は死せず」の石碑がある。
没後も、日本の民主政治の草分けとして人気が高く、戦後、50銭政府紙幣、日本銀行券B100円券に肖像が用いられた。 thumb|300px|50銭政府紙幣 thumb|300px|日本銀行券B100円券
人物評
- 以上の経歴のとおり、板垣は日本の民主主義発展に大きな功績を残したが、彼自身は無欲恬淡、金銭欲も淡白でしたたかさがなく(端的に言えば「いい人」)、清濁合わせ呑むことが要求される政治家としては必ずしも有能とは言えない。土佐閥は武市瑞山、坂本龍馬、中岡慎太郎と言った有能な人材が維新まで生き残れず、結果板垣が土佐閥の代表たる政治家として明治政府の中枢に入ったが、結局征韓論で破れ、土佐閥は事実上失脚してしまった。また自由党党首時代、隈板内閣でも迷走がすることも多く、最後は自ら作った自由党員に伊藤博文の作った政友会に走られ、さびしい晩年をすごした。
一方、軍人としては戊辰戦争で会津戦争など目覚しい活躍を見せており、軍司令官としてはまず第一級であった。板垣が明治政府で土佐閥代表の参議になったのもその卓越した軍事能力を恐れた薩長が陸海軍から遠ざけるために、祭り上げたとも思われる。 また、一般庶民からは自由民権運動の総帥として圧倒的な支持を受けていた。
銅像
- 栃木県日光市の日光東照宮参道へと通じる神橋入口
- 日光東照宮に立て籠もる大鳥圭介ら旧幕臣達を説得し、また強硬に破壊を主張する薩摩藩を説得して日光山を戦火から守った功績によるものである
- 岐阜県岐阜市の岐阜公園(金華山の麓)
- 板垣遭難(岐阜事件)の地に大正6年に建てられた。
- 高知県高知市の高知城登城口
武術
板垣退助は、居合は故郷に伝わる無双直伝英信流谷村派を、後に第17代となる大江正路とともに修めていた。
また、中山博道に夢想直伝英信流下村派の細川義昌を紹介した。
柔術は呑敵流小具足術を本山団蔵に学んだ。1882年に岐阜で相原尚褧に襲われた際(岐阜事件)には負傷しながらも、相原の腹部に肘で当身を行った。
板垣は、命が助かったのは師のおかげと本山に贈り物を贈ったところ、本山から皆伝を授けられたという。
相撲愛好家としても知られていた。
系譜
栄六━━退助━┳鉾太郎━━守正━━正貫━━┳退太郎 ┣千代子 ┣範子 ┗良子 ┗直麿