https://de.wikipedia.org/w/api.php?action=feedcontributions&feedformat=atom&user=%E6%A1%82%E9%B7%BA%E6%B7%B5
Wikipedia - Benutzerbeiträge [de]
2025-11-22T23:36:27Z
Benutzerbeiträge
MediaWiki 1.46.0-wmf.3
https://de.wikipedia.org/w/index.php?title=Imagawa_Ujizane&diff=135799435
Imagawa Ujizane
2013-01-14T13:00:21Z
<p>桂鷺淵: 出典と注釈をわける</p>
<hr />
<div>{{基礎情報 武士<br />
| 氏名 = 今川氏真<br />
| 画像 =<br />
| 画像サイズ =<br />
| 画像説明 = <br />
| 時代 = [[戦国時代 (日本)|戦国時代]] - [[安土桃山時代]]<br />
| 生誕 = [[天文 (元号)|天文]]7年([[1538年]])<ref group="注釈">『[[寛政重修諸家譜]]』に記された没年齢からの逆算。なお、[[桑田忠親]]は天文8年([[1539年]])生まれと述べている。</ref><br />
| 死没 = [[慶長]]19年[[12月28日 (旧暦)|12月28日]]([[1615年]][[1月27日]])<br />
| 改名 = 龍王丸(幼名)<ref name="幼名と仮名">[[大石泰史]]「今川氏真の幼名と仮名」『戦国史研究』23(1992年2月)</ref>→氏真→宗誾(法名)<br />
| 別名 = 彦五郎、五郎<ref name="幼名と仮名" />([[仮名 (通称)|通称]])、仙巖斎(斎号)<br />
| 戒名 = 仙岩院殿豊山泰英大居士<ref group="注釈">『今川氏と観泉寺』p.74「近世今川家歴代法号一覧表」による。この他、以下のような記載もある。<br />「仙岩院豊山泰永居士」(『北条氏過去帳』高野山高室院本〔『[[大日本史料]]』第十二編之十七所収〕)、<br />「仙岩院殿量山泰栄大居士」(『[[萬昌院功運寺|牛込御殿山久宝山万昌院]]鬼簿』〔『[[朝野旧聞襃藁]]』七百五十四所載〕)、<br />「仙巌院殿機峯宗峻大居士」(『[[今川家略記]]』)、<br />「仙巌院殿機峯俊貌大居士」(今川氏真肖像画の雲屋祖泰著賛)<br /></ref><br />
| 墓所 = [[東京都]][[中野区]][[上高田]]の[[萬昌院功運寺]]<br />東京都[[杉並区]]今川の[[観泉寺]]<br />
| 官位 = 従四位下、上総介、刑部大輔<ref>『寛政重修諸家譜』による。</ref><ref group="注釈">永禄4年(1561年)1月20日の足利義輝御内書では氏真が「上総介」とされる。</ref><br />治部大輔<ref group="注釈">『[[瑞光院記]]』には永禄3年([[1560年]])5月8日、義元が三河守に遷任された際に氏真は治部大輔に任官したとされる。『[[歴名土代]]』には、永禄4年(1561年)5月8日に治部大輔に任官されたとある[http://books.google.co.jp/books?id=RF2CLxUiErIC&lpg=PP1&dq=%E6%AD%B4%E5%90%8D%E5%9C%9F%E4%BB%A3&hl=ja&pg=PA211#v=onepage&q=%E4%BB%8A%E5%B7%9D&f=false]。</ref><br />
| 幕府 = [[室町幕府]]御[[相伴衆]]<br/>[[駿河国|駿河]]・[[遠江国|遠江]][[守護]]職?<ref group="注釈">両国の守護は祖父氏親以来今川氏が世襲しているが、氏真の守護職補任を確認できる史料は残されていない。</ref><br />
| 主君 = [[足利義輝]]→[[北条氏康]]→[[北条氏政|氏政]]→[[徳川家康]]<br />
| 氏族 = [[今川氏]]<br />
| 父母 = 父:[[今川義元]]、母:[[定恵院]]<br />
| 兄弟 = '''氏真'''、[[嶺松院]]([[武田義信]]室)、[[一月長得]]、<br>[[隆福院]]、[[牟礼勝重]]室<br />
| 妻 = 正室:'''[[早川殿]]'''([[北条氏康]]の娘)<br>側室:[[庵原忠康]]の娘<br />
| 子 = 娘([[吉良義定]]室)<ref group="注釈">生年は明らかではないが、子の[[吉良義弥|義弥]](天正14年、1586年)の生年から、駿河時代の子と推測される。氏真が北条氏を頼って逃れた際の文書に「氏真・御二方」を引き取ったという文言があることから、氏真は早川殿とともに娘を伴っていたと考えられることも、推測を補強する。長谷川弘道「今川氏真没落期の家族について」『戦国史研究』27(1994年2月)</ref>、'''[[今川範以|範以]]'''、[[品川高久]]、<br>[[西尾安信]]<ref group="注釈">伝十郎と称した。生年は不詳。慶長18年([[1613年]])11月3日没。</ref>、[[澄存]]<ref group="注釈">天正7年([[1579年]])生まれの末子。[[聖護院]]准后道澄の弟子となる。[[熊野若王子神社|若王子]]住職・熊野三山修験道本山奉行となり、[[承応]]元年([[1652年]])に没した。</ref><br>猶子:''[[北条氏直]]''}}<br />
<br />
'''今川 氏真'''(いまがわ うじざね)は、[[戦国時代 (日本)|戦国時代]]から[[安土桃山時代]]にかけての[[武将]]、[[江戸時代]]の文化人。[[駿河国]]の[[戦国大名]]。駿河[[今川氏]]10代当主<ref group="注釈">はじめて駿河守護となった[[今川範国|範国]]から数えた代数。家祖・[[今川国氏|国氏]]から数えると12代目ということになる。</ref>。<br />
<br />
父[[今川義元|義元]]が[[桶狭間の戦い]]で[[織田信長]]によって討たれ、その後、[[武田信玄]]と[[徳川家康]]の侵攻を受けて敗れ、戦国大名としての今川家は滅亡した。その後は北条氏を頼り、最終的には[[徳川家康]]の庇護を受けた。今川家は[[江戸幕府]]のもとで[[高家 (江戸時代)|高家]]として家名を残した。<br />
<br />
== 生涯 ==<br />
=== 家督相続 ===<br />
[[天文 (元号)|天文]]7年([[1538年]])、義元と[[定恵院]]([[武田信虎]]の娘)との間に[[嫡子]]として生まれる。天文23年([[1554年]])、[[北条氏康]]の長女・[[早川殿]]と結婚し、[[甲相駿三国同盟]]が成立した。<br />
<br />
[[弘治 (日本)|弘治]]2年([[1556年]])から翌年にかけて駿河国を訪問した[[山科言継]]の日記『言継卿記』には、青年期の氏真も登場している。言継は、弘治3年([[1557年]])正月に氏真が自邸で開いた和歌始に出席したり、氏真に書や鞠を送ったりしたことを記録している。<br />
<br />
氏真は[[永禄]]元年([[1558年]])より駿河・遠江に文書を発給しており<ref group="注釈">初見文書は永禄元年閏6月24日付の遠江国河匂庄老間村の寺庵中宛安堵状。</ref>、この前後に義元から氏真に[[家督]]が譲られたとするのが、研究上の主流の見解である([[#研究]])。<br />
<br />
この時期の三河国への文書発給は義元の名で行われていることから、義元が新領土である三河国の掌握と尾張国からさらに西方への軍事行動に専念するため、氏真に家督を譲り形式上隠居し本国である駿河・遠江の経営を委ねたとする見方が提示されている<ref>有光(2008年)273~275ページ。</ref>。<br />
<br />
永禄3年([[1560年]])5月19日、[[尾張国]]に侵攻した義元が[[桶狭間の戦い]]で織田信長に討たれたため、氏真は名実ともに今川家の領国を継承することとなった。<br />
<br />
=== 相次ぐ離反 ===<br />
[[桶狭間の戦い]]では、今川家の重臣([[由比正信]]・[[一宮宗是]]など)や[[国人]]([[松井宗信]]・[[井伊直盛]]など)が多く討死した。[[三河国|三河]]・[[遠江国|遠江]]の国人の中には、今川家の統治に対する不満や当主死亡を契機とする紛争が広がり、今川家からの離反の動きとなって現れた。<br />
<br />
三河国の国人は、義元の対織田戦の陣頭に動員されており、その犠牲も大きかった。氏真は三河国の寺社・国人・商人に多数の安堵状を発給し、動揺を防ぐことを試みている。<br />
<br />
しかし、[[西三河]]地域は桶狭間の合戦後旧領[[岡崎城]]に入った[[徳川家康|松平元康]](1563年家康に改名)の勢力下に入った。永禄4年(1561年)正月には[[足利義輝]]が氏真と元康との和解を促しており、北条氏康が仲介に入ったこともあるが、元康は今川家と断交し、信長と結ぶことを選ぶ。<br />
<br />
[[東三河]]でも、国人領主たちは氏真が新たな人質を要求したことにより不満を強め、今川家を離反して松平方につく国人と今川方に残る国人との間での抗争が広がる(三州錯乱)。永禄4年([[1561年]])、今川家から離反した[[菅沼定盈]]の[[野田城 (三河国)|野田城]]攻めに先立って、[[小原鎮実]]は人質十数名を[[龍拈寺]]で処刑するが、この措置は多くの東三河勢の離反を決定的なものにした。<br />
<br />
元康は永禄5年([[1562年]])正月には信長と[[清洲同盟]]を結び、今川氏の傘下から独立する姿勢を明らかにする。永禄5年([[1562年]])2月、氏真は自ら兵を率いて[[牛久保城]]に出兵し一宮砦を攻撃したが、「一宮の後詰」と呼ばれる元康の奮戦で撃退されている。このとき、駿府に滞在していた外祖父・[[武田信虎]]の動きが不穏であり、氏真は途中で軍を返したともいう<ref>『校訂松平記』による。</ref><ref group="注釈">この合戦については永禄7年(1564年)に起こったものとするもの(『三河物語』など)もあり、細部も異なる話も伝えられている。</ref>。<br />
永禄7年([[1564年]])6月には東三河の拠点である[[吉田城_(三河国)|吉田城]]が開城し、今川氏の勢力は三河から駆逐される。<br />
<br />
遠江国においても家臣団・国人の混乱が広がり、[[井伊谷]]の[[井伊直親]]、[[浜松城|曳馬城]]主・[[飯尾連竜]]、見付の[[堀越氏延]]、犬居の[[天野景泰]]らによる離反の動きが広がった(遠州忩劇、遠州錯乱)。永禄5年(1562年)には謀反が疑われた井伊直親を重臣の[[朝比奈泰朝]]に誅殺させている。ついで永禄7年(1564年)には飯尾連竜が家康と内通して反旗を翻した。氏真は、重臣・[[三浦正俊]]らに命じて曳馬城を攻撃させるが陥落させることができず、逆に正俊が戦死してしまう。その後、和議に応じて降った連竜を永禄8年([[1565年]])12月に謀殺した。飯尾氏家臣たちが籠城する曳馬城には再び攻撃がかけられ、翌9年(1566年)4月に開城することによって反乱は終息をみた<ref>小和田哲男「今川家臣団崩壊過程の一齣」『静岡大学教育学部研究報告』39.</ref>。<br />
<br />
氏真は祖母・[[寿桂尼]]の後見を受けて政治を行っていたと見られる。永禄3年(1560年)後半から永禄5年(1562年)にかけて氏真は活発な文書発給を行い、寺社・被官・国人のつなぎ止めを図っている。外交面では北条氏との連携を維持し、永禄4年(1561年)3月には長尾景虎(後の[[上杉謙信]])の関東侵攻に対して北条家に援兵を送り、川越城での籠城戦に加わらせている。また、永禄4年(1561年)に[[室町幕府]]の[[相伴衆]]の格式に列しており、幕府の権威によって領国の混乱に対処しようとしたと考えられる<ref>[[平野明夫]]「今川氏真と室町将軍」『戦国史研究』40(2000年8月)</ref><ref group="注釈">『静岡県史』は永禄6年(1563年)5月に御相伴衆になったとする。</ref>。<br />
<br />
内政面では、永禄9年([[1566年]])4月に[[富士宮市|富士大宮]]の[[六斎市]]を「富士大宮楽市令」により[[楽市・楽座|楽市]]とし<ref>大宮司富士家文書</ref>、[[徳政令|徳政]]の実施を命じたり<ref>久保田昌希「戦国大名今川氏の徳政について」『日本文化の社会的基盤』(1976年).</ref>、役の免除などを行ったりした<ref group="注釈">[[若林淳之]]「今川氏真の苦悶―今川政権の終焉―」『静岡大学教育学部研究報告』6(1955年)。若林は、氏真が国人的土豪層を基盤とする従来の[[守護大名]]的秩序の行き詰まりを受け、直接年貢負担者([[本百姓]])を基盤とする[[戦国大名]]的秩序への脱皮を図ったが、再編の混乱の中で侵攻を受け成果を見なかったと評価している。</ref>。<br />
楽市は有名な[[織田信長]]より先んじた政策であった。しかし、これらの政策も、衰退をとどめることはできなかった。<br />
<br />
『[[甲陽軍鑑]]』など後世に記された諸書には、氏真が遊興に耽るようになり、家臣の[[三浦義鎮]](右衛門佐、小原鎮実の子)を寵愛して政務を任せっきりにしたとする。また、政権末期にはこうした特定家臣の寵用や重臣の腐敗などの問題が表面化しつつあったと指摘されている<ref>若林淳之「今川氏真の苦悶」</ref>。<br />
<br />
[[里村紹巴]]が永禄10年([[1567年]])5月に駿河を訪問した際に記した『富士見道記』では、氏真をはじめ領内の寺社や公家宅で盛んに連歌の会や茶会を興行していることが記録されている。この時期も[[三条西実澄]]や[[冷泉為益]]が駿府に滞在しており、氏真政権末期にも歌壇は盛んであった。『校訂松平記』によると、永禄10年7月には駿河に[[風流踊]]が流行し、翌年の夏にも再発した。この際、氏真はみずから太鼓を叩いて興じたという。同書は三浦右衛門佐が氏真に勧めて風流踊を流行させたとし、亡国の兆しとして描いている。<br />
<br />
=== 戦国大名今川氏の滅亡 ===<br />
{{main|駿河侵攻}}<br />
<br />
今川氏の同盟国である[[甲斐国]]では永禄4年の[[川中島の戦い]]を契機に北信地域における越後上杉氏との抗争が収束し、外交方針の変化を迎える。桶狭間の後に氏真は駿河国に隣接する甲斐国河内領主の[[穴山信友]]を介して甲駿同盟の確認を行なっているが、永禄8年([[1565年]])には氏真妹・[[嶺松院]]を室とする武田家嫡男の[[武田義信]]が廃嫡される事件が発生し<ref group="注釈">義信事件。義信事件の経緯については[[武田義信]]を参照。</ref>、同年11月に嶺松院は今川家に還され、甲駿関係においては婚姻が解消された。<br />
<br />
同時期に武田家では世子・[[武田勝頼|諏訪勝頼]]の正室に信長養女を迎え、さらに徳川家康とも盟約を結んだ。これにより甲駿関係は緊迫し、氏真は[[越後国]]の上杉謙信と和睦し、[[相模国]]の北条氏康とともに甲斐国への[[荷留|塩止め]]を行ったという<ref name="souran">『史料綜覧』。</ref>が、[[武田信玄]]は徳川家康や織田信長と同盟を結んで対抗したため、これは決定的なものにはならなかった。<br />
<br />
永禄11年([[1568年]])末に甲駿同盟は手切に至り、12月6日に信玄は甲府を発して駿河への侵攻を開始した([[駿河侵攻]])。12月12日、[[薩た峠|薩{{lang|zh|埵}}峠]]で武田軍を迎撃するため氏真も[[興津]]の[[清見寺]]に出陣したが、[[瀬名信輝]]や[[葛山氏元]]・[[朝比奈政貞]]・[[三浦義鏡]]など駿河の有力国人21人が信玄に通じたため、12月13日に今川軍は潰走し、[[駿府]]もたちまち占領された。氏真は朝比奈泰朝の居城・[[掛川城]]へ逃れた。早川殿のための乗り物も用意できず、また代々の判形も途中で紛失するというあわただしい逃亡であった。しかし、遠江国にも今川領分割を信玄と約していた徳川家康が侵攻し、その大半が制圧される。12月27日には徳川軍によって掛川城が包囲されたが、泰朝をはじめとした家臣たちの奮闘で半年近くの籠城戦となった。<br />
<br />
早川殿の父・氏康は救援軍を差し向け、薩{{lang|zh|埵}}峠に布陣。戦力で勝る北条軍が優勢に展開するものの、武田軍の撃破には至らず戦況は膠着した。徳川軍による掛川包囲戦が長期化する中で、信玄は約定を破って遠江への圧迫を強めたため、家康は氏真との和睦を模索する。永禄12年([[1569年]])5月17日、氏真は家臣たちの助命と引き換えに掛川城を開城した。この時に氏真・家康・氏康の間で、武田勢力を駿河から追い払った後は、氏真を再び駿河の国主とするという盟約が成立する。<br />
<br />
しかし、この盟約は結果的に履行されることはなく、氏真およびその子孫が領主の座に戻らなかったことから、一般的には、この掛川城の開城をもって戦国大名としての今川氏の滅亡(統治権の喪失)と解釈されている。<br />
<br />
=== 流転 ===<br />
掛川城の開城後、氏真は妻早川殿の実家である[[後北条氏|北条氏]]を頼り、蒲原を経て[[戸倉城_(伊豆国)|伊豆戸倉城]]に入った([[大平城]]との見解もある<ref>黒田基樹「北条氏の駿河防衛と諸城」『武田氏研究』17</ref>)。のち[[小田原]]に移り、早川に屋敷を与えられる<ref>『校訂松平記』</ref>。<br />
永禄12年([[1569年]])5月23日、氏真は[[北条氏政]]の嫡男・国王丸(後の[[北条氏直|氏直]])を猶子とし、国王丸の成長後に駿河国を譲ることを約した(この時点で嫡男の[[今川範以|範以]]はまだ生まれていない)。また、[[武田氏]]への共闘を目的に上杉謙信のもとに使者を送り、今川・北条・上杉三国同盟を結ぶ(実態は[[越相同盟]])。駿河国では[[岡部正綱]]が一時駿府を奪回し、花沢城の小原鎮実が武田氏への抗戦を継続するなど今川勢力の活動はなお残っており、氏真を後援する北条氏による出兵も行われた。抗争中の駿河に対して氏真は多くの安堵状や感状を発給している。これらの書状の実効性を疑問視する見解もあるが、氏真が駿河国に若干の直轄領を持ち、国王丸の代行者・補佐役として北条氏の駿河統治の一翼を担ったとの見方もある<ref>[[久保田昌希]]「懸川開城後の今川氏真と後北条氏」『駒沢史学』39・40合併号(1988年9月)、[[酒入陽子]]「懸川開城後の今川氏真について」『戦国史研究』39(2000年2月)。</ref>。<br />
