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長井長弘

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長井 長弘(ながい ながひろ、 生年不詳 - 天文2年(1533年)1月)は戦国時代武将。別名は斎藤利安。父は長井秀弘(または長井利隆)。美濃小守護代通称は藤左衛門、越中守。子に長井景弘。美濃関城主。美濃小守護代として、有利な方につく日和見な行動をして勢力を拡大した。一説に同じく利安と名乗った長井利安と同一人物とも。

経歴

常在寺住職の日運の推挙で当時、油商人であった松波庄五郎(斎藤道三の父)を長弘は家来に取り立て、断絶していた家臣筋の西村氏の名跡を相続させ、西村勘九郎(正利)と名乗らせた。後に長井姓を贈り、勘九郎は長井新左衛門尉(豊後守)と名を変えたという。

永正14年(1517年)、美濃守護土岐政房の跡目を巡り、土岐氏の家督争いが起きると、政房の次男頼芸を擁立して、政房の嫡男頼武を擁立した美濃守護代斎藤利良と戦い敗れるが、翌年には巻き返して勝利を治め、頼武の勢力を越前へ追放した。永正15年(1519年)、朝倉氏の援助を得た頼武方の美濃侵攻により、頼芸方は圧倒されて頼武が守護に就いた。しかし、長弘は政権奪取を画策し、大永5年(1525年)、配下の新左衛門尉とともに再び挙兵し、頼武、新守護代となった斎藤利茂らと戦い、主家の斎藤氏の居城・稲葉山城を攻め取り、同年6月には美濃守護所の福光館も占拠し、頼芸を守護とすることに成功する。そして長弘は頼芸を奉じて斎藤氏に替わり、美濃の実権を握った。享禄元年(1528年)、関城(安桜山城)を築き、居城として絶頂のときを迎えた。その後も頼武方との対立は続いたが、享禄3年(1530年)、頼武を再び越前へ追放し、頼武の勢力を一掃した。しかし、天文2年(1533年)、越前に追放された頼武と内通したとして上意討ちの名目(不行跡の罪とも)で新左衛門尉(またはその子長井規秀)に殺されたという(急死したとも)。その後、家督は子の景弘が継いだとされるが、新左衛門尉の子規秀(後の斎藤道三)に殺された(もしくは死去した)ため、規秀が遺跡を相続したとされる。