長井長弘
長井 長弘(ながい ながひろ、 生年不詳 - 天文2年(1533年2月2日?/享禄3年(1530年)1月?)は、戦国時代の武将。別名は斎藤利安。父は長井秀弘または長井利隆[1]とも。美濃小守護代。長広、通称は藤左衛門、越中守。子に長井景弘、長井道利[2]?。美濃関城主。一説には(長井斎藤利安)と同一人物とも。
経歴
油商人であった松波庄五郎(斎藤道三の父)を家臣として、さらに断絶していた家臣筋の西村氏の名跡を相続させ、西村勘九郎(正利)と名乗らせた人物とされる。また後に長井姓を与え、この勘九郎は長井新左衛門尉(豊後守)と名を変え、長弘の推挙により、土岐頼芸の寵臣となっている。
美濃守護土岐政房の後継を巡り、家督争いが起こった。政房が嫡男頼武を差し置いて、次男頼芸を後継者に推したことが原因である。守護代・斎藤利良は頼武を、小守護代であった長弘は頼芸を支持し、永正14年(1517年)合戦が起こった。この戦いでは頼武方が勝ったが、翌永正15年(1518年)には長弘ら頼芸方が巻き返して勝利する。頼武は妻の実家である朝倉氏を頼り、妻子とともに越前国へと逃れた。永正16年(1519年)、土岐政房が死去すると、朝倉氏は美濃に派兵して頼芸方を圧倒し、頼武を守護の座に就けた。
長弘は政権奪取を画策し、大永5年(1525年)、長井新左衛門尉とともに挙兵。新守護代となった斎藤利茂ら頼武方と戦い、主家の斎藤氏の居城・稲葉山城を攻め取り、同年6月には美濃守護所の福光館も占拠し、頼芸を守護とすることに成功する。そして長弘は頼芸を奉じて守護代斎藤氏に替わって、美濃の実権を握った。その後も頼武方との対立は続いたが、享禄3年(1530年)、頼武を再び越前へ追放し、頼武方の勢力も一掃した。
しかし、享禄3年(1530年)1月[3]または天文2年(1533年)2月2日『斎藤系譜』によると、越前に追放された頼武と内通したとして上意討ちの名目(不行跡の罪とも)で新左衛門尉に殺されたという(急死したとも)。なお、家督は子の景弘が継いだとされるが<ref>、天文3年(1534年)頃に新左衛門尉の子・規秀(後の斎藤道三)に殺され(もしくは病死)、その跡を規秀が相続したとされる(斎藤道三#前半生を参照)。
参考文献
- 『小学館:週刊 戦乱の日本史 第37号 美濃国盗り』
脚注