しかし、蒲原城の戦いなどで北条軍は敗れ、今川家臣も順次武田氏の軍門に降るなどしたため、[[元亀]]2年([[1571年]])頃には大勢が決し、氏真は駿河国の支配を回復することはできなかった。<br />
<br />
[[元亀]]2年([[1571年]])10月に氏康が死ぬと、後を継いだ氏政は外交方針を転換して武田氏と和睦した(甲相一和)。12月に氏真は相模国を離れ、家康の庇護下に入った<ref group="注釈">『校訂松平記』によると、信玄が氏真の殺害を図って小田原に人を送ったためという。『北条五代記』にも同様の記事があり、氏真が「中々に世をも人をも恨むまじ 時にあはぬを身の科にして」という一首を詠んだと記されている。</ref>。<br />
掛川城開城の際の講和条件を頼りにしたと見られるが、家康にとっても旧国主の保護は駿河統治の大義名分を得るものであった。元亀3年([[1572年]])に入ると、氏真は興津清見寺に文書を下すなど、若干の動きを見せている。天正元年(1573年)には[[大湊 (伊勢市)|伊勢大湊]]の商人に預けていた氏真の茶道具を信長が買い上げようとしたことがあり、その際に信長家臣と大湊商人の間で交わされた文書から、氏真が浜松に滞在していたことがわかる。<br />
<br />
天正3年([[1575年]])の行動は、この年1月から9月頃までに詠んだ歌428首を収めた私歌集『今川氏真詠草』([[内閣文庫]]蔵)に書き残されている。氏真は1月に(おそらく浜松から)吉田・岡崎などを経て上洛の旅に出、京都到着後は社寺を参詣したり[[三条西実澄]]ら旧知の公家を訪問したりしている<ref name="eisou">『今川氏真詠草』</ref>。<br />
『[[信長公記]]』によると、3月16日に家康の同盟者にして「父の仇」でもある織田信長と[[京都]]の[[相国寺]]で会見した。信長は氏真に蹴鞠を所望し、同20日に相国寺において公家たちとともに信長に蹴鞠を披露している<ref group="注釈">氏真は16日の会見以前に「千鳥の香炉」「宗祇香炉」を献上しており、この日の会見で、信長は宗祇香炉のみを氏真に返却している。</ref>。<br />
『今川氏真詠草』にはこの会見に関する感慨は記されていない。4月、武田勝頼が三河国長篠に侵入したことを聞くと([[長篠の戦い]])京都を出立して三河国に戻り、5月15日から牛久保で後詰を務めている<ref>『今川氏真詠草』。おそらく家康に従ったものと思われる。『続武家閑談』『紀伊国物語』にも氏真が家康に同道していたことが記されている。</ref>。<br />
氏真に仕えていた[[朝比奈泰勝]]は、家康の許に使者に訪れた際に設楽原での戦闘に参加し、[[内藤昌豊]]を討ち取り、家康の直臣になったという<ref>『校訂松平記』</ref>。<br />
<br />
長篠の合戦後、氏真も残敵掃討に従事したのち、5月末からは数日間旧領駿河国にも進入し、各地に放火している<ref name="eisou"/>。<br />
7月中旬には[[諏訪原城]](現在の[[静岡県]][[島田市]])攻撃に従った。諏訪原城は8月に落城して牧野城と改名する。天正4年(1576年)3月17日、家康は牧野城主に氏真を置き、[[松平家忠]]・[[松平康親]]に補佐させた<ref name="souran"/>。<br />
しかし、天正5年(1577年)3月1日に氏真は浜松に召還されている。1年足らずでの城主解任であった。また、城主時代に剃髪したらしく、牧野城主解任時に家臣・海老江弥三郎に暇を与えた文書では'''宗誾'''(そうぎん)と号している<ref name="souran"/>。<br />
この文書が、今川家当主として氏真が発給した現存最後の文書となる。<br />
<br />
=== 後半生 ===<br />
牧野城主解任後の動向は不明であるが、松平家忠の『家忠日記』に断続的に登場しており、氏真は浜松周辺にいたのではないかと推測される。天正7年(1579年)10月には浜松城の家忠の詰所を氏真が訪問しており、その後に家康の饗応も受けている。また「氏真衆」と呼ばれる家臣がおり、『家忠日記』には彼らとの交際も記されている。天正11年([[1583年]])7月、[[近衛前久]]が浜松を訪れ、家康が饗応した際には、氏真も陪席している<ref>『景憲家伝』、『明良洪範』</ref>。<br />
この後しばらくの消息は再びわからなくなる。<br />
<br />
[[天正]]19年([[1591年]])9月、[[山科言経]]の日記『言経卿記』に氏真は姿を現す。この頃までには京都に移り住んだと推測される。仙巌斎(仙岩斎)という斎号を持つようになった氏真は、言経はじめ[[冷泉為満]]・[[冷泉為将]]ら旧知・姻戚の[[公家]]などの文化人と往来し、冷泉家の月例和歌会や[[連歌]]の会などにしきりに参加したり、古典の借覧・書写などを行っていたことが記されている。[[文禄]]4年([[1595年]])の『言経卿記』には言経が氏真と共に[[石川家成]]を訪問するなど、この時期にも徳川家と何らかのつながりがあることが推測される<ref>井上宗雄「今川氏とその学芸」、『今川氏と観泉寺』p.671</ref>。<br />
<br />
京都在住時代の氏真は、[[豊臣秀吉]]あるいは家康から与えられた所領からの収入によって生活をしていたと推測されている<ref group="注釈">『[[志士清談]]』によると、氏真は秀吉の頃に400石の捨扶持を与えられ、京都四条で世捨て人のような暮らしをしていたという。</ref>。<br />
のちの慶長17年([[1612年]])に、家康から近江国野洲郡長島村(現在の[[滋賀県]][[野洲市]]長島)の「旧地」500石を安堵されているが<ref>『寛政重修諸家譜』、『略譜』(大日本史料所収)</ref>、この「旧地」の由来や性格ははっきりしていない<ref group="注釈">今川家の衰微を見かねた若王子が分けたもの(『甲子夜話続編』)、建武年間に[[今川範国]]が領主だった由来のもの(『観泉寺と今川氏』p.125が引く『神社明細帳』所収の長島神社由緒)、室町時代に今川家が在京費用のために領有していたもの(『観泉寺と今川氏』p.11が引く野洲郡西運寺所蔵「御位牌之縁起」)など諸説ある。</ref>。<br />
<br />
[[慶長]]3年([[1598年]])、氏真の次男・[[品川高久]]が[[徳川秀忠]]に出仕している。慶長12年([[1607年]])には長男の[[今川範以|範以]]が京都で没する。慶長16年([[1611年]])には、範以の遺児・[[今川直房|範英]](直房)が徳川秀忠に出仕した。<br />
<br />
『言経卿記』の氏真記事は、慶長17年([[1612年]])正月、冷泉為満邸で行われた連歌会に出席した記事が最後となる。4月に氏真は、郷里の駿府で大御所家康と面会している<ref>『[[駿府記]]』慶長17年4月14日条</ref>。『寛政重修諸家譜』によれば、氏真の「旧地」が安堵されたのはこの時であり、また家康は氏真に対して品川に屋敷を与えたという。氏真はそのまま子や孫のいる[[江戸]]に移住したものと思われ、慶長18年([[1613年]])に長年連れ添った早川殿と死別した。<br />
<br />
慶長19年([[1614年]])[[12月28日 (旧暦)|12月28日]]、江戸で死去。享年77。葬儀は氏真の弟の[[一月長得]]が江戸[[市谷]]の[[萬昌院]]で行い、同寺に葬られた。[[寛文]]2年([[1662年]])、萬昌院が牛込に移転するのに際し、氏真の墓は早川殿の墓とともに、今川家知行地である[[武蔵国]][[多摩郡]]井草村(現在の[[東京都]][[杉並区]][[今川 (杉並区)|今川]]二丁目)にある宝珠山[[観泉寺]]に移された。<br />
<br />
== 研究 ==<br />
氏真の家督継承時期について、[[米原正義]]は弘治3年(1557年)正月の氏真邸の歌会始を今川家の歌会始とし、義元生前の家督譲渡の可能性をはじめて指摘した<ref name="yonehara">米原正義「今川氏の文芸」、同著『戦国武士と文芸の研究』(桜楓社、1976年)所収。</ref>。<br />
[[有光友學]]は「如律令」朱印の文書発給から永禄2年(1559年)5月段階で家督が継承されていたとする<ref>有光友學「今川義元-氏真の代替りについて」『戦国史研究』3(1982年)、「今川義元の生涯」『静岡県史研究』9(1993年)。</ref>。<br />
[[長谷川弘道]]は『言継卿記』弘治3年(1557年)正月の記載を「屋形五郎殿」と解釈し、この時点で家督継承がなされていたとする<ref>「今川氏真の家督継承について」『戦国史研究』23(1992年)。</ref>。<br />
ただし、時期を確定する上ではいずれも決定的とはいえない。<br />
<br />
== 人物 ==<br />
=== 後世の評価 ===<br />
[[松平定信]]が随筆『閑なるあまり』の中で「日本治りたりとても、油断するは[[足利義政|東山義政]]の茶湯、[[大内義隆]]の学問、今川氏真の歌道ぞ」と記しているように、江戸時代中期以降に書かれた文献の中では、[[和歌]]や[[蹴鞠]]といった娯楽に溺れ国を滅ぼした人物として描かれていることが多い。19世紀前半に編集された『[[徳川実紀]]』は、今川家の凋落について、桶狭間の合戦後に氏真が「父の讐とて信長にうらみを報ずべきてだてもなさず」、三河の国人たちが「氏真の柔弱をうとみ今川家を去りて当家〔徳川家〕に帰順」したと描写している。こうした文弱な暗君のイメージは、今日の歴史小説やドラマにおいてもしばしば踏襲されている。<br />
<br />
江戸時代初期に成立した『[[甲陽軍鑑]]』品第十一でも「鈍過たる大将(馬嫁なる大将)」として氏真が挙げられているが、氏真は心は剛毅であり戦闘も下手ではなかったと描かれている。批判の重点は、譜代の賢臣を重んじず、三浦義鎮のような「奸臣」を重用して失政を行ったという点に置かれている。<br />
<br />
=== 文化人としての氏真 ===<br />
和歌・連歌・蹴鞠などの技芸に通じた文化人であったという。<br />
<br />
==== 和歌 ====<br />
氏真は生涯に多くの[[和歌]]を詠んだ。観泉寺史編纂刊行委員会編『今川氏と観泉寺』には1658首が収録されている。<br />
<br />
氏真の少年時の文化的な環境から、駿河国に下向していた権大納言・[[冷泉為和]]や、詩歌に通じていた[[太原雪斎]]などから指導を受けたとも考えられるが、具体的なことは知られていない<ref name="inoue">井上宗雄「今川氏とその学芸」、『今川氏と観泉寺』</ref>。<br />
里村紹巴の『富士見道記』には、氏真が[[冷泉為益]](為和の子)から作法の伝授を受けたと記されている<ref name="yonehara"/>。<br />
<br />
『今川氏と観泉寺』を編纂した一人であり、中古・中世和歌史の研究者である[[井上宗雄]]は、氏真の作品を優美平明を旨とする中世和歌の伝統的手法に則った作品と評している。「その作品は、すべてが勝れたものでなく、全体的に当時の水準を抜くものではなかったにしろ、時には水準に迫り、また少数ながら新しみのある歌、個性的な歌が存することは注目される。なお多くの平凡な歌が全く無駄だったとは思われない。常に歌に精神の中心を置いていればこそ、緊張感のみなぎった時には、調べの張った、個性的な歌を生んだのである」<ref name="inoue"/>。氏真は、[[後水尾天皇]]選と伝えられる[[集外三十六歌仙]]にも名を連ねている(集外三十六歌仙は連歌師や武家歌人が多いことが特徴であり、ほかに武田信玄や北条氏康・氏政も数えられている)。<br />
<br />
==== 蹴鞠 ====<br />
織田信長の前で蹴鞠を披露した逸話で知られる。『信長公記』の記載では、氏真が蹴鞠をすることを聞き及んでいた信長が所望したという<ref>「今川殿鞠を遊ばさるゝの由聞食及ばれ、三月廿日、相国寺において御所望」。</ref>。<br />
同時代の史料で確認できる氏真と蹴鞠との関わりは、この『信長公記』の記載と、青年期の氏真に山科言継が鞠を贈ったという『言継卿記』の記載程度しかない。<br />
<br />
駿河に下向していた[[飛鳥井家|飛鳥井流宗家]]の[[飛鳥井雅綱]]から手ほどきを受けたとされる。江戸時代初期に成立した笑話集『[[醒睡笑]]』には、氏真が賀茂神社神官の[[松下述久]]に師事したことが記されている。<br />
<br />
==== 剣術 ====<br />
[[塚原卜伝]]に[[鹿島新当流|新当流]]の[[剣術]]を学んだ<ref name="bugeiryuuha">綿谷雪・山田忠史編『武芸流派大事典』(新人物往来社、1969年)。</ref>。<br />
<br />
なお、江戸時代の剣・居合・棒術の流派に、駿河の今川越前守義真(義直、吉道とも)を始祖と称する「今川流」、[[仙台藩]]に伝わる剣・居合の流派に今川越前守重家(吉道とも)を始祖と称する「今川兼流」がある。綿谷雪・山田忠史編『武芸流派大事典』(新人物往来社、1969年)は、義真を氏真と同一人物と推測しているが、根拠は示されていない。[[笹間良彦]]『図説日本武道辞典』(普及版:柏書房、2003年)が引く『[[撃剣叢談]]』によると、今川越前守義真は駿河今川氏庶流の人物といい、氏真とは別人である。<br />
<br />
=== 交友関係 ===<br />
*[[山科言継]]<br />
:言継の義母([[山科言綱]]の正室)・黒木の方が寿桂尼の姉という関係で、黒木の方は妹を頼って駿河に下向していた。弘治2年([[1556年]])から翌年にかけての駿河下向の際の『言継卿記』は、貴重な史料となっている。言継の子・[[山科言経|言経]]との交友も深かった。<br />
*[[里村紹巴]]<br />
:永禄10年(1567年)に駿河を訪問した際の『富士見道記』では、氏真が連歌を興行していることが記録されている。<br />
*[[乗阿|一華堂乗阿]]<br />
:長善寺住持。武田信虎の庶子あるいは猶子とも伝える。<br />
*[[松平家忠]]<br />
:深溝松平氏当主。『家忠日記』には「氏真様」と敬称付きで記されている。<br />
*[[沢庵宗彭]]<br />
:交友があったらしく、『明暗双々記』に氏真の死を悼む詩を残している。<br />
<br />
=== 逸話 ===<br />
氏真に関しては、以下のような逸話が伝えられている。<br />
*『[[続武家閑談]]』は、天正10年(1582年)に武田氏が滅ぼされた際、家康が信長に「駿河を氏真に与えたらどうか」と言ったと記す。信長は「役にも立たない氏真に駿河を与えられようか、不要な人を生かすよりは腹を切らせたらいい」と答えた。これを伝え聞いて氏真は驚き、いずれかへ逃げ去っていたが、そのうちに[[本能寺の変]]が発生したという。<br />
*『[[及聞秘録]]』には、晩年家康を頼った氏真が江戸城をたびたび訪れては長話をしたために家康が辟易し、江戸城から離れた品川に屋敷を与えたと記されている。<br />
*『[[故老諸談]]』には、氏真と家康が和歌について談じたことが記される。氏真が和歌の道の奥深さや言葉選びの難しさを語るのに対して、家康は技法にこだわるよりも思いのままに詠むのがよいと返している。<br />
<br />
=== 肖像画 ===<br />
妻の早川殿と対になった[[肖像画]](遺像)があり、現在米国の個人が所蔵している。元和4年(1618年)2月に著された雲屋祖泰([[妙心寺]]107世)の讃から、没後間もない時期に遺族によって供養・追慕のために描かれたものとみられる<ref>小林明「紙本著色今川氏真・同夫人像について」『静岡県史研究』9(1993年)</ref>。『静岡県史研究』9(1993年)に口絵として大型の図版(モノクロ)が掲載されているほか、『図説静岡県史(静岡県史別編3)』(1998年)が夫妻の肖像をカラーで載せている。近年発行された入手しやすい書籍では有光(2008年)が氏真像のみを図版として載せている。<br />
== 脚注 ==<br />
=== 注釈 ===<br />
{{reflist|group="注釈"|2}}<br />
=== 出典 ===<br />
{{reflist|2}}<br />
<br />
== 参考文献 ==<br />
* 観泉寺史編纂刊行委員会編『今川氏と観泉寺』(吉川弘文館、1974年)<br />
* 米原正義『戦国武士と文芸の研究』(桜楓社、1976年)<br />
* 『静岡県史 通史編2 中世』(静岡県、1997年)<br />
* 有光友學『今川義元』(吉川弘文館、2008年)<br />
<br />
== 関連作品 ==<br />
; 小説<br />
* [[赤木駿介]]『天下を汝に―戦国外交の雄・今川氏真』([[新潮社]]、[[1991年]]) ISBN 4103819014<br />
* [[戸部新十郎]]「睡猫」([[徳間文庫]]・『秘剣龍牙』収録)<br />
* [[伊東潤]] 『国を蹴った男』([[講談社]] 2012.10.)<br />
; テレビドラマ<br />
* [[太閤記 (NHK大河ドラマ)|太閤記]](昭和40年([[1965年]])、[[日本放送協会|NHK]][[大河ドラマ]]、演:[[高野恭明]])<br />
* [[天と地と (NHK大河ドラマ)|天と地と]](昭和44年([[1969年]])、NHK大河ドラマ、演:[[阿知波信介]])<br />
* [[徳川家康 (NHK大河ドラマ)|徳川家康]](昭和58年([[1983年]])、NHK大河ドラマ、演:[[林与一]])<br />
* [[武田信玄 (NHK大河ドラマ)|武田信玄]](昭和63年([[1988年]])、NHK大河ドラマ、演:[[神田雄次]])<br />
* [[風林火山 (NHK大河ドラマ)|風林火山]](平成19年([[2007年]])、NHK大河ドラマ、演:[[風間由次郎]])<br />
<br />
{{今川氏歴代当主||第12代|1558年 - 1611年}}<br />
{{DEFAULTSORT:いまかわ うしさね}}<br />
[[Category:今川氏|うしさね]]<br />
[[Category:戦国大名]]<br />
[[Category:戦国武将]]<br />
[[Category:駿河国の人物]]<br />
[[Category:1538年生]]<br />
[[Category:1615年没]]<br />
<br />
[[en:Imagawa Ujizane]]<br />
[[eo:Imagawa Ujizane]]<br />
[[fr:Ujizane Imagawa]]<br />
[[zh:今川氏真]]</div>
桂鷺淵
https://de.wikipedia.org/w/index.php?title=Imagawa_Ujizane&diff=135799427
Imagawa Ujizane
2012-04-05T15:04:25Z
<p>桂鷺淵: </p>
<hr />
<div>{{基礎情報 武士<br />
| 氏名 = 今川氏真<br />
| 画像 =<br />
| 画像サイズ =<br />
| 画像説明 = <br />
| 時代 = [[戦国時代 (日本)|戦国時代]] - [[安土桃山時代]]<br />
| 生誕 = [[天文 (元号)|天文]]7年([[1538年]])<ref>『[[寛政重修諸家譜]]』に記された没年齢からの逆算。なお、[[桑田忠親]]は天文8年([[1539年]])生まれと述べている。</ref><br />
| 死没 = [[慶長]]19年[[12月28日 (旧暦)|12月28日]]([[1615年]][[1月27日]])<br />
| 改名 = 龍王丸(幼名)<ref name="幼名と仮名">[[大石泰史]]「今川氏真の幼名と仮名」『戦国史研究』23(1992年2月)</ref>→氏真→宗誾(法名)<br />
| 別名 = 彦五郎、五郎<ref name="幼名と仮名" />([[仮名 (通称)|通称]])、仙巖斎(斎号)<br />
| 戒名 = 仙岩院殿豊山泰英大居士<ref>『今川氏と観泉寺』p.74「近世今川家歴代法号一覧表」による。この他、以下のような記載もある。<br />「仙岩院豊山泰永居士」(『北条氏過去帳』高野山高室院本〔『[[大日本史料]]』第十二編之十七所収〕)、<br />「仙岩院殿量山泰栄大居士」(『[[萬昌院功運寺|牛込御殿山久宝山万昌院]]鬼簿』〔『[[朝野旧聞襃藁]]』七百五十四所載〕)、<br />「仙巌院殿機峯宗峻大居士」(『[[今川家略記]]』)、<br />「仙巌院殿機峯俊貌大居士」(今川氏真肖像画の雲屋祖泰著賛)<br /></ref><br />
| 墓所 = [[東京都]][[中野区]][[上高田]]の[[萬昌院功運寺]]<br />東京都[[杉並区]]今川の[[観泉寺]]<br />
| 官位 = 従四位下、上総介、刑部大輔<ref>『寛政重修諸家譜』による。永禄4年(1561年)1月20日の足利義輝御内書では氏真が「上総介」とされる。</ref><br />治部大輔<ref>『[[瑞光院記]]』には永禄3年([[1560年]])5月8日、義元が三河守に遷任された際に氏真は治部大輔に任官したとされる。『[[歴名土代]]』には、永禄4年(1561年)5月8日に治部大輔に任官されたとある[http://books.google.co.jp/books?id=RF2CLxUiErIC&lpg=PP1&dq=%E6%AD%B4%E5%90%8D%E5%9C%9F%E4%BB%A3&hl=ja&pg=PA211#v=onepage&q=%E4%BB%8A%E5%B7%9D&f=false]。</ref><br />
| 幕府 = [[室町幕府]]御[[相伴衆]]<br/>[[駿河国|駿河]]・[[遠江国|遠江]][[守護]]職?<ref>両国の守護は祖父氏親以来今川氏が世襲しているが、氏真の守護職補任を確認できる史料は残されていない。</ref><br />
| 主君 = [[足利義輝]]→[[北条氏康]]→[[北条氏政|氏政]]→[[徳川家康]]<br />
| 氏族 = [[今川氏]]<br />
| 父母 = 父:[[今川義元]]、母:[[定恵院]]<br />
| 兄弟 = '''氏真'''、[[嶺松院]]([[武田義信]]室)、[[一月長得]]、<br>[[隆福院]]、[[牟礼勝重]]室<br />
| 妻 = 正室:'''[[早川殿]]'''([[北条氏康]]の娘)<br>側室:[[庵原忠康]]の娘<br />
| 子 = 娘([[吉良義定]]室)<ref>生年は明らかではないが、子の[[吉良義弥|義弥]](天正14年、1586年)の生年から、駿河時代の子と推測される。氏真が北条氏を頼って逃れた際の文書に「氏真・御二方」を引き取ったという文言があることから、氏真は早川殿とともに娘を伴っていたと考えられることも、推測を補強する。長谷川弘道「今川氏真没落期の家族について」『戦国史研究』27(1994年2月)</ref>、'''[[今川範以|範以]]'''、[[品川高久]]、<br>[[西尾安信]]<ref>伝十郎と称した。生年は不詳。慶長18年([[1613年]])11月3日没。</ref>、[[澄存]]<ref>天正7年([[1579年]])生まれの末子。[[聖護院]]准后道澄の弟子となる。[[熊野若王子神社|若王子]]住職・熊野三山修験道本山奉行となり、[[承応]]元年([[1652年]])に没した。</ref><br>猶子:''[[北条氏直]]''}}<br />
<br />
'''今川 氏真'''(いまがわ うじざね)は、[[戦国時代 (日本)|戦国時代]]から[[安土桃山時代]]にかけての[[武将]]。[[駿河国]]の[[戦国大名]]。駿河[[今川氏]]10代当主<ref>はじめて駿河守護となった[[今川範国|範国]]から数えた代数。家祖・[[今川国氏|国氏]]から数えると12代目ということになる。</ref>。<br />
<br />
父[[今川義元|義元]]が[[桶狭間の戦い]]で[[織田信長]]によって討たれたためその領国を受け継いだが、[[武田信玄]]と[[徳川家康]]の侵攻を受けて敗れ、戦国大名としての今川家は滅亡した。その後は北条氏を頼り、最終的には[[徳川家康]]の庇護を受けた。今川家は[[江戸幕府]]のもとで[[高家 (江戸時代)|高家]]として家名を残した。<br />
<br />
== 生涯 ==<br />
=== 家督相続 ===<br />
[[天文 (元号)|天文]]7年([[1538年]])、義元と[[定恵院]]([[武田信虎]]の娘)との間に[[嫡子]]として生まれる。天文23年([[1554年]])、[[北条氏康]]の長女・[[早川殿]]と結婚し、[[甲相駿三国同盟]]の成立に寄与した。<br />
<br />
[[弘治 (日本)|弘治]]2年([[1556年]])から翌年にかけて駿河国を訪問した[[山科言継]]の日記『言継卿記』には、青年期の氏真も登場している。言継は、弘治3年([[1557年]])正月に氏真が自邸で開いた和歌始に出席したり、氏真に書や鞠を送ったりしたことを記録している。<br />
<br />
氏真は[[永禄]]元年([[1558年]])より駿河・遠江に文書を発給しており<ref>初見文書は永禄元年閏6月24日付の遠江国河匂庄老間村の寺庵中宛安堵状。</ref>、この前後に義元から氏真に[[家督]]が譲られたとするのが、研究上の主流の見解である([[#研究]])。<br />
<br />
この時期の三河国への文書発給は義元の名で行われていることから、義元が新領土である三河国の掌握と尾張国からさらに西方への軍事行動に専念するため、氏真に家督を譲り形式上隠居し本国である駿河・遠江の経営を委ねたとする見方が提示されている<ref>有光(2008年)273~275ページ。</ref>。<br />
<br />
永禄3年([[1560年]])5月19日、[[尾張国]]に侵攻した義元が[[桶狭間の戦い]]で織田信長に討たれたため、氏真は名実ともに今川家の領国を継承することとなった。<br />
<br />
=== 相次ぐ離反 ===<br />
[[桶狭間の戦い]]では、今川家の重臣([[由比正信]]・[[一宮宗是]]など)や[[国人]]([[松井宗信]]・[[井伊直盛]]など)が多く討死した。[[三河国|三河]]・[[遠江国|遠江]]の国人の中には、今川家の統治に対する不満や当主死亡を契機とする紛争が広がり、今川家からの離反の動きとなって現れた。<br />
<br />
三河国の国人は、義元の対織田戦の陣頭に動員されており、その犠牲も大きかった。氏真は三河国の寺社・国人・商人に多数の安堵状を発給し、動揺を防ぐことを試みている。<br />
<br />
しかし、[[西三河]]地域は桶狭間の合戦後旧領[[岡崎城]]に入った[[徳川家康|松平元康]](1563年家康に改名)の勢力下に入った。永禄4年(1561年)正月には[[足利義輝]]が氏真と元康との和解を促しており、北条氏康が仲介に入ったこともあるが、元康は今川家と断交し、信長と結ぶことを選ぶ。<br />
<br />
[[東三河]]でも、国人領主たちは氏真が新たな人質を要求したことにより不満を強め、今川家を離反して松平方につく国人と今川方に残る国人との間での抗争が広がる(三州錯乱)。永禄4年([[1561年]])、今川家から離反した[[菅沼定盈]]の[[野田城 (三河国)|野田城]]攻めに先立って、[[小原鎮実]]は人質十数名を[[龍拈寺]]で処刑するが、この措置は多くの東三河勢の離反を決定的なものにした。<br />
<br />
元康は永禄5年([[1562年]])正月には信長と[[清洲同盟]]を結び、今川氏の傘下から独立する姿勢を明らかにする。永禄5年([[1562年]])2月、氏真は自ら兵を率いて[[牛久保城]]に出兵し一宮砦を攻撃したが、「一宮の後詰」と呼ばれる元康の奮戦で撃退されている。このとき、駿府に滞在していた外祖父・[[武田信虎]]の動きが不穏であり、氏真は途中で軍を返したともいう<ref>『校訂松平記』による。この合戦については永禄7年(1564年)に起こったものとするもの(『三河物語』など)もあり、細部も異なる話も伝えられている。</ref>。<br />
永禄7年([[1564年]])6月には東三河の拠点である[[吉田城_(三河国)|吉田城]]が開城し、今川氏の勢力は三河から駆逐される。<br />
<br />
遠江国においても家臣団・国人の混乱が広がり、[[井伊谷]]の[[井伊直親]]、[[浜松城|曳馬城]]主・[[飯尾連竜]]、見付の[[堀越氏延]]、犬居の[[天野景泰]]らによる離反の動きが広がった(遠州忩劇、遠州錯乱)。永禄5年(1562年)には謀反が疑われた井伊直親を重臣の[[朝比奈泰朝]]に誅殺させている。ついで永禄7年(1564年)には飯尾連竜が家康と内通して反旗を翻した。氏真は、重臣・[[三浦正俊]]らに命じて曳馬城を攻撃させるが陥落させることができず、逆に正俊が戦死してしまう。その後、和議に応じて降った連竜を永禄8年([[1565年]])12月に謀殺した。飯尾氏家臣たちが籠城する曳馬城には再び攻撃がかけられ、翌9年(1566年)4月に開城することによって反乱は終息をみた<ref>小和田哲男「今川家臣団崩壊過程の一齣」『静岡大学教育学部研究報告』39.</ref>。<br />
<br />
氏真は祖母・寿桂尼の後見を受けて政治を行っていたと見られる。永禄3年(1560年)後半から永禄5年(1562年)にかけて氏真は活発な文書発給を行い、寺社・被官・国人のつなぎ止めを図っている。外交面では北条氏との連携を維持し、永禄4年(1561年)3月には長尾景虎(後の[[上杉謙信]])の関東侵攻に対して北条家に援兵を送り、川越城での籠城戦に加わらせている。また、永禄4年(1561年)に[[室町幕府]]の[[相伴衆]]の格式に列しており、幕府の権威によって領国の混乱に対処しようとしたと考えられる<ref>[[平野明夫]]「今川氏真と室町将軍」『戦国史研究』40(2000年8月)。『静岡県史』は永禄6年(1563年)5月に御相伴衆になったとする。</ref>。<br />
<br />
内政面では、永禄9年([[1566年]])4月に[[富士宮市|富士大宮]]の[[六斎市]]を「富士大宮楽市令」により[[楽市・楽座|楽市]]とし<ref>大宮司富士家文書</ref>、[[徳政令|徳政]]の実施を命じたり<ref>久保田昌希「戦国大名今川氏の徳政について」『日本文化の社会的基盤』(1976年).</ref>、役の免除などを行ったりした<ref>[[若林淳之]]「今川氏真の苦悶―今川政権の終焉―」『静岡大学教育学部研究報告』6(1955年)。若林は、氏真が国人的土豪層を基盤とする従来の[[守護大名]]的秩序の行き詰まりを受け、直接年貢負担者([[本百姓]])を基盤とする[[戦国大名]]的秩序への脱皮を図ったが、再編の混乱の中で侵攻を受け成果を見なかったと評価している。</ref>。<br />
楽市は有名な[[織田信長]]より先んじた政策であった。しかし、これらの政策も、衰退をとどめることはできなかった。<br />
<br />
『[[甲陽軍鑑]]』など後世に記された諸書には、氏真が遊興に耽るようになり、家臣の[[三浦義鎮]](右衛門佐、小原鎮実の子)を寵愛して政務を任せっきりにしたとする。また、政権末期にはこうした特定家臣の寵用や重臣の腐敗などの問題が表面化しつつあったと指摘されている<ref>若林淳之「今川氏真の苦悶」</ref>。<br />
<br />
[[里村紹巴]]が永禄10年([[1567年]])5月に駿河を訪問した際に記した『富士見道記』では、氏真をはじめ領内の寺社や公家宅で盛んに連歌の会や茶会を興行していることが記録されている。この時期も[[三条西実澄]]や[[冷泉為益]]が駿府に滞在しており、氏真政権末期にも歌壇は盛んであった。『校訂松平記』によると、永禄10年7月には駿河に[[風流踊]]が流行し、翌年の夏にも再発した。この際、氏真はみずから太鼓を叩いて興じたという。同書は三浦右衛門佐が氏真に勧めて風流踊を流行させたとし、亡国の兆しとして描いている。<br />
<br />
=== 戦国大名今川氏の滅亡 ===<br />
{{main|駿河侵攻}}<br />
<br />
今川氏の同盟国である[[甲斐国]]では永禄4年の[[川中島の戦い]]を契機に北信地域における越後上杉氏との抗争が収束し、外交方針の変化を迎える。桶狭間の後に氏真は駿河国に隣接する甲斐国河内領主の[[穴山信友]]を介して甲駿同盟の確認を行なっているが、永禄8年([[1565年]])には氏真妹・[[嶺松院]]を室とする武田家嫡男の[[武田義信]]が廃嫡される事件が発生し<ref>義信事件。義信事件の経緯については[[武田義信]]を参照。</ref>、同年11月に嶺松院は今川家に還され、甲駿関係においては婚姻が解消された。<br />
<br />
同時期に武田家では世子・[[武田勝頼|諏訪勝頼]]の正室に信長養女を迎え、さらに徳川家康とも盟約を結んだ。これにより甲駿関係は緊迫し、氏真は[[越後国]]の上杉謙信と和睦し、[[相模国]]の北条氏康とともに甲斐国への[[荷留|塩止め]]を行ったという<ref name="souran">『史料綜覧』。</ref>が、[[武田信玄]]は徳川家康や織田信長と同盟を結んで対抗したため、これは決定的なものにはならなかった。<br />
<br />
永禄11年([[1568年]])末に甲駿同盟は手切に至り、12月6日、に信玄は甲府を発して駿河への侵攻を開始した([[駿河侵攻]])。12月12日、[[薩た峠|薩{{lang|zh|埵}}峠]]で武田軍を迎撃するため氏真も[[興津]]の[[清見寺]]に出陣したが、[[瀬名信輝]]や[[葛山氏元]]・[[朝比奈政貞]]・[[三浦義鏡]]など駿河の有力国人21人が信玄に通じたため、12月13日に今川軍は潰走し、[[駿府]]もたちまち占領された。氏真は朝比奈泰朝の居城・[[掛川城]]へ逃れた。早川殿のための乗り物も用意できず、また代々の判形も途中で紛失するというあわただしい逃亡であった。しかし、遠江国にも今川領分割を信玄と約していた徳川家康が侵攻し、その大半が制圧される。12月27日には徳川軍によって掛川城が包囲されたが、泰朝をはじめとした家臣たちの奮闘で半年近くの籠城戦となった。<br />
<br />
早川殿の父・氏康は救援軍を差し向け、薩{{lang|zh|埵}}峠に布陣。戦力で勝る北条軍が優勢に展開するものの、武田軍の撃破には至らず戦況は膠着した。徳川軍による掛川包囲戦が長期化する中で、信玄は約定を破って遠江への圧迫を強めたため、家康は氏真との和睦を模索する。永禄12年([[1569年]])5月17日、氏真は家臣たちの助命と引き換えに掛川城を開城した。この時に氏真・家康・氏康の間で、武田勢力を駿河から追い払った後は、氏真を再び駿河の国主とするという盟約が成立する。<br />
<br />
しかし、この盟約は結果的に履行されることはなく、氏真およびその子孫が領主の座に戻らなかったことから、一般的には、この掛川城の開城をもって戦国大名としての今川氏の滅亡(統治権の喪失)と解釈されている。<br />
<br />
=== 流転 ===<br />
掛川城の開城後、氏真は妻早川殿の実家である[[後北条氏|北条氏]]を頼り、蒲原を経て[[戸倉城_(伊豆国)|伊豆戸倉城]]に入った([[大平城]]との見解もある<ref>黒田基樹「北条氏の駿河防衛と諸城」『武田氏研究』17</ref>)。のち[[小田原]]に移り、早川に屋敷を与えられる<ref>『校訂松平記』</ref>。<br />
永禄12年([[1569年]])5月23日、氏真は[[北条氏政]]の嫡男・国王丸(後の[[北条氏直|氏直]])を猶子とし、国王丸の成長後に駿河国を譲ることを約した(この時点で嫡男の[[今川範以|範以]]はまだ生まれていない)。また、[[武田氏]]への共闘を目的に上杉謙信のもとに使者を送り、今川・北条・上杉三国同盟を結ぶ(実態は[[越相同盟]])。駿河国では[[岡部正綱]]が一時駿府を奪回し、花沢城の小原鎮実が武田氏への抗戦を継続するなど今川勢力の活動はなお残っており、氏真を後援する北条氏による出兵も行われた。抗争中の駿河に対して氏真は多くの安堵状や感状を発給している。これらの書状の実効性を疑問視する見解もあるが、氏真が駿河国に若干の直轄領を持ち、国王丸の代行者・補佐役として北条氏の駿河統治の一翼を担ったとの見方もある<ref>[[久保田昌希]]「懸川開城後の今川氏真と後北条氏」『駒沢史学』39・40合併号(1988年9月)、[[酒入陽子]]「懸川開城後の今川氏真について」『戦国史研究』39(2000年2月)。</ref>。<br />
しかし、蒲原城の戦いなどで北条軍は敗れ、今川家臣も順次武田氏の軍門に降るなどしたため、[[元亀]]2年([[1571年]])頃には大勢が決し、氏真は駿河国の支配を回復することはできなかった。<br />
<br />
[[元亀]]2年([[1571年]])10月に氏康が死ぬと、後を継いだ氏政は外交方針を転換して武田氏と和睦した(甲相一和)。12月に氏真は相模国を離れ、家康の庇護下に入った<ref>『校訂松平記』によると、信玄が氏真の殺害を図って小田原に人を送ったためという。『北条五代記』にも同様の記事があり、氏真が「中々に世をも人をも恨むまじ 時にあはぬを身の科にして」という一首を詠んだと記されている。</ref>。<br />
掛川城開城の際の講和条件を頼りにしたと見られるが、家康にとっても旧国主の保護は駿河統治の大義名分を得るものであった。元亀3年([[1572年]])に入ると、氏真は興津清見寺に文書を下すなど、若干の動きを見せている。天正元年(1573年)には[[大湊 (伊勢市)|伊勢大湊]]の商人に預けていた氏真の茶道具を信長が買い上げようとしたことがあり、その際に信長家臣と大湊商人の間で交わされた文書から、氏真が浜松に滞在していたことがわかる。<br />
<br />
天正3年([[1575年]])の行動は、この年1月から9月頃までに詠んだ歌428首を収めた私歌集『今川氏真詠草』([[内閣文庫]]蔵)に書き残されている。氏真は1月に(おそらく浜松から)吉田・岡崎などを経て上洛の旅に出、京都到着後は社寺を参詣したり[[三条西実澄]]ら旧知の公家を訪問したりしている<ref name="eisou">『今川氏真詠草』</ref>。<br />
『[[信長公記]]』によると、3月16日に家康の同盟者にして「父の仇」でもある織田信長と[[京都]]の[[相国寺]]で会見した。信長は氏真に蹴鞠を所望し、同20日に相国寺において公家たちとともに信長に蹴鞠を披露している<ref>氏真は16日の会見以前に「千鳥の香炉」「宗祇香炉」を献上しており、この日の会見で、信長は宗祇香炉のみを氏真に返却している。</ref>。<br />
『今川氏真詠草』にはこの会見に関する感慨は記されていない。4月、武田勝頼が三河国長篠に侵入したことを聞くと([[長篠の戦い]])京都を出立して三河国に戻り、5月15日から牛久保で後詰を務めている<ref>『今川氏真詠草』。おそらく家康に従ったものと思われる。『続武家閑談』『紀伊国物語』にも氏真が家康に同道していたことが記されている。</ref>。<br />
氏真に仕えていた[[朝比奈泰勝]]は、家康の許に使者に訪れた際に設楽原での戦闘に参加し、[[内藤昌豊]]を討ち取り、家康の直臣になったという<ref>『校訂松平記』</ref>。<br />
<br />
長篠の合戦後、氏真も残敵掃討に従事したのち、5月末からは数日間旧領駿河国にも進入し、各地に放火している<ref name="eisou"/>。<br />
7月中旬には[[諏訪原城]](現在の[[静岡県]][[島田市]])攻撃に従った。諏訪原城は8月に落城して牧野城と改名する。天正4年(1576年)3月17日、家康は牧野城主に氏真を置き、[[松平家忠]]・[[松平康親]]に補佐させた<ref name="souran"/>。<br />
しかし、天正5年(1577年)3月1日に氏真は浜松に召還されている。1年足らずでの城主解任であった。また、城主時代に剃髪したらしく、牧野城主解任時に家臣・海老江弥三郎に暇を与えた文書では'''宗誾'''(そうぎん)と号している<ref name="souran"/>。<br />
この文書が、今川家当主として氏真が発給した現存最後の文書となる。<br />
<br />
=== 後半生 ===<br />
牧野城主解任後の動向は不明であるが、松平家忠の『家忠日記』に断続的に登場しており、氏真は浜松周辺にいたのではないかと推測される。天正7年(1579年)10月には浜松城の家忠の詰所を氏真が訪問しており、その後に家康の饗応も受けている。また「氏真衆」と呼ばれる家臣がおり、『家忠日記』には彼らとの交際も記されている。天正11年([[1583年]])7月、[[近衛前久]]が浜松を訪れ、家康が饗応した際には、氏真も陪席している<ref>『景憲家伝』、『明良洪範』</ref>。<br />
この後しばらくの消息は再びわからなくなる。<br />
<br />
[[天正]]19年([[1591年]])9月、[[山科言経]]の日記『言経卿記』に氏真は姿を現す。この頃までには京都に移り住んだと推測される。仙巌斎(仙岩斎)という斎号を持つようになった氏真は、言経はじめ[[冷泉為満]]・[[冷泉為将]]ら旧知・姻戚の[[公家]]などの文化人と往来し、冷泉家の月例和歌会や[[連歌]]の会などにしきりに参加したり、古典の借覧・書写などを行っていたことが記されている。[[文禄]]4年([[1595年]])の『言経卿記』には言経が氏真と共に[[石川家成]]を訪問するなど、この時期にも徳川家と何らかのつながりがあることが推測される<ref>井上宗雄「今川氏とその学芸」、『今川氏と観泉寺』p.671</ref>。<br />
<br />
京都在住時代の氏真は、[[豊臣秀吉]]あるいは家康から与えられた所領からの収入によって生活をしていたと推測されている<ref>『[[志士清談]]』によると、氏真は秀吉の頃に400石の捨扶持を与えられ、京都四条で世捨て人のような暮らしをしていたという。</ref>。<br />
のちの慶長17年([[1612年]])に、家康から近江国野洲郡長島村(現在の[[滋賀県]][[野洲市]]長島)の「旧地」500石を安堵されているが<ref>『寛政重修諸家譜』、『略譜』(大日本史料所収)</ref>、この「旧地」の由来や性格ははっきりしていない<ref>今川家の衰微を見かねた若王子が分けたもの(『甲子夜話続編』)、建武年間に[[今川範国]]が領主だった由来のもの(『観泉寺と今川氏』p.125が引く『神社明細帳』所収の長島神社由緒)、室町時代に今川家が在京費用のために領有していたもの(『観泉寺と今川氏』p.11が引く野洲郡西運寺所蔵「御位牌之縁起」)など諸説ある。</ref>。<br />
<br />
[[慶長]]3年([[1598年]])、氏真の次男・[[品川高久]]が[[徳川秀忠]]に出仕している。慶長12年([[1607年]])には長男の[[今川範以|範以]]が京都で没する。慶長16年([[1611年]])には、範以の遺児・[[今川直房|範英]](直房)が徳川秀忠に出仕した。<br />
<br />
『言経卿記』の氏真記事は、慶長17年([[1612年]])正月、冷泉為満邸で行われた連歌会に出席した記事が最後となる。4月に氏真は、郷里の駿府で大御所家康と面会している<ref>『[[駿府記]]』慶長17年4月14日条</ref>。『寛政重修諸家譜』によれば、氏真の「旧地」が安堵されたのはこの時であり、また家康は氏真に対して品川に屋敷を与えたという。氏真はそのまま子や孫のいる[[江戸]]に移住したものと思われ、慶長18年([[1613年]])に長年連れ添った早川殿と死別した。<br />
<br />
慶長19年([[1614年]])[[12月28日 (旧暦)|12月28日]]、江戸で死去。享年77。葬儀は氏真の弟の[[一月長得]]が江戸[[市谷]]の[[萬昌院]]で行い、同寺に葬られた。[[寛文]]2年([[1662年]])、萬昌院が牛込に移転するのに際し、氏真の墓は早川殿の墓とともに、今川家知行地である[[武蔵国]][[多摩郡]]井草村(現在の[[東京都]][[杉並区]][[今川 (杉並区)|今川]]二丁目)にある宝珠山[[観泉寺]]に移された。<br />
<br />
== 研究 ==<br />
氏真の家督継承時期について、[[米原正義]]は弘治3年(1557年)正月の氏真邸の歌会始を今川家の歌会始とし、義元生前の家督譲渡の可能性をはじめて指摘した<ref name="yonehara">米原正義「今川氏の文芸」、同著『戦国武士と文芸の研究』(桜楓社、1976年)所収。</ref>。<br />
[[有光友學]]は「如律令」朱印の文書発給から永禄2年(1559年)5月段階で家督が継承されていたとする<ref>有光友學「今川義元-氏真の代替りについて」『戦国史研究』3(1982年)、「今川義元の生涯」『静岡県史研究』9(1993年)。</ref>。<br />
[[長谷川弘道]]は『言継卿記』弘治3年(1557年)正月の記載を「屋形五郎殿」と解釈し、この時点で家督継承がなされていたとする<ref>「今川氏真の家督継承について」『戦国史研究』23(1992年)。</ref>。<br />
ただし、時期を確定する上ではいずれも決定的とはいえない。<br />
<br />
== 人物 ==<br />
=== 後世の評価 ===<br />
[[松平定信]]が随筆『閑なるあまり』の中で「日本治りたりとても、油断するは[[足利義政|東山義政]]の茶湯、[[大内義隆]]の学問、今川氏真の歌道ぞ」と記しているように、江戸時代中期以降に書かれた文献の中では、[[和歌]]や[[蹴鞠]]といった娯楽に溺れ国を滅ぼした人物として描かれていることが多い。19世紀前半に編集された『[[徳川実紀]]』は、今川家の凋落について、桶狭間の合戦後に氏真が「父の讐とて信長にうらみを報ずべきてだてもなさず」、三河の国人たちが「氏真の柔弱をうとみ今川家を去りて当家〔徳川家〕に帰順」したと描写している。こうした文弱な暗君のイメージは、今日の歴史小説やドラマにおいてもしばしば踏襲されている。<br />
<br />
江戸時代初期に成立した『[[甲陽軍鑑]]』品第十一でも「鈍過たる大将(馬嫁なる大将)」として氏真が挙げられているが、氏真は心は剛毅であり戦闘も下手ではなかったと描かれている。批判の重点は、譜代の賢臣を重んじず、三浦義鎮のような「奸臣」を重用して失政を行ったという点に置かれている。<br />
<br />
=== 文化人としての氏真 ===<br />
和歌・連歌・蹴鞠などの技芸に通じた文化人であったという。<br />
<br />
==== 和歌 ====<br />
氏真は生涯に多くの[[和歌]]を詠んだ。観泉寺史編纂刊行委員会編『今川氏と観泉寺』には1658首が収録されている。<br />
<br />
氏真の少年時の文化的な環境から、駿河国に下向していた権大納言・[[冷泉為和]]や、詩歌に通じていた[[太原雪斎]]などから指導を受けたとも考えられるが、具体的なことは知られていない<ref name="inoue">井上宗雄「今川氏とその学芸」、『今川氏と観泉寺』</ref>。<br />
里村紹巴の『富士見道記』には、氏真が[[冷泉為益]](為和の子)から作法の伝授を受けたと記されている<ref name="yonehara"/>。<br />
<br />
『今川氏と観泉寺』を編纂した一人であり、中古・中世和歌史の研究者である[[井上宗雄]]は、氏真の作品を優美平明を旨とする中世和歌の伝統的手法に則った作品と評している。「その作品は、すべてが勝れたものでなく、全体的に当時の水準を抜くものではなかったにしろ、時には水準に迫り、また少数ながら新しみのある歌、個性的な歌が存することは注目される。なお多くの平凡な歌が全く無駄だったとは思われない。常に歌に精神の中心を置いていればこそ、緊張感のみなぎった時には、調べの張った、個性的な歌を生んだのである」<ref name="inoue"/>。氏真は、[[後水尾天皇]]選と伝えられる[[集外三十六歌仙]]にも名を連ねている(集外三十六歌仙は連歌師や武家歌人が多いことが特徴であり、ほかに武田信玄や北条氏康・氏政も数えられている)。<br />
<br />
==== 蹴鞠 ====<br />
織田信長の前で蹴鞠を披露した逸話で知られる。『信長公記』の記載では、氏真が蹴鞠をすることを聞き及んでいた信長が所望したという<ref>「今川殿鞠を遊ばさるゝの由聞食及ばれ、三月廿日、相国寺において御所望」。</ref>。<br />
同時代の史料で確認できる氏真と蹴鞠との関わりは、この『信長公記』の記載と、青年期の氏真に山科言継が鞠を贈ったという『言継卿記』の記載程度しかない。<br />
<br />
駿河に下向していた[[飛鳥井家|飛鳥井流宗家]]の[[飛鳥井雅綱]]から手ほどきを受けたとされる。江戸時代初期に成立した笑話集『[[醒睡笑]]』には、氏真が賀茂神社神官の[[松下述久]]に師事したことが記されている。<br />
<br />
==== 剣術 ====<br />
[[塚原卜伝]]に[[鹿島新当流|新当流]]の[[剣術]]を学んだ<ref name="bugeiryuuha">綿谷雪・山田忠史編『武芸流派大事典』(新人物往来社、1969年)。</ref>。<br />
<br />
なお、江戸時代の剣・居合・棒術の流派に、駿河の今川越前守義真(義直、吉道とも)を始祖と称する「今川流」、[[仙台藩]]に伝わる剣・居合の流派に今川越前守重家(吉道とも)を始祖と称する「今川兼流」がある。綿谷雪・山田忠史編『武芸流派大事典』(新人物往来社、1969年)は、義真を氏真と同一人物と推測しているが、根拠は示されていない。笹間良彦『図説日本武道辞典』(普及版:柏書房、2003年)が引く『[[撃剣叢談]]』によると、今川越前守義真は駿河今川氏庶流の人物といい、氏真とは別人である。<br />
<br />
=== 交友関係 ===<br />
*[[山科言継]]<br />
:言継の義母([[山科言綱]]の正室)・黒木の方が寿桂尼の姉という関係で、黒木の方は妹を頼って駿河に下向していた。弘治2年([[1556年]])から翌年にかけての駿河下向の際の『言継卿記』は、貴重な史料となっている。言継の子・[[山科言経|言経]]との交友も深かった。<br />
*[[里村紹巴]]<br />
:永禄10年(1567年)に駿河を訪問した際の『富士見道記』では、氏真が連歌を興行していることが記録されている。<br />
*[[乗阿|一華堂乗阿]]<br />
:長善寺住持。武田信虎の庶子あるいは猶子とも伝える。<br />
*[[松平家忠]]<br />
:深溝松平氏当主。『家忠日記』には「氏真様」と敬称付きで記されている。<br />
*[[沢庵宗彭]]<br />
:交友があったらしく、『明暗双々記』に氏真の死を悼む詩を残している。<br />
<br />
=== 逸話 ===<br />
氏真に関しては、以下のような逸話が伝えられている。<br />
*『[[続武家閑談]]』は、天正10年(1582年)に武田氏が滅ぼされた際、家康が信長に「駿河を氏真に与えたらどうか」と言ったと記す。信長は「役にも立たない氏真に駿河を与えられようか、不要な人を生かすよりは腹を切らせたらいい」と答えた。これを伝え聞いて氏真は驚き、いずれかへ逃げ去っていたが、そのうちに[[本能寺の変]]が発生したという。<br />
*『[[及聞秘録]]』には、晩年家康を頼った氏真が江戸城をたびたび訪れては長話をしたために家康が辟易し、江戸城から離れた品川に屋敷を与えたと記されている。<br />
*『[[故老諸談]]』には、氏真と家康が和歌について談じたことが記される。氏真が和歌の道の奥深さや言葉選びの難しさを語るのに対して、家康は技法にこだわるよりも思いのままに詠むのがよいと返している。<br />
<br />
=== 肖像画 ===<br />
妻の早川殿と対になった[[肖像画]](遺像)があり、現在米国の個人が所蔵している。元和4年(1618年)2月に著された雲屋祖泰([[妙心寺]]107世)の讃から、没後間もない時期に遺族によって供養・追慕のために描かれたものとみられる<ref>小林明「紙本著色今川氏真・同夫人像について」『静岡県史研究』9(1993年)</ref>。『静岡県史研究』9(1993年)に口絵として大型の図版(モノクロ)が掲載されているほか、『図説静岡県史(静岡県史別編3)』(1998年)が夫妻の肖像をカラーで載せている。近年発行された入手しやすい書籍では有光(2008年)が氏真像のみを図版として載せている。<br />
== 脚注 ==<br />
{{reflist|2}}<br />
<br />
== 参考文献 ==<br />
* 観泉寺史編纂刊行委員会編『今川氏と観泉寺』(吉川弘文館、1974年)<br />
* 米原正義『戦国武士と文芸の研究』(桜楓社、1976年)<br />
* 『静岡県史 通史編2 中世』(静岡県、1997年)<br />
* 有光友學『今川義元』(吉川弘文館、2008年)<br />
<br />
== 関連作品 ==<br />
; 小説<br />
* [[赤木駿介]]『天下を汝に―戦国外交の雄・今川氏真』([[新潮社]]、[[1991年]]) ISBN 4103819014<br />
* [[戸部新十郎]]「睡猫」([[徳間文庫]]・『秘剣龍牙』収録)<br />
<br />
; テレビドラマ<br />
* [[太閤記 (NHK大河ドラマ)|太閤記]](昭和40年([[1965年]])、[[日本放送協会|NHK]][[大河ドラマ]]、演:[[高野恭明]])<br />
* [[天と地と (NHK大河ドラマ)|天と地と]](昭和44年([[1969年]])、NHK大河ドラマ、演:[[阿知波信介]])<br />
* [[徳川家康 (NHK大河ドラマ)|徳川家康]](昭和58年([[1983年]])、NHK大河ドラマ、演:[[林与一]])<br />
* [[武田信玄 (NHK大河ドラマ)|武田信玄]](昭和63年([[1988年]])、NHK大河ドラマ、演:[[神田雄次]])<br />
* [[風林火山 (NHK大河ドラマ)|風林火山]](平成19年([[2007年]])、NHK大河ドラマ、演:[[風間由次郎]])<br />
<br />
{{今川氏歴代当主||第12代|1558年 - 1611年}}<br />
{{DEFAULTSORT:いまかわ うしさね}}<br />
[[Category:今川氏|うしさね]]<br />
[[Category:戦国大名]]<br />
[[Category:戦国武将]]<br />
[[Category:駿河国の人物]]<br />
[[Category:1538年生]]<br />
[[Category:1615年没]]<br />
<br />
[[en:Imagawa Ujizane]]<br />
[[eo:Imagawa Ujizane]]<br />
[[fr:Ujizane Imagawa]]<br />
[[zh:今川氏真]]</div>
桂鷺淵
https://de.wikipedia.org/w/index.php?title=Imagawa_Ujizane&diff=135799418
Imagawa Ujizane
2011-12-04T23:34:39Z
<p>桂鷺淵: /* 関連作品 */</p>
<hr />
<div>{{基礎情報 武士<br />
| 氏名 = 今川氏真<br />
| 画像 =<br />
| 画像サイズ =<br />
| 画像説明 = <br />
| 時代 = [[戦国時代 (日本)|戦国時代]] - [[安土桃山時代]]<br />
| 生誕 = [[天文 (元号)|天文]]7年([[1538年]])<ref>没年齢からの逆算。</ref><br />
| 死没 = [[慶長]]19年[[12月28日 (旧暦)|12月28日]]([[1615年]][[1月27日]])<br />
| 改名 = 龍王丸(幼名)<ref name="幼名と仮名">[[大石泰史]]「今川氏真の幼名と仮名」『戦国史研究』23(1992年2月)</ref>→氏真→宗誾(法名)<br />
| 別名 = 彦五郎、五郎<ref name="幼名と仮名" />([[仮名 (通称)|通称]])、仙巖斎(斎号)<br />
| 戒名 = 仙岩院殿豊山泰英大居士<ref>『今川氏と観泉寺』p.74「近世今川家歴代法号一覧表」による。この他、以下のような記載もある。<br />「仙岩院豊山泰永居士」(『北条氏過去帳』高野山高室院本〔『[[大日本史料]]』第十二編之十七所収〕)、<br />「仙岩院殿量山泰栄大居士」(『[[萬昌院功運寺|牛込御殿山久宝山万昌院]]鬼簿』〔『[[朝野旧聞襃藁]]』七百五十四所載〕)、<br />「仙巌院殿機峯宗峻大居士」(『[[今川家略記]]』)、<br />「仙巌院殿機峯俊貌大居士」(今川氏真肖像画の雲屋祖泰著賛)<br /></ref><br />
| 墓所 = [[東京都]][[中野区]][[上高田]]の[[萬昌院功運寺]]<br />東京都[[杉並区]]今川の[[観泉寺]]<br />
| 官位 = [[従四位]]下、[[上総国|上総]]介、刑部大輔<ref>『[[瑞光院記]]』によると、永禄3年([[1560年]])5月8日、義元が三河守に遷任された際に氏真は治部大輔に任官されたとあるが、永禄4年1月20日の足利義輝御内書では氏真が「上総介」と呼ばれている。また『[[寛政重修諸家譜]]』で「従四位下刑部大輔」とされるが、四位五位の叙位記録簿たる[[歴名土代]]にはこのような記載はない。</ref><br />
| 幕府 = [[室町幕府]]御[[相伴衆]]<br/>[[駿河国|駿河]]・[[遠江国|遠江]][[守護]]職?<ref>両国の守護は祖父氏親以来今川氏が世襲しているが、氏真の守護職補任を確認できる史料は残されていない。</ref><br />
| 主君 = [[足利義輝]]→[[北条氏康]]→[[北条氏政|氏政]]→[[徳川家康]]<br />
| 氏族 = [[今川氏]]<br />
| 父母 = 父:[[今川義元]]、母:[[定恵院]]<br />
| 兄弟 = '''氏真'''、[[嶺松院]]([[武田義信]]室)、[[一月長得]]、<br>[[隆福院]]、[[牟礼勝重]]室<br />
| 妻 = 正室:'''[[早川殿]]'''([[北条氏康]]の娘)<br>側室:[[庵原忠康]]の娘<br />
| 子 = 娘([[吉良義定]]室)<ref>生年は明らかではないが、子の[[吉良義弥|義弥]](天正14年、1586年)の生年から、駿河時代の子と推測される。氏真が北条氏を頼って逃れた際の文書に「氏真・御二方」を引き取ったという文言があることから、氏真は早川殿とともに娘を伴っていたと考えられることも、推測を補強する。長谷川弘道「今川氏真没落期の家族について」『戦国史研究』27(1994年2月)</ref>、'''[[今川範以|範以]]'''、[[品川高久]]、<br>[[西尾安信]]<ref>伝十郎と称した。生年は不詳。慶長18年([[1613年]])11月3日没。</ref>、[[澄存]]<ref>天正7年([[1579年]])生まれの末子。[[聖護院]]准后道澄の弟子となる。[[熊野若王子神社|若王子]]住職・熊野三山修験道本山奉行となり、[[承応]]元年([[1652年]])に没した。</ref><br>猶子:''[[北条氏直]]''}}<br />
<br />
'''今川 氏真'''(いまがわ うじざね)は、[[戦国時代 (日本)|戦国時代]]から[[安土桃山時代]]にかけての[[武将]]。[[駿河国]]の[[戦国大名]]。駿河[[今川氏]]10代当主<ref>はじめて駿河守護となった[[今川範国|範国]]から数えた代数。家祖・[[今川国氏|国氏]]から数えると12代目ということになる。</ref>。<br />
<br />
父[[今川義元|義元]]が[[桶狭間の戦い]]で[[織田信長]]によって討たれたためその領国を受け継いだが、[[武田信玄]]と[[徳川家康]]の侵攻を受けて敗れ、戦国大名としての今川家は滅亡した。その後は北条氏を頼り、最終的には[[徳川家康]]の庇護を受けた。今川家は[[江戸幕府]]のもとで[[高家 (江戸時代)|高家]]として家名を残した。<br />
<br />
== 生涯 ==<br />
=== 家督相続 ===<br />
[[天文 (元号)|天文]]7年([[1538年]])、義元と[[定恵院]]([[武田信虎]]の娘)との間に嫡子として生まれる。天文23年([[1554年]])、[[北条氏康]]の長女・[[早川殿]]と結婚し、[[甲相駿三国同盟]]の成立に寄与した。<br />
<br />
[[弘治 (日本)|弘治]]2年([[1556年]])から翌年にかけて駿河国を訪問した[[山科言継]]の日記『言継卿記』には、青年期の氏真も登場している。言継は、弘治3年([[1557年]])正月に氏真が自邸で開いた和歌始に出席したり、氏真に書や鞠を送ったりしたことを記録している。<br />
<br />
氏真は[[永禄]]元年([[1558年]])より駿河・遠江に文書を発給しており<ref>初見文書は永禄元年閏6月24日付の遠江国河匂庄老間村の寺庵中宛安堵状。</ref>、この前後に義元から氏真に[[家督]]が譲られたとするのが、研究上の主流の見解である([[#研究]])。<br />
<br />
この時期の三河国への文書発給は義元の名で行われていることから、義元が新領土である三河国の掌握と尾張国からさらに西方への軍事行動に専念するため、氏真に家督を譲り形式上隠居し本国である駿河・遠江の経営を委ねたとする見方が提示されている<ref>有光(2008年)273~275ページ。</ref>。<br />
<br />
永禄3年([[1560年]])5月19日、[[尾張国]]に侵攻した義元が[[桶狭間の戦い]]で織田信長に討たれたため、氏真は名実ともに今川家の領国を継承することとなった。<br />
<br />
=== 相次ぐ離反 ===<br />
[[桶狭間の戦い]]では、今川家の重臣([[由比正信]]・[[一宮宗是]]など)や[[国人]]([[松井宗信]]・[[井伊直盛]]など)が多く討死した。[[三河国|三河]]・[[遠江国|遠江]]の国人の中には、今川家の統治に対する不満や当主死亡を契機とする紛争が広がり、今川家からの離反の動きとなって現れた。<br />
<br />
三河国の国人は、義元の対織田戦の陣頭に動員されており、その犠牲も大きかった。氏真は三河国の寺社・国人・商人に多数の安堵状を発給し、動揺を防ぐことを試みている。<br />
<br />
しかし、[[西三河]]地域は桶狭間の合戦後旧領[[岡崎城]]に入った[[徳川家康|松平元康]](1563年家康に改名)の勢力下に入った。永禄4年(1561年)正月には[[足利義輝]]が氏真と元康との和解を促しており、北条氏康が仲介に入ったこともあるが、元康は今川家と断交し、信長と結ぶことを選ぶ。<br />
<br />
[[東三河]]でも、国人領主たちは氏真が新たな人質を要求したことにより不満を強め、今川家を離反して松平方につく国人と今川方に残る国人との間での抗争が広がる(三州錯乱)。永禄4年([[1561年]])、今川家から離反した[[菅沼定盈]]の[[野田城 (三河国)|野田城]]攻めに先立って、[[小原鎮実]]は人質十数名を[[龍拈寺]]で処刑するが、この措置は多くの東三河勢の離反を決定的なものにした。<br />
<br />
元康は永禄5年([[1562年]])正月には信長と[[清洲同盟]]を結び、今川氏の傘下から独立する姿勢を明らかにする。永禄5年([[1562年]])2月、氏真は自ら兵を率いて[[牛久保城]]に出兵し一宮砦を攻撃したが、「一宮の後詰」と呼ばれる元康の奮戦で撃退されている。このとき、駿府に滞在していた外祖父・[[武田信虎]]の動きが不穏であり、氏真は途中で軍を返したともいう<ref>『校訂松平記』による。この合戦については永禄7年(1564年)に起こったものとするもの(『三河物語』など)もあり、細部も異なる話も伝えられている。</ref>。<br />
永禄7年([[1564年]])6月には東三河の拠点である[[吉田城_(三河国)|吉田城]]が開城し、今川氏の勢力は三河から駆逐される。<br />
<br />
遠江国においても家臣団・国人の混乱が広がり、[[井伊谷]]の[[井伊直親]]、[[浜松城|曳馬城]]主・[[飯尾連竜]]、見付の[[堀越氏延]]、犬居の[[天野景泰]]らによる離反の動きが広がった(遠州忩劇、遠州錯乱)。永禄5年(1562年)には謀反が疑われた井伊直親を重臣の[[朝比奈泰朝]]に誅殺させている。ついで永禄7年(1564年)には飯尾連竜が家康と内通して反旗を翻した。氏真は、重臣・[[三浦正俊]]らに命じて曳馬城を攻撃させるが陥落させることができず、逆に正俊が戦死してしまう。その後、和議に応じて降った連竜を永禄8年([[1565年]])12月に謀殺した。飯尾氏家臣たちが籠城する曳馬城には再び攻撃がかけられ、翌9年(1566年)4月に開城することによって反乱は終息をみた<ref>小和田哲男「今川家臣団崩壊過程の一齣」『静岡大学教育学部研究報告』39.</ref>。<br />
<br />
氏真は祖母・寿桂尼の後見を受けて政治を行っていたと見られる。永禄3年(1560年)後半から永禄5年(1562年)にかけて氏真は活発な文書発給を行い、寺社・被官・国人のつなぎ止めを図っている。外交面では北条氏との連携を維持し、永禄4年(1561年)3月には長尾景虎(後の[[上杉謙信]])の関東侵攻に対して北条家に援兵を送り、川越城での籠城戦に加わらせている。また、永禄4年(1561年)に[[室町幕府]]の[[相伴衆]]の格式に列しており、幕府の権威によって領国の混乱に対処しようとしたと考えられる<ref>[[平野明夫]]「今川氏真と室町将軍」『戦国史研究』40(2000年8月)。『静岡県史』は永禄6年(1563年)5月に御相伴衆になったとする。</ref>。<br />
<br />
内政面では、永禄9年([[1566年]])4月に[[富士宮市|富士大宮]]の[[六斎市]]を「富士大宮楽市令」により[[楽市・楽座|楽市]]とし<ref>大宮司富士家文書</ref>、[[徳政令|徳政]]の実施を命じたり<ref>久保田昌希「戦国大名今川氏の徳政について」『日本文化の社会的基盤』(1976年).</ref>、役の免除などを行ったりした<ref>[[若林淳之]]「今川氏真の苦悶―今川政権の終焉―」『静岡大学教育学部研究報告』6(1955年)。若林は、氏真が国人的土豪層を基盤とする従来の[[守護大名]]的秩序の行き詰まりを受け、直接年貢負担者([[本百姓]])を基盤とする[[戦国大名]]的秩序への脱皮を図ったが、再編の混乱の中で侵攻を受け成果を見なかったと評価している。</ref>。<br />
しかし、これらの政策も、衰退をとどめることはできなかった。<br />
<br />
『[[甲陽軍鑑]]』など後世に記された諸書には、氏真が遊興に耽るようになり、家臣の[[三浦義鎮]](右衛門佐、小原鎮実の子)を寵愛して政務を任せっきりにしたとする。また、政権末期にはこうした特定家臣の寵用や重臣の腐敗などの問題が表面化しつつあったと指摘されている<ref>若林淳之「今川氏真の苦悶」</ref>。<br />
<br />
[[里村紹巴]]が永禄10年([[1567年]])5月に駿河を訪問した際に記した『富士見道記』では、氏真をはじめ領内の寺社や公家宅で盛んに連歌の会や茶会を興行していることが記録されている。この時期も[[三条西実澄]]や[[冷泉為益]]が駿府に滞在しており、氏真政権末期にも歌壇は盛んであった。『校訂松平記』によると、永禄10年7月には駿河に[[風流踊]]が流行し、翌年の夏にも再発した。この際、氏真はみずから太鼓を叩いて興じたという。同書は三浦右衛門佐が氏真に勧めて風流踊を流行させたとし、亡国の兆しとして描いている。<br />
<br />
=== 戦国大名今川氏の滅亡 ===<br />
{{main|駿河侵攻}}<br />
<br />
今川氏の同盟国である[[甲斐国]]では永禄4年の[[川中島の戦い]]を契機に北信地域における越後上杉氏との抗争が収束し、外交方針の変化を迎える。桶狭間の後に氏真は駿河国に隣接する甲斐国河内領主の[[穴山信友]]を介して甲駿同盟の確認を行なっているが、永禄8年([[1565年]])には氏真妹・[[嶺松院]]を室とする武田家嫡男の[[武田義信]]が廃嫡される事件が発生し<ref>義信事件。義信事件の経緯については[[武田義信]]を参照。</ref>、同年11月に嶺松院は今川家に還され、甲駿関係においては婚姻が解消された。<br />
<br />
同時期に武田家では世子・[[武田勝頼|諏訪勝頼]]の正室に信長養女を迎え、さらに徳川家康とも盟約を結んだ。これにより甲駿関係は緊迫し、氏真は[[越後国]]の上杉謙信と和睦し、[[相模国]]の北条氏康とともに甲斐国への[[荷留|塩止め]]を行ったという<ref name="souran">『史料綜覧』。</ref>が、[[武田信玄]]は徳川家康や織田信長と同盟を結んで対抗したため、これは決定的なものにはならなかった。<br />
<br />
永禄11年([[1568年]])末に甲駿同盟は手切に至り、12月6日、に信玄は甲府を発して駿河への侵攻を開始した([[駿河侵攻]])。12月12日、[[薩た峠|薩{{lang|zh|埵}}峠]]で武田軍を迎撃するため氏真も[[興津]]の[[清見寺]]に出陣したが、[[瀬名信輝]]や[[葛山氏元]]・[[朝比奈政貞]]・[[三浦義鏡]]など駿河の有力国人21人が信玄に通じたため、12月13日に今川軍は潰走し、[[駿府]]もたちまち占領された。氏真は朝比奈泰朝の居城・[[掛川城]]へ逃れた。早川殿のための乗り物も用意できず、また代々の判形も途中で紛失するというあわただしい逃亡であった。しかし、遠江国にも今川領分割を信玄と約していた徳川家康が侵攻し、その大半が制圧される。12月27日には徳川軍によって掛川城が包囲されたが、泰朝をはじめとした家臣たちの奮闘で半年近くの籠城戦となった。<br />
<br />
早川殿の父・氏康は救援軍を差し向け、薩{{lang|zh|埵}}峠に布陣。戦力で勝る北条軍が優勢に展開するものの、武田軍の撃破には至らず戦況は膠着した。徳川軍による掛川包囲戦が長期化する中で、信玄は約定を破って遠江への圧迫を強めたため、家康は氏真との和睦を模索する。永禄12年([[1569年]])5月17日、氏真は家臣たちの助命と引き換えに掛川城を開城した。この時に氏真・家康・氏康の間で、武田勢力を駿河から追い払った後は、氏真を再び駿河の国主とするという盟約が成立する。<br />
<br />
しかし、この盟約は結果的に履行されることはなく、氏真およびその子孫が領主の座に戻らなかったことから、一般的には、この掛川城の開城をもって戦国大名としての今川氏の滅亡(統治権の喪失)と解釈されている。<br />
<br />
=== 流転 ===<br />
掛川城の開城後、氏真は妻早川殿の実家である[[後北条氏|北条氏]]を頼り、蒲原を経て[[戸倉城_(伊豆国)|伊豆戸倉城]]に入った([[大平城]]との見解もある<ref>黒田基樹「北条氏の駿河防衛と諸城」『武田氏研究』17</ref>)。のち[[小田原]]に移り、早川に屋敷を与えられる<ref>『校訂松平記』</ref>。<br />
永禄12年([[1569年]])5月23日、氏真は[[北条氏政]]の嫡男・国王丸(後の[[北条氏直|氏直]])を猶子とし、国王丸の成長後に駿河国を譲ることを約した(この時点で嫡男の[[今川範以|範以]]はまだ生まれていない)。また、[[武田氏]]への共闘を目的に上杉謙信のもとに使者を送り、今川・北条・上杉三国同盟を結ぶ(実態は[[越相同盟]])。駿河国では[[岡部正綱]]が一時駿府を奪回し、花沢城の小原鎮実が武田氏への抗戦を継続するなど今川勢力の活動はなお残っており、氏真を後援する北条氏による出兵も行われた。抗争中の駿河に対して氏真は多くの安堵状や感状を発給している。これらの書状の実効性を疑問視する見解もあるが、氏真が駿河国に若干の直轄領を持ち、国王丸の代行者・補佐役として北条氏の駿河統治の一翼を担ったとの見方もある<ref>[[久保田昌希]]「懸川開城後の今川氏真と後北条氏」『駒沢史学』39・40合併号(1988年9月)、[[酒入陽子]]「懸川開城後の今川氏真について」『戦国史研究』39(2000年2月)。</ref>。<br />
しかし、蒲原城の戦いなどで北条軍は敗れ、今川家臣も順次武田氏の軍門に降るなどしたため、[[元亀]]2年([[1571年]])頃には大勢が決し、氏真は駿河国の支配を回復することはできなかった。<br />
<br />
[[元亀]]2年([[1571年]])10月に氏康が死ぬと、後を継いだ氏政は外交方針を転換して武田氏と和睦した(甲相一和)。12月に氏真は相模国を離れ、家康の庇護下に入った<ref>『校訂松平記』によると、信玄が氏真の殺害を図って小田原に人を送ったためという。『北条五代記』にも同様の記事があり、氏真が「中々に世をも人をも恨むまじ 時にあはぬを身の科にして」という一首を詠んだと記されている。</ref>。<br />
掛川城開城の際の講和条件を頼りにしたと見られるが、家康にとっても旧国主の保護は駿河統治の大義名分を得るものであった。元亀3年([[1572年]])に入ると、氏真は興津清見寺に文書を下すなど、若干の動きを見せている。天正元年(1573年)には[[大湊 (伊勢市)|伊勢大湊]]の商人に預けていた氏真の茶道具を信長が買い上げようとしたことがあり、その際に信長家臣と大湊商人の間で交わされた文書から、氏真が浜松に滞在していたことがわかる。<br />
<br />
天正3年([[1575年]])の行動は、この年1月から9月頃までに詠んだ歌428首を収めた私歌集『今川氏真詠草』([[内閣文庫]]蔵)に書き残されている。氏真は1月に(おそらく浜松から)吉田・岡崎などを経て上洛の旅に出、京都到着後は社寺を参詣したり[[三条西実澄]]ら旧知の公家を訪問したりしている<ref name="eisou">『今川氏真詠草』</ref>。<br />
『[[信長公記]]』によると、3月16日に家康の同盟者にして「父の仇」でもある織田信長と[[京都]]の[[相国寺]]で会見した。信長は氏真に蹴鞠を所望し、同20日に相国寺において公家たちとともに信長に蹴鞠を披露している<ref>氏真は16日の会見以前に「千鳥の香炉」「宗祇香炉」を献上しており、この日の会見で、信長は宗祇香炉のみを氏真に返却している。</ref>。<br />
『今川氏真詠草』にはこの会見に関する感慨は記されていない。4月、武田勝頼が三河国長篠に侵入したことを聞くと([[長篠の戦い]])京都を出立して三河国に戻り、5月15日から牛久保で後詰を務めている<ref>『今川氏真詠草』。おそらく家康に従ったものと思われる。『続武家閑談』『紀伊国物語』にも氏真が家康に同道していたことが記されている。</ref>。<br />
氏真に仕えていた[[朝比奈泰勝]]は、家康の許に使者に訪れた際に設楽原での戦闘に参加し、[[内藤昌豊]]を討ち取り、家康の直臣になったという<ref>『校訂松平記』</ref>。<br />
<br />
長篠の合戦後、氏真も残敵掃討に従事したのち、5月末からは数日間旧領駿河国にも進入し、各地に放火している<ref name="eisou"/>。<br />
7月中旬には[[諏訪原城]](現在の[[静岡県]][[島田市]])攻撃に従った。諏訪原城は8月に落城して牧野城と改名する。天正4年(1576年)3月17日、家康は牧野城主に氏真を置き、[[松平家忠]]・[[松平康親]]に補佐させた<ref name="souran"/>。<br />
しかし、天正5年(1577年)3月1日に氏真は浜松に召還されている。1年足らずでの城主解任であった。また、城主時代に剃髪したらしく、牧野城主解任時に家臣・海老江弥三郎に暇を与えた文書では'''宗誾'''(そうぎん)と号している<ref name="souran"/>。<br />
この文書が、今川家当主として氏真が発給した現存最後の文書となる。<br />
<br />
=== 後半生 ===<br />
牧野城主解任後の動向は不明であるが、松平家忠の『家忠日記』に断続的に登場しており、氏真は浜松周辺にいたのではないかと推測される。天正7年(1579年)10月には浜松城の家忠の詰所を氏真が訪問しており、その後に家康の饗応も受けている。また「氏真衆」と呼ばれる家臣がおり、『家忠日記』には彼らとの交際も記されている。天正11年([[1583年]])7月、[[近衛前久]]が浜松を訪れ、家康が饗応した際には、氏真も陪席している<ref>『景憲家伝』、『明良洪範』</ref>。<br />
この後しばらくの消息は再びわからなくなる。<br />
<br />
[[天正]]19年([[1591年]])9月、[[山科言経]]の日記『言経卿記』に氏真は姿を現す。この頃までには京都に移り住んだと推測される。仙巌斎(仙岩斎)という斎号を持つようになった氏真は、言経はじめ[[冷泉為満]]・[[冷泉為将]]ら旧知・姻戚の[[公家]]などの文化人と往来し、冷泉家の月例和歌会や[[連歌]]の会などにしきりに参加したり、古典の借覧・書写などを行っていたことが記されている。[[文禄]]4年([[1595年]])の『言経卿記』には言経が氏真と共に[[石川家成]]を訪問するなど、この時期にも徳川家と何らかのつながりがあることが推測される<ref>井上宗雄「今川氏とその学芸」、『今川氏と観泉寺』p.671</ref>。<br />
<br />
京都在住時代の氏真は、[[豊臣秀吉]]あるいは家康から与えられた所領からの収入によって生活をしていたと推測されている<ref>『[[志士清談]]』によると、氏真は秀吉の頃に400石の捨扶持を与えられ、京都四条で世捨て人のような暮らしをしていたという。</ref>。<br />
のちの慶長17年([[1612年]])に、家康から近江国野洲郡長島村(現在の[[滋賀県]][[野洲市]]長島)の「旧地」500石を安堵されているが<ref>『寛政重修諸家譜』、『略譜』(大日本史料所収)</ref>、この「旧地」の由来や性格ははっきりしていない<ref>今川家の衰微を見かねた若王子が分けたもの(『甲子夜話続編』)、建武年間に[[今川範国]]が領主だった由来のもの(『観泉寺と今川氏』p.125が引く『神社明細帳』所収の長島神社由緒)、室町時代に今川家が在京費用のために領有していたもの(『観泉寺と今川氏』p.11が引く野洲郡西運寺所蔵「御位牌之縁起」)など諸説ある。</ref>。<br />
<br />
[[慶長]]3年([[1598年]])、氏真の次男・[[品川高久]]が[[徳川秀忠]]に出仕している。慶長12年([[1607年]])には長男の[[今川範以|範以]]が京都で没する。慶長16年([[1611年]])には、範以の遺児・[[今川直房|範英]](直房)が徳川秀忠に出仕した。<br />
<br />
『言経卿記』の氏真記事は、慶長17年([[1612年]])正月、冷泉為満邸で行われた連歌会に出席した記事が最後となる。4月に氏真は、郷里の駿府で大御所家康と面会している<ref>『[[駿府記]]』慶長17年4月14日条</ref>。『寛政重修諸家譜』によれば、氏真の「旧地」が安堵されたのはこの時であり、また家康は氏真に対して品川に屋敷を与えたという。氏真はそのまま子や孫のいる[[江戸]]に移住したものと思われ、慶長18年([[1613年]])に長年連れ添った早川殿と死別した。<br />
<br />
慶長19年([[1614年]])[[12月28日 (旧暦)|12月28日]]、江戸で死去。享年77。葬儀は氏真の弟の[[一月長得]]が江戸[[市谷]]の[[萬昌院]]で行い、同寺に葬られた。[[寛文]]2年([[1662年]])、萬昌院が牛込に移転するのに際し、氏真の墓は早川殿の墓とともに、今川家知行地である[[武蔵国]][[多摩郡]]井草村(現在の[[東京都]][[杉並区]][[今川 (杉並区)|今川]]二丁目)にある宝珠山[[観泉寺]]に移された。<br />
<br />
== 研究 ==<br />
氏真の家督継承時期について、[[米原正義]]は弘治3年(1557年)正月の氏真邸の歌会始を今川家の歌会始とし、義元生前の家督譲渡の可能性をはじめて指摘した<ref name="yonehara">米原正義「今川氏の文芸」、同著『戦国武士と文芸の研究』(桜楓社、1976年)所収。</ref>。<br />
[[有光友學]]は「如律令」朱印の文書発給から永禄2年(1559年)5月段階で家督が継承されていたとする<ref>有光友學「今川義元-氏真の代替りについて」『戦国史研究』3(1982年)、「今川義元の生涯」『静岡県史研究』9(1993年)。</ref>。<br />
[[長谷川弘道]]は『言継卿記』弘治3年(1557年)正月の記載を「屋形五郎殿」と解釈し、この時点で家督継承がなされていたとする<ref>「今川氏真の家督継承について」『戦国史研究』23(1992年)。</ref>。<br />
ただし、時期を確定する上ではいずれも決定的とはいえない。<br />
<br />
== 人物 ==<br />
=== 後世の評価 ===<br />
[[松平定信]]が随筆『閑なるあまり』の中で「日本治りたりとても、油断するは[[足利義政|東山義政]]の茶湯、[[大内義隆]]の学問、今川氏真の歌道ぞ」と記しているように、江戸時代中期以降に書かれた文献の中では、[[和歌]]や[[蹴鞠]]といった娯楽に溺れ国を滅ぼした人物として描かれていることが多い。19世紀前半に編集された『[[徳川実紀]]』は、今川家の凋落について、桶狭間の合戦後に氏真が「父の讐とて信長にうらみを報ずべきてだてもなさず」、三河の国人たちが「氏真の柔弱をうとみ今川家を去りて当家〔徳川家〕に帰順」したと描写している。こうした文弱な暗君のイメージは、今日の歴史小説やドラマにおいてもしばしば踏襲されている。<br />
<br />
江戸時代初期に成立した『[[甲陽軍鑑]]』品第十一でも「鈍過たる大将(馬嫁なる大将)」として氏真が挙げられているが、氏真は心は剛毅であり戦闘も下手ではなかったと描かれている。批判の重点は、譜代の賢臣を重んじず、三浦義鎮のような「奸臣」を重用して失政を行ったという点に置かれている。<br />
<br />
=== 文化人としての氏真 ===<br />
和歌・連歌・蹴鞠などの技芸に通じた文化人であったという。<br />
<br />
==== 和歌 ====<br />
氏真は生涯に多くの[[和歌]]を詠んだ。観泉寺史編纂刊行委員会編『今川氏と観泉寺』には1658首が収録されている。<br />
<br />
氏真の少年時の文化的な環境から、駿河国に下向していた権大納言・[[冷泉為和]]や、詩歌に通じていた[[太原雪斎]]などから指導を受けたとも考えられるが、具体的なことは知られていない<ref name="inoue">井上宗雄「今川氏とその学芸」、『今川氏と観泉寺』</ref>。<br />
里村紹巴の『富士見道記』には、氏真が[[冷泉為益]](為和の子)から作法の伝授を受けたと記されている<ref name="yonehara"/>。<br />
<br />
『今川氏と観泉寺』を編纂した一人であり、中古・中世和歌史の研究者である[[井上宗雄]]は、氏真の作品を優美平明を旨とする中世和歌の伝統的手法に則った作品と評している。「その作品は、すべてが勝れたものでなく、全体的に当時の水準を抜くものではなかったにしろ、時には水準に迫り、また少数ながら新しみのある歌、個性的な歌が存することは注目される。なお多くの平凡な歌が全く無駄だったとは思われない。常に歌に精神の中心を置いていればこそ、緊張感のみなぎった時には、調べの張った、個性的な歌を生んだのである」<ref name="inoue"/>。氏真は、[[後水尾天皇]]選と伝えられる[[集外三十六歌仙]]にも名を連ねている(集外三十六歌仙は連歌師や武家歌人が多いことが特徴であり、ほかに武田信玄や北条氏康・氏政も数えられている)。<br />
<br />
==== 蹴鞠 ====<br />
織田信長の前で蹴鞠を披露した逸話で知られる。『信長公記』の記載では、氏真が蹴鞠をすることを聞き及んでいた信長が所望したという<ref>「今川殿鞠を遊ばさるゝの由聞食及ばれ、三月廿日、相国寺において御所望」。</ref>。<br />
同時代の史料で確認できる氏真と蹴鞠との関わりは、この『信長公記』の記載と、青年期の氏真に山科言継が鞠を贈ったという『言継卿記』の記載程度しかない。<br />
<br />
駿河に下向していた[[飛鳥井家|飛鳥井流宗家]]の[[飛鳥井雅綱]]から手ほどきを受けたとされる。江戸時代初期に成立した笑話集『[[醒睡笑]]』には、氏真が賀茂神社神官の[[松下述久]]に師事したことが記されている。<br />
<br />
==== 剣術 ====<br />
[[塚原卜伝]]に[[鹿島新当流|新当流]]の[[剣術]]を学んだ<ref name="bugeiryuuha">綿谷雪・山田忠史編『武芸流派大事典』(新人物往来社、1969年)。</ref>。<br />
<br />
なお、江戸時代の剣・居合・棒術の流派に、駿河の今川越前守義真(義直、吉道とも)を始祖と称する「今川流」、[[仙台藩]]に伝わる剣・居合の流派に今川越前守重家(吉道とも)を始祖と称する「今川兼流」がある。綿谷雪・山田忠史編『武芸流派大事典』(新人物往来社、1969年)は、義真を氏真と同一人物と推測しているが、根拠は示されていない。笹間良彦『図説日本武道辞典』(普及版:柏書房、2003年)が引く『[[撃剣叢談]]』によると、今川越前守義真は駿河今川氏庶流の人物といい、氏真とは別人である。<br />
<br />
=== 交友関係 ===<br />
*[[山科言継]]<br />
:言継の義母([[山科言綱]]の正室)・黒木の方が寿桂尼の姉という関係で、黒木の方は妹を頼って駿河に下向していた。弘治2年([[1556年]])から翌年にかけての駿河下向の際の『言継卿記』は、貴重な史料となっている。言継の子・[[山科言経|言経]]との交友も深かった。<br />
*[[里村紹巴]]<br />
:永禄10年(1567年)に駿河を訪問した際の『富士見道記』では、氏真が連歌を興行していることが記録されている。<br />
*[[乗阿|一華堂乗阿]]<br />
:長善寺住持。武田信虎の庶子あるいは猶子とも伝える。<br />
*[[松平家忠]]<br />
:深溝松平氏当主。『家忠日記』には「氏真様」と敬称付きで記されている。<br />
*[[沢庵宗彭]]<br />
:交友があったらしく、『明暗双々記』に氏真の死を悼む詩を残している。<br />
<br />
=== 逸話 ===<br />
氏真に関しては、以下のような逸話が伝えられている。<br />
*『[[続武家閑談]]』は、天正10年(1582年)に武田氏が滅ぼされた際、家康が信長に「駿河を氏真に与えたらどうか」と言ったと記す。信長は「役にも立たない氏真に駿河を与えられようか、不要な人を生かすよりは腹を切らせたらいい」と答えた。これを伝え聞いて氏真は驚き、いずれかへ逃げ去っていたが、そのうちに[[本能寺の変]]が発生したという。<br />
*『[[及聞秘録]]』には、晩年家康を頼った氏真が江戸城をたびたび訪れては長話をしたために家康が辟易し、江戸城から離れた品川に屋敷を与えたと記されている。<br />
*『[[故老諸談]]』には、氏真と家康が和歌について談じたことが記される。氏真が和歌の道の奥深さや言葉選びの難しさを語るのに対して、家康は技法にこだわるよりも思いのままに詠むのがよいと返している。<br />
<br />
=== 肖像画 ===<br />
妻の早川殿と対になった[[肖像画]](遺像)があり、現在米国の個人が所蔵している。元和4年(1618年)2月に著された雲屋祖泰([[妙心寺]]107世)の讃から、没後間もない時期に遺族によって供養・追慕のために描かれたものとみられる<ref>小林明「紙本著色今川氏真・同夫人像について」『静岡県史研究』9(1993年)</ref>。『静岡県史研究』9(1993年)に口絵として大型の図版(モノクロ)が掲載されているほか、『図説静岡県史(静岡県史別編3)』(1998年)が夫妻の肖像をカラーで載せている。近年発行された入手しやすい書籍では有光(2008年)が氏真像のみを図版として載せている。<br />
== 脚注 ==<br />
{{reflist|2}}<br />
<br />
== 参考文献 ==<br />
* 観泉寺史編纂刊行委員会編『今川氏と観泉寺』(吉川弘文館、1974年)<br />
* 米原正義『戦国武士と文芸の研究』(桜楓社、1976年)<br />
* 『静岡県史 通史編2 中世』(静岡県、1997年)<br />
* 有光友學『今川義元』(吉川弘文館、2008年)<br />
<br />
== 関連作品 ==<br />
; 小説<br />
* [[赤木駿介]]『天下を汝に―戦国外交の雄・今川氏真』([[新潮社]]、[[1991年]]) ISBN 4103819014<br />
* [[戸部新十郎]]「睡猫」([[徳間文庫]]・『秘剣龍牙』収録)<br />
<br />
; テレビドラマ<br />
* [[太閤記 (NHK大河ドラマ)|太閤記]](昭和40年([[1965年]])、[[日本放送協会|NHK]][[大河ドラマ]]、演:[[高野恭明]])<br />
* [[天と地と (NHK大河ドラマ)|天と地と]](昭和44年([[1969年]])、NHK大河ドラマ、演:[[阿知波信介]])<br />
* [[徳川家康 (NHK大河ドラマ)|徳川家康]](昭和58年([[1983年]])、NHK大河ドラマ、演:[[林与一]])<br />
* [[武田信玄 (NHK大河ドラマ)|武田信玄]](昭和63年([[1988年]])、NHK大河ドラマ、演:[[神田雄次]])<br />
* [[風林火山 (NHK大河ドラマ)|風林火山]](平成19年([[2007年]])、NHK大河ドラマ、演:[[風間由次郎]])<br />
<br />
{{今川氏歴代当主||第12代|1558年 - 1611年}}<br />
{{DEFAULTSORT:いまかわ うしさね}}<br />
[[Category:今川氏|うしさね]]<br />
[[Category:戦国大名]]<br />
[[Category:戦国武将]]<br />
[[Category:上総介]]<br />
[[Category:駿河国の人物]]<br />
[[Category:1538年生]]<br />
[[Category:1615年没]]<br />
<br />
[[en:Imagawa Ujizane]]<br />
[[eo:Imagawa Ujizane]]<br />
[[fr:Ujizane Imagawa]]<br />
[[zh:今川氏真]]</div>
桂鷺淵
https://de.wikipedia.org/w/index.php?title=Imagawa_Ujizane&diff=135799412
Imagawa Ujizane
2011-08-07T14:47:17Z
<p>桂鷺淵: 塩止め→荷留のリンクを復活</p>
<hr />
<div>{{基礎情報 武士<br />
| 氏名 = 今川氏真<br />
| 画像 =<br />
| 画像サイズ =<br />
| 画像説明 = <br />
| 時代 = [[戦国時代 (日本)|戦国時代]] - [[江戸時代]]前期<br />
| 生誕 = [[天文 (元号)|天文]]7年([[1538年]])<ref>没年齢からの逆算。</ref><br />
| 死没 = [[慶長]]19年[[12月28日 (旧暦)|12月28日]]([[1615年]][[1月27日]])<br />
| 改名 = 龍王丸(幼名)<ref name="幼名と仮名">[[大石泰史]]「今川氏真の幼名と仮名」『戦国史研究』23(1992年2月)</ref>、氏真、宗誾(法名)<br />
| 別名 = 彦五郎、五郎<ref name="幼名と仮名" />([[仮名 (通称)|通称]])、仙巖斎(斎号)<br />
| 戒名 = 仙岩院殿豊山泰栄大居士<ref>『今川氏と観泉寺』p.74「近世今川家歴代法号一覧表」による。この他、以下のような記載もある。<br />「仙岩院豊山泰永居士」(『北条氏過去帳』高野山高室院本〔『[[大日本史料]]』第十二編之十七所収〕)、<br />「仙岩院殿量山泰栄大居士」(『[[萬昌院功運寺|牛込御殿山久宝山万昌院]]鬼簿』〔『[[朝野旧聞襃藁]]』七百五十四所載〕)、<br />「仙巌院殿機峯宗峻大居士」(『[[今川家略記]]』)、<br />「仙巌院殿機峯俊貌大居士」(今川氏真肖像画の雲屋祖泰著賛)<br /></ref><br />
| 墓所 = [[萬昌院]]、[[観泉寺]]<br />
| 官位 = 従四位下、[[上総国|上総]]介、刑部大輔<ref>『[[瑞光院記]]』によると、永禄3年([[1560年]])5月8日、義元が三河守に遷任された際に氏真は治部大輔に任官されたとあるが、永禄4年1月20日の足利義輝御内書では氏真が「上総介」と呼ばれている。また『[[寛政重修諸家譜]]』で「従四位下刑部大輔」とされるが、四位五位の叙位記録簿たる[[歴名土代]]にはこのような記載はない。</ref><br />
| 幕府 = [[室町幕府]][[相伴衆|御相伴衆]]。<br/>[[駿河国|駿河]][[守護]]職・[[遠江国|遠江]]守護職?<ref>両国の守護は祖父氏親以来今川氏が世襲しているが、氏真の守護職補任を確認できる史料は残されていない。</ref><br />
| 主君 = [[北条氏康]]→[[北条氏政|氏政]]→[[徳川家康]]<br />
| 氏族 = [[今川氏]]<br />
| 父母 = 父:[[今川義元]]、母:[[定恵院]]([[武田信虎]]女)<br />
| 兄弟 = '''氏真'''、[[嶺松院]]([[武田義信]]室)、[[一月長得]] [[#系譜|ほか]]<br />
| 妻 = 正室:'''[[早川殿]]'''([[北条氏康]]女)<br />
| 子 = 娘([[吉良義定]]室)、'''[[今川範以]]'''、[[品川高久]]、<br>西尾安信、澄存、猶子:''[[北条氏直]]''}}<br />
<br />
'''今川 氏真'''(いまがわ うじざね)は、[[駿河国]]の[[戦国大名]]。駿河[[今川氏]]10代当主<ref>はじめて駿河守護となった[[今川範国|範国]]から数えた代数。家祖・[[今川国氏|国氏]]から数えると12代目ということになる。</ref>。<br />
父・[[今川義元|義元]]が[[桶狭間の戦い]]で[[織田信長]]によって討たれたためその領国を受け継いだが、[[武田信玄]]と[[徳川家康]]の侵攻を受けて敗れ、戦国大名としての今川家は滅亡した。その後は北条氏を頼り、最終的には徳川家康の庇護を受けた。今川家は[[江戸幕府]]のもとで[[高家 (江戸時代)|高家]]として家名を残した。<br />
<br />
== 生涯 ==<br />
=== 家督相続 ===<br />
[[天文 (元号)|天文]]7年([[1538年]])、[[今川義元]]と[[定恵院]]([[武田信虎]]の娘)との間に嫡子として生まれる。天文23年([[1554年]])、17歳の折に[[北条氏康]]の長女・[[早川殿]]と結婚し、[[甲相駿三国同盟]]の成立に寄与した。<br />
<br />
[[弘治 (日本)|弘治]]2年([[1556年]])から翌年にかけて駿河を訪問した[[山科言継]]の日記『言継卿記』には、若い日の氏真も登場している。言継は、弘治3年([[1557年]])正月に氏真が自邸で開いた和歌始に出席したり、氏真に書や鞠を送ったりしたことを記録している。<br />
<br />
氏真は[[永禄]]元年([[1558年]])より駿河・遠江に文書を発給しており<ref>初見文書は永禄元年閏6月24日付の遠江国河匂庄老間村の寺庵中宛安堵状。</ref>、<br />
この前後に義元から氏真に[[家督]]が譲られたとするのが、研究上の主流の見解である([[#家督継承について]])。この時期の三河への文書発給は氏真ではなく義元の名で行われていることから、義元が三河国の掌握と西方への軍事行動に専念するため、氏真に駿河・遠江の経営を委ねたとする見方が提示されている<ref>有光(2008年)273~275ページ。</ref>。<br />
<br />
永禄3年([[1560年]])5月19日、[[尾張国]]に侵攻した義元が[[桶狭間の戦い]]で[[織田信長]]に討たれたため、氏真は名実ともに今川家の領国を継承することとなった。<br />
<br />
=== 相次ぐ離反 ===<br />
[[桶狭間の戦い]]では、今川家の重臣([[由比正信]]・[[一宮宗是]]など)や[[国人]]([[松井宗信]]・[[井伊直盛]]など)が多く討死した。[[三河国|三河]]・[[遠江国|遠江]]の国人の中には、今川家の統治に対する不満や当主死亡を契機とする紛争が広がり、今川家からの離反の動きとなって現れた。<br />
<br />
三河の国人は、義元の対織田戦の陣頭に動員されており、その犠牲も大きかった。氏真は三河の寺社・国人・商人に多数の安堵状を発給し、動揺を防ぐことを試みている。<br />
<br />
しかし、[[西三河]]地域は桶狭間の合戦後旧領[[岡崎城]]に入った[[徳川家康|松平元康]](1563年家康に改名)の勢力下に入った。永禄4年(1561年)正月には足利義輝が氏真と元康との和解を促しており、北条氏康が仲介に入ったこともあるが、元康は今川家と断交し、織田信長と結ぶことを選ぶ。<br />
<br />
[[東三河]]でも、国人領主たちは今川氏真が新たな人質を要求したことにより不満を強め、今川家を離反して松平方につく国人と今川方に残る国人との間での抗争が広がる(三州錯乱)。永禄4年([[1561年]])、今川家から離反した[[菅沼定盈]]の[[野田城 (三河国)|野田城]]攻めに先立って、[[小原鎮実]]は人質十数名を[[龍拈寺]]で処刑するが、この措置は多くの東三河勢の離反を決定的なものにした。<br />
<br />
松平元康は永禄5年([[1562年]])正月には織田信長と[[清洲同盟]]を結び、今川氏の傘下から独立する姿勢を明らかにする。永禄5年([[1562年]])2月、氏真は自ら兵を率いて[[牛久保城]]に出兵し一宮砦を攻撃したが、「一宮の後詰」と呼ばれる元康の奮戦で撃退されている。このとき、駿府に滞在していた外祖父・[[武田信虎]]の動きが不穏であり、氏真は途中で軍を返したともいう<ref>『校訂松平記』による。この合戦については永禄7年(1564年)に起こったものとするもの(『三河物語』など)もあり、細部も異なる話も伝えられている。</ref>。<br />
永禄7年([[1564年]])6月には東三河の拠点である[[吉田城_(三河国)|吉田城]]が開城し、今川氏の勢力は三河から駆逐される。<br />
<br />
遠江においても家臣団・国人の混乱が広がり、[[井伊谷]]の[[井伊直親]]、[[浜松城|曳馬城]]主・[[飯尾連竜]]、見付の[[堀越氏延]]、犬居の[[天野景泰]]らによる離反の動きが広がった(遠州忩劇、遠州錯乱)。永禄5年(1562年)には謀反が疑われた井伊直親を重臣の[[朝比奈泰朝]]に誅殺させている。ついで永禄7年(1564年)には飯尾連竜が家康と内通して反旗を翻した。氏真は、重臣・[[三浦正俊]]らに命じて曳馬城を攻撃させるが陥落させることができず、逆に正俊が戦死してしまう。その後、和議に応じて降った飯尾連竜を永禄8年([[1565年]])12月に謀殺した。飯尾氏家臣たちが籠城する曳馬城には再び攻撃がかけられ、翌9年(1566年)4月に開城することによって反乱は終息をみた<ref>小和田哲男「今川家臣団崩壊過程の一齣」『静岡大学教育学部研究報告』39.</ref>。<br />
<br />
氏真は祖母・寿桂尼の後見を受けて政治を行っていたと見られる。永禄3年(1560年)後半から永禄5年(1562年)にかけて氏真は活発な文書発給を行い、寺社・被官・国人のつなぎ止めを図っている。外交面では北条氏との連携を維持し、永禄4年(1561年)3月には長尾景虎(後の[[上杉謙信]])の関東侵攻に対して北条家に援兵を送り、川越城での籠城戦に加わらせている。また、永禄4年(1561年)に[[室町幕府]]の[[相伴衆]]の格式に列しており、幕府の権威によって領国の混乱に対処しようとしたと考えられる<ref>[[平野明夫]]「今川氏真と室町将軍」『戦国史研究』40(2000年8月)。『静岡県史』は永禄6年(1563年)5月に御相伴衆になったとする。</ref>。<br />
<br />
内政面では、永禄9年([[1566年]])4月に[[富士宮市|富士大宮]]の[[六斎市]]を「富士大宮楽市令」により[[楽市・楽座|楽市]]とし<ref>大宮司富士家文書</ref>、[[徳政令|徳政]]の実施を命じたり<ref>久保田昌希「戦国大名今川氏の徳政について」『日本文化の社会的基盤』(1976年).</ref>、役の免除などを行ったりした<ref>[[若林淳之]]「今川氏真の苦悶―今川政権の終焉―」『静岡大学教育学部研究報告』6(1955年)。若林は、氏真が国人的土豪層を基盤とする従来の[[守護大名]]的秩序の行き詰まりを受け、直接年貢負担者([[本百姓]])を基盤とする[[戦国大名]]的秩序への脱皮を図ったが、再編の混乱の中で侵攻を受け成果を見なかったと評価している。</ref>。<br />
しかし、これらの政策も、衰退をとどめることはできなかった。<br />
<br />
『[[甲陽軍鑑]]』など後世に記された諸書には、氏真が遊興に耽るようになり、家臣の[[三浦義鎮]](右衛門佐、小原鎮実の子)を寵愛して政務を任せっきりにしたとする。また、政権末期にはこうした特定家臣の寵用や重臣の腐敗などの問題が表面化しつつあったと指摘されている<ref>若林淳之「今川氏真の苦悶」</ref>。<br />
<br />
[[里村紹巴]]が永禄10年([[1567年]])5月に駿河を訪問した際に記した『富士見道記』では、氏真をはじめ領内の寺社や公家宅で盛んに連歌の会や茶会を興行していることが記録されている。この時期も[[三条西実澄]]や[[冷泉為益]]が駿府に滞在しており、氏真政権末期にも歌壇は盛んであった。『校訂松平記』によると、永禄10年7月には駿河に[[風流踊]]が流行し、翌年の夏にも再発した。この際、氏真はみずから太鼓を叩いて興じたという。同書は、三浦右衛門佐が氏真に勧めて風流踊を流行させたとし、亡国の兆しとして描いている。<br />
<br />
=== 戦国大名今川氏の滅亡 ===<br />
{{main|駿河侵攻}}<br />
<br />
今川の同盟国である[[甲斐国]]では永禄4年の[[川中島の戦い]]を契機に北信地域における越後上杉氏との抗争が収束し、外交方針の変化を迎える。桶狭間の後に氏真は駿河に隣接する甲斐河内領主の[[穴山信友]]を介して甲駿同盟の確認を行なっているが、永禄8年([[1565年]])には氏真妹・[[嶺松院]]を室とする武田家嫡男の[[武田義信]]が廃嫡される事件が発生し<ref>義信事件。義信事件の経緯については[[武田義信]]を参照。</ref>、同年11月に嶺松院は今川家に返還され、甲駿関係においては婚姻が解消された。<br />
<br />
同時期に武田家では世子・[[武田勝頼|諏訪勝頼]]正室に信長養女を迎え、さらに徳川家康とも盟約を結んだ。これにより甲駿関係は緊迫し、氏真は[[越後国]]の上杉謙信と和睦し、[[相模国]]の北条氏康とともに[[甲斐国]]への[[荷留|塩止め]]を行ったという<ref name="souran">『史料綜覧』。</ref>が、[[武田信玄]]は徳川家康や織田信長と同盟を結んで対抗したため、これは決定的なものにはならなかった。<br />
<br />
永禄11年([[1568年]])末に甲駿同盟は手切に至り、12月6日、に信玄は甲府を発して駿河への侵攻を開始した([[駿河侵攻]])。12月12日、[[薩た峠|薩{{lang|zh|埵}}峠]]で武田軍を迎撃するため氏真も[[興津]]の[[清見寺]]に出陣したが、[[瀬名信輝]]や[[葛山氏元]]・[[朝比奈政貞]]・[[三浦義鏡]]など駿河の有力国人21人が信玄に通じたため、12月13日に今川軍は潰走し、[[駿府]]もたちまち占領された。氏真は朝比奈泰朝の居城[[遠江国|遠江]][[掛川城]]へ逃れた。早川殿のための乗り物も用意できず、また代々の判形も途中で紛失するというあわただしい逃亡であった。しかし、遠江国にも今川領分割を信玄と約していた徳川家康が侵攻し、その大半が制圧される。12月27日には徳川軍によって掛川城が包囲されたが、泰朝をはじめとした家臣たちの奮闘で半年近くの籠城戦となった。<br />
<br />
早川殿の父・北条氏康は救援軍を差し向け、薩{{lang|zh|埵}}峠に布陣。戦力で勝る北条軍が優勢に展開するものの、武田軍の撃破には至らず戦況は膠着した。徳川軍による掛川包囲戦が長期化する中で、信玄は約定を破って遠江への圧迫を強めたため、家康は氏真との和睦を模索する。永禄12年([[1569年]])5月17日、氏真は家臣たちの助命と引き換えに掛川城を開城した。この時に今川氏真・徳川家康・北条氏康の間で、武田信玄の勢力を駿河から追い払った後は、氏真を再び駿河の国主とするという盟約が成立する。<br />
<br />
しかし、この盟約は結果的に履行されることはなく、氏真およびその子孫が領主の座に戻らなかったことから、一般的には、この掛川城の開城をもって戦国大名としての今川氏の滅亡(統治権の喪失)と解釈されている。<br />
<br />
=== 駿河旧国主の流転 ===<br />
[[掛川城]]の開城後、氏真は妻の実家である[[後北条氏|北条氏]]を頼り、蒲原を経て[[伊豆国|伊豆]][[戸倉城_(伊豆国)|戸倉城]]に入った([[大平城]]との見解もある<ref>黒田基樹「北条氏の駿河防衛と諸城」『武田氏研究』17</ref>)。のち[[小田原]]に移り、早川に屋敷を与えられる<ref>『校訂松平記』</ref>。<br />
永禄12年([[1569年]])5月23日、氏真は[[北条氏政]]の嫡男・国王丸(後の[[北条氏直|氏直]])を猶子とし、国王丸の成長後に駿河を譲ることを約した(この時点で氏真の嫡男・[[今川範以|範以]]はまだ生まれていない)。また、[[武田氏]]への共闘を目的に上杉謙信のもとに使者を送り、今川・北条・上杉三国同盟を結ぶ(実態は[[越相同盟]])。駿河では、[[岡部正綱]]が一時駿府を奪回し、花沢城の[[小原鎮実]]が武田氏への抗戦を継続するなど今川勢力の活動はなお残っており、氏真を後援する北条氏による出兵も行われた。抗争中の駿河に対して氏真は多くの安堵状や感状を発給している。これらの書状の実効性を疑問視する見解もあるが、氏真が駿河に若干の直轄領を持ち、北条国王丸の代行者・補佐役として北条氏の駿河統治の一翼を担ったとの見方もある<ref>[[久保田昌希]]「懸川開城後の今川氏真と後北条氏」『駒沢史学』39・40合併号(1988年9月)、[[酒入陽子]]「懸川開城後の今川氏真について」『戦国史研究』39(2000年2月)。</ref>。<br />
しかし、蒲原城の戦いなどで北条軍は敗れ、今川家臣も順次武田氏の軍門に降るなどしたため、[[元亀]]2年([[1571年]])頃には大勢が決し、氏真は駿河の支配を回復することはできなかった。<br />
<br />
[[元亀]]2年([[1571年]])10月に北条氏康が死ぬと、北条氏政は外交方針を転換して武田氏と和睦した(甲相一和)。12月に氏真は相模国を離れ、徳川家康の庇護下に入った<ref>『校訂松平記』によると、信玄が氏真の殺害を図って小田原に人を送ったためという。『北条五代記』にも同様の記事があり、氏真が「中々に世をも人をも恨むまじ 時にあはぬを身の科にして」という一首を詠んだと記されている。</ref>。<br />
掛川城開城の際の講和条件を頼りにしたと見られるが、家康にとっても旧国主の保護は駿河統治の大義名分を得るものであった。元亀3年([[1572年]])に入ると、氏真は興津清見寺に文書を下すなど、若干の動きを見せている。天正元年(1573年)には伊勢[[大湊 (伊勢市)|大湊]]の商人に預けていた氏真の茶道具を信長が買い上げようとしたことがあり、その際に信長家臣と大湊商人の間で交わされた文書から、氏真が浜松に滞在していたことがわかる。<br />
<br />
天正3年([[1575年]])の行動は、この年1月から9月頃までに詠んだ歌428首を収めた私歌集『今川氏真詠草』([[内閣文庫]]蔵)に書き残されている。氏真は1月に(おそらく浜松から)吉田・岡崎などを経て上洛の旅に出、京都到着後は社寺を参詣したり[[三条西実澄]]ら旧知の公家を訪問したりしている<ref name="eisou">『今川氏真詠草』</ref>。<br />
『[[信長公記]]』によると、3月16日に徳川家康の同盟者にして「父の仇」でもある織田信長と[[京都]]の[[相国寺]]で会見した。信長は氏真に蹴鞠を所望し、同20日に相国寺において公家たちとともに信長に蹴鞠を披露している<ref>氏真は16日の会見以前に「千鳥の香炉」「宗祇香炉」を献上しており、この日の会見で、信長は宗祇香炉のみを氏真に返却している。</ref>。<br />
『今川氏真詠草』にはこの会見に関する感慨は記されていない。4月、[[武田勝頼]]が三河長篠に侵入したことを聞くと([[長篠の戦い]])京を出立して三河に戻り、5月15日から牛久保で後詰を務めている<ref>『今川氏真詠草』。おそらく家康に従ったものと思われる。『続武家閑談』『紀伊国物語』にも氏真が家康に同道していたことが記されている。</ref>。<br />
氏真に仕えていた[[朝比奈泰勝]]は、家康の許に使者に訪れた際に設楽原での戦闘に参加し、[[内藤昌豊]]を討ち取り、家康の直臣になったという<ref>『校訂松平記』</ref>。<br />
<br />
長篠の合戦後、氏真も残敵掃討に従事したのち、5月末からは数日間旧領駿河にも進入し、各地に放火している<ref name="eisou"/>。<br />
7月中旬には[[遠江国|遠江]][[諏訪原城]](現:[[静岡県]][[島田市]])攻撃に従った。諏訪原城は8月に落城して牧野城と改名する。天正4年(1576年)3月17日、家康は牧野城主に氏真を置き、[[松平家忠]]・[[松平康親]]に補佐させた<ref name="souran"/>。<br />
しかし、天正5年(1577年)3月1日に氏真は浜松に召還されている。1年足らずでの城主解任であった。また、城主時代に剃髪したらしく、牧野城主解任時に家臣・海老江弥三郎に暇を与えた文書では'''宗誾'''(そうぎん)と号している<ref name="souran"/>。<br />
この文書が、今川家当主として氏真が発給した現存最後の文書となる。<br />
<br />
=== 後半生 ===<br />
牧野城主解任後の動向は不明であるが、松平家忠の『家忠日記』に断続的に登場しており、氏真は浜松周辺にいたのではないかと推測される。天正7年(1579年)10月には浜松城の家忠の詰所を氏真が訪問しており、その後家康の饗応も受けている。また「氏真衆」と呼ばれる家臣がおり、『家忠日記』には彼らとの交際も記されている。天正11年([[1583年]])7月、[[近衛前久]]が浜松を訪れ、家康が饗応した際には、氏真も陪席している<ref>『景憲家伝』、『明良洪範』</ref>。<br />
この後しばらくの消息は再びわからなくなる。<br />
<br />
[[天正]]19年([[1591年]])9月、[[山科言経]]の日記『言経卿記』に氏真は姿を現す。この頃までには京都に移り住んだと推測される。仙巌斎(仙岩斎)という斎号を持つようになった氏真は、言経はじめ[[冷泉為満]]・[[冷泉為将]]ら旧知・姻戚の[[公家]]などの文化人と往来し、冷泉家の月例和歌会や[[連歌]]の会などにしきりに参加したり、古典の借覧・書写などを行っていたことが記されている。[[文禄]]4年([[1595年]])の『言経卿記』には言経が氏真と共に[[石川家成]]を訪問するなど、この時期にも徳川家と何らかのつながりがあることが推測される<ref>井上宗雄「今川氏とその学芸」、『今川氏と観泉寺』p.671</ref>。<br />
<br />
京都在住時代の氏真は、[[豊臣秀吉]]あるいは徳川家康から与えられた所領からの収入によって生活をしていたと推測されている<ref>『[[志士清談]]』によると、氏真は秀吉の頃に400石の捨扶持を与えられ、京都四条で世捨て人のような暮らしをしていたという。</ref>。<br />
のちの慶長17年([[1612年]])に、徳川家康から近江国野洲郡長島村(現:[[滋賀県]][[野洲市]]長島)の「旧地」500石を安堵されているが<ref>『寛政重修諸家譜』、『略譜』(大日本史料所収)</ref>、この「旧地」の由来や性格ははっきりしていない<ref>今川家の衰微を見かねた若王子が分けたもの(『甲子夜話続編』)、建武年間に[[今川範国]]が領主だった由来のもの(『観泉寺と今川氏』p.125が引く『神社明細帳』所収の長島神社由緒)、室町時代に今川家が在京費用のために領有していたもの(『観泉寺と今川氏』p.11が引く野洲郡西運寺所蔵「御位牌之縁起」)など諸説ある。</ref>。<br />
<br />
[[慶長]]3年([[1598年]])、氏真の次男・[[品川高久]]が[[徳川秀忠]]に出仕している。慶長12年([[1607年]])には長男・[[今川範以|範以]]が京都で没する。慶長16年([[1611年]])には、範以の遺児・[[今川直房|範英]](直房)が徳川秀忠に出仕した。<br />
<br />
『言経卿記』の氏真記事は、慶長17年([[1612年]])正月、冷泉為満邸で行われた連歌会に出席した記事が最後となる。4月に氏真は、郷里である駿府で大御所徳川家康と面会している<ref>『[[駿府記]]』慶長17年4月14日条</ref>。『寛政重修諸家譜』によれば、氏真の「旧地」が安堵されたのはこの時であり、また家康は氏真に対して品川に屋敷を与えたという。氏真はそのまま子や孫のいる[[江戸]]に移住したものと思われ、慶長18年([[1613年]])に長年連れ添った早川殿と死別した。<br />
<br />
慶長19年([[1614年]])[[12月28日 (旧暦)|12月28日]]、江戸で死去。享年77。葬儀は氏真の弟の[[一月長得]]が江戸[[市谷]]の[[萬昌院]]で行い、同寺に葬られた。[[寛文]]2年([[1662年]])、萬昌院が牛込に移転するのに際し、氏真の墓は早川殿の墓とともに、今川家知行地である[[武蔵国]][[多摩郡]]井草村(現・[[東京都]][[杉並区]][[今川 (杉並区)|今川]]二丁目)にある宝珠山[[観泉寺]]に移された。<br />
<br />
== 研究 ==<br />
氏真の家督継承時期について、[[米原正義]]は弘治3年(1557年)正月の氏真邸の歌会始を今川家の歌会始とし、義元生前の家督譲渡の可能性をはじめて指摘した<ref name="yonehara">米原正義「今川氏の文芸」、同著『戦国武士と文芸の研究』(桜楓社、1976年)所収。</ref>。<br />
[[有光友學]]は「如律令」朱印の文書発給から永禄2年(1559年)5月段階で家督が継承されていたとする<ref>有光友學「今川義元-氏真の代替りについて」『戦国史研究』3(1982年)、「今川義元の生涯」『静岡県史研究』9(1993年)。</ref>。<br />
[[長谷川弘道]]は『言継卿記』弘治3年(1557年)正月の記載を「屋形五郎殿」と解釈し、この時点で家督継承がなされていたとする<ref>「今川氏真の家督継承について」『戦国史研究』23(1992年)。</ref>。<br />
ただし、時期を確定する上ではいずれも決定的とはいえない。<br />
<br />
== 人物 ==<br />
=== 後世の評価 ===<br />
[[松平定信]]が随筆『閑なるあまり』の中で「日本治りたりとても、油断するは[[足利義政|東山義政]]の茶湯、[[大内義隆]]の学問、今川氏真の歌道ぞ」と記しているように、江戸時代中期以降に書かれた文献の中では、[[和歌]]や[[蹴鞠]]といった娯楽に溺れ国を滅ぼした人物として描かれていることが多い。19世紀前半に編集された『[[徳川実紀]]』は、今川家の凋落について、桶狭間の合戦後に氏真が「父の讐とて信長にうらみを報ずべきてだてもなさず」、三河の国人たちが「氏真の柔弱をうとみ今川家を去りて当家〔徳川家〕に帰順」したと描写している。こうした文弱な暗君のイメージは、今日の歴史小説やドラマにおいてもしばしば踏襲されている。<br />
<br />
江戸時代初期に成立した『[[甲陽軍鑑]]』品第十一でも「鈍過たる大将(馬嫁なる大将)」として氏真が挙げられているが、氏真は心は剛毅であり戦闘も下手ではなかったと描かれている。批判の重点は、譜代の賢臣を重んじず、三浦義鎮のような「奸臣」を重用して失政を行ったという点に置かれている。<br />
<br />
=== 文化人としての氏真 ===<br />
和歌・連歌・蹴鞠などの技芸に通じた文化人であったという。<br />
<br />
==== 和歌 ====<br />
氏真は生涯に多くの[[和歌]]を詠んだ。観泉寺史編纂刊行委員会編『今川氏と観泉寺』には1658首が収録されている。<br />
<br />
氏真の少年時の文化的な環境から、駿河に下向していた権大納言・[[冷泉為和]]や、詩歌に通じていた[[太原雪斎]]などから指導を受けたとも考えられるが、具体的なことは知られていない<ref name="inoue">井上宗雄「今川氏とその学芸」、『今川氏と観泉寺』</ref>。紹巴の『富士見道記』には、氏真が[[冷泉為益]](為和の子)から作法の伝授を受けたと記されている<ref name="yonehara"/>。<br />
<br />
『今川氏と観泉寺』を編纂した一人であり、中古・中世和歌史の研究者である[[井上宗雄]]は、氏真の作品を優美平明を旨とする中世和歌の伝統的手法に則った作品と評している。「その作品は、すべてが勝れたものでなく、全体的に当時の水準を抜くものではなかったにしろ、時には水準に迫り、また少数ながら新しみのある歌、個性的な歌が存することは注目される。なお多くの平凡な歌が全く無駄だったとは思われない。常に歌に精神の中心を置いていればこそ、緊張感のみなぎった時には、調べの張った、個性的な歌を生んだのである」<ref name="inoue"/>。氏真は、[[後水尾天皇]]選と伝えられる[[集外三十六歌仙]]にも名を連ねている(集外三十六歌仙は連歌師や武家歌人が多いことが特徴であり、ほかに武田信玄や北条氏康・氏政も数えられている)。<br />
<br />
==== 蹴鞠 ====<br />
織田信長の前で[[蹴鞠]]を披露したエピソードで知られる。『信長公記』の記載では、氏真が蹴鞠をすることを聞き及んでいた信長が所望したという<ref>「今川殿鞠を遊ばさるゝの由聞食及ばれ、三月廿日、相国寺において御所望」。</ref>。<br />
同時代の史料で確認できる氏真と蹴鞠との関わりは、この『信長公記』の記載と、青年期の氏真に[[山科言継]]が鞠を贈ったという『言継卿記』の記載程度しかない。<br />
<br />
駿河に下向していた[[飛鳥井家|飛鳥井流宗家]]の[[飛鳥井雅綱]]から手ほどきを受けたとされる。江戸時代初期に成立した笑話集『[[醒睡笑]]』には、氏真が賀茂神社神官の[[松下述久]]に師事したことが記されている。<br />
<br />
==== 剣術 ====<br />
[[塚原卜伝]]に[[鹿島新当流|新当流]]の[[剣術]]を学んだ<ref name="bugeiryuuha">綿谷雪・山田忠史編『武芸流派大事典』(新人物往来社、1969年)。</ref>。<br />
<br />
なお、江戸時代の剣・居合・棒術の流派に、駿河の今川越前守義真(義直、吉道とも)を始祖と称する「今川流」、[[仙台藩]]に伝わる剣・居合の流派に今川越前守重家(吉道とも)を始祖と称する「今川兼流」がある。綿谷雪・山田忠史編『武芸流派大事典』(新人物往来社、1969年)は、義真を氏真と同一人物と推測しているが、根拠は示されていない。笹間良彦『図説日本武道辞典』(普及版:柏書房、2003年)が引く『[[撃剣叢談]]』によると、今川越前守義真は駿河今川氏庶流の人物といい、氏真とは別人である。<br />
<br />
=== 交友関係 ===<br />
*[[山科言継]]<br />
:言綱の義母(山科言綱の正室)・黒木の方が[[寿桂尼]]の姉という関係で、黒木の方は妹を頼って駿河に下向していた。弘治2年([[1556年]])から翌年にかけての駿河下向の際の『言継卿記』は、貴重な史料となっている。言継の子・[[山科言経]]との交友も深かった。<br />
*[[里村紹巴]]<br />
:永禄10年(1567年)に駿河を訪問した際の『富士見道記』では、氏真が連歌を興行していることが記録されている。<br />
*[[乗阿|一華堂乗阿]]<br />
:長善寺住持。武田信虎の庶子あるいは猶子とも伝える。<br />
*[[松平家忠]]<br />
:深溝松平氏当主。『家忠日記』には「氏真様」と敬称付きで記されている。<br />
*[[沢庵宗彭]]<br />
:交友があったらしく、『明暗双々記』に氏真の死を悼む詩を残している。<br />
<br />
=== 逸話 ===<br />
氏真に関しては、以下のような逸話が伝えられている。<br />
*『[[続武家閑談]]』は、天正10年(1582年)に武田氏が滅ぼされた際、家康が信長に「駿河を氏真に与えたらどうか」と言ったと記す。信長は「役にも立たない氏真に駿河を与えられようか、不要な人を生かすよりは腹を切らせたらいい」と答えた。これを伝え聞いて氏真は驚き、いずれかへ逃げ去っていたが、そのうちに[[本能寺の変]]が発生したという。<br />
*『[[及聞秘録]]』には、晩年家康を頼った氏真が江戸城をたびたび訪れては長話をしたために家康が辟易し、江戸城から離れた品川に屋敷を与えたと記されている。<br />
*『[[故老諸談]]』には、氏真と家康が和歌について談じたことが記される。氏真が和歌の道の奥深さや言葉選びの難しさを語るのに対して、家康は技法にこだわるよりも思いのままに詠むのがよいと返している。<br />
<br />
=== 肖像画 ===<br />
妻の[[早川殿]]と対になった[[肖像画]](遺像)があり、現在米国の個人が所蔵している。元和4年(1618年)2月に著された雲屋祖泰([[妙心寺]]107世)の讃から、没後間もない時期に遺族によって供養・追慕のために描かれたものとみられる<ref>小林明「紙本著色今川氏真・同夫人像について」『静岡県史研究』9(1993年)</ref>。『静岡県史研究』9(1993年)に口絵として大型の図版(モノクロ)が掲載されているほか、『図説静岡県史(静岡県史別編3)』(1998年)が夫妻の肖像をカラーで載せている。近年発行された入手しやすい書籍では有光(2008年)が氏真像のみを図版として載せている。<br />
<br />
== 系譜 ==<br />
;父母<br />
*父:[[今川義元]]<br />
*母:[[定恵院]]([[武田信虎]]女)<br />
;兄弟姉妹<br />
*[[一月長得]]<br />
*[[嶺松院]]([[武田義信]]室)<br />
*隆福院<br />
;妻妾<br />
*正室:[[早川殿|早川殿(蔵春院殿)]](北条氏康女)<br />
*側室:庵原右近太夫忠康の娘<br />
;子女<br />
*娘([[吉良義定]]室)<br />
:生年は明らかではないが、子・[[吉良義弥|義弥]](天正14年、1586年)の生年から、駿河時代の子と推測される。氏真が北条氏を頼って逃れた際の文書に「氏真・御二方」を引き取ったという文言があることから、氏真は早川殿とともに娘を伴っていたと考えられることも、推測を補強する<ref>長谷川弘道「今川氏真没落期の家族について」『戦国史研究』27(1994年2月)</ref>。<br />
*[[今川範以]]<br />
*[[品川高久]]<br />
*西尾安信<br />
:伝十郎と称した。生年は不詳。慶長18年([[1613年]])11月3日没。<br />
*[[澄存]]<br />
:天正7年([[1579年]])生まれの末子。[[聖護院]]准后道澄の弟子となる。[[熊野若王子神社|若王子]]住職・熊野三山修験道本山奉行となり、[[承応]]元年([[1652年]])に没した。<br />
<br />
== 今川氏真を題材にした作品 ==<br />
;小説<br />
*[[赤木駿介]]『天下を汝に―戦国外交の雄・今川氏真』(新潮社)<br />
*[[戸部新十郎]]「睡猫」([[徳間文庫]]・『秘剣龍牙』収録)<br />
<br />
;氏真が登場するテレビドラマ<br />
* [[太閤記 (NHK大河ドラマ)|太閤記]](昭和40年([[1965年]]) NHK大河ドラマ、演:[[高野恭明]])<br />
* [[天と地と (NHK大河ドラマ)|天と地と]](昭和44年([[1969年]]) NHK大河ドラマ、演:[[阿知波信介]])<br />
* [[徳川家康 (NHK大河ドラマ)|徳川家康]](昭和58年([[1983年]]) NHK大河ドラマ、演:[[林与一]])<br />
* [[武田信玄 (NHK大河ドラマ)|武田信玄]](昭和63年([[1988年]]) NHK大河ドラマ、演:[[神田雄次]])<br />
* [[風林火山 (NHK大河ドラマ)|風林火山]](平成19年([[2007年]]) NHK大河ドラマ、演:[[風間由次郎]])<br />
<br />
== 参考文献 ==<br />
*観泉寺史編纂刊行委員会編『今川氏と観泉寺』(吉川弘文館、1974年)<br />
*米原正義『戦国武士と文芸の研究』(桜楓社、1976年)<br />
*『静岡県史 通史編2 中世』(静岡県、1997年)<br />
*有光友學『今川義元』(吉川弘文館、2008年)<br />
<br />
== 脚注 ==<br />
{{reflist|2}}<br />
<br />
{{今川氏歴代当主||10代|1560-1569}}<br />
<br />
{{DEFAULTSORT:いまかわ うしさね}}<br />
[[Category:今川氏|うしさね]]<br />
[[Category:戦国武将]]<br />
[[Category:戦国大名]]<br />
[[Category:駿河国の人物]]<br />
[[Category:1538年生]]<br />
[[Category:1615年没]]<br />
<br />
[[en:Imagawa Ujizane]]<br />
[[eo:Imagawa Ujizane]]<br />
[[fr:Ujizane Imagawa]]<br />
[[zh:今川氏真]]</div>
桂鷺淵
https://de.wikipedia.org/w/index.php?title=Imagawa_Ujizane&diff=135799374
Imagawa Ujizane
2009-05-17T04:39:17Z
<p>桂鷺淵: </p>
<hr />
<div>{{武士/開始|今川氏真}}<br />
{{武士/時代|[[戦国時代 (日本)|戦国時代]]から[[江戸時代]]前期}}<br />
{{武士/生誕|[[天文 (元号)|天文]]7年([[1538年]])<ref>没年齢からの逆算。</ref>}}<br />
{{武士/死没|[[慶長]]19年[[12月28日 (旧暦)|12月28日]]([[1615年]][[1月27日]])}}<br />
{{武士/改名|龍王丸(幼名)、五郎(仮名)<ref>[[大石泰史]]「今川氏真の幼名と仮名」『戦国史研究』23(1992年2月)</ref>、氏真、宗誾(法名)}}<br />
{{武士/別名|彦五郎(通称)、仙巖斎(斎号)}}<br />
{{武士/戒名|仙岩院殿量山泰栄大居士<ref>「[[萬昌院功運寺|牛込御殿山久宝山万昌院]]鬼簿」(『[[朝野旧聞襃藁]]』七百五十四所載)による。ほかに「仙岩院殿豊山泰永大居士」(「北条氏過去帳」〔『[[大日本史料]]』第十二編之十七所収〕)、「仙巌院殿機峯宗俊大居士」(『[[今川家略記]]』)とも。</ref>}}<br />
{{武士/墓所|[[萬昌院]]、[[観泉寺]]}}<br />
{{武士/官位|従四位下、[[上総国|上総]]介、刑部大輔<ref>『[[瑞光院記]]』によると、永禄3年([[1560年]])5月8日、義元が三河守に遷任された際に氏真は治部大輔に任官されたとあるが、この称を用いた史料はなく疑わしい。『[[寛政重修諸家譜]]』には「従四位下刑部大輔」とあるが、これも史料上確認されていない。実際の使用が確認されているのは「上総介」である。</ref>}}<br />
{{武士/幕府|[[室町幕府]][[相伴衆|御相伴衆]]。<br/>[[駿河国|駿河]][[守護]]職・[[遠江国|遠江]]守護職か?<ref>両国の守護は祖父氏親以来今川氏が世襲しているが、氏真の守護職補任を確認できる史料は残されていない。</ref>}}<br />
{{武士/主君|[[北条氏康]]→[[北条氏政|氏政]]→[[徳川家康]]}}<br />
{{武士/氏族|[[今川氏]]}}<br />
{{武士/父母|父:[[今川義元]]<br/>母:[[定恵院]]([[武田信虎]]女)}}<br />
{{武士/兄弟|'''氏真'''、[[嶺松院]]([[武田義信]]室)<br>[[隆福院]]、[[一月長得]]}}<br />
{{武士/妻|正室:'''[[早川殿]]'''([[北条氏康]]女)}}<br />
{{武士/子|娘([[吉良義定]]室)、'''[[今川範以|範以]]'''、[[品川高久]]、西尾安信、澄存、猶子:''[[北条氏直]]''}}<br />
{{武士/終了}}<br />
<br />
'''今川 氏真'''(いまがわ うじざね)は、[[駿河国|駿河]]の[[戦国大名]]。駿河[[今川氏]]10代当主で、大名としての今川家の最後の当主である。<br />
<br />
父・義元が[[桶狭間の戦い]]で[[織田信長]]によって討たれたためその領国を受け継いだが、[[武田信玄]]と[[徳川家康]]の侵攻を受けて敗れ、戦国大名としての今川家は滅亡した。その後は北条氏を頼り、最終的には徳川家康の庇護を受けた。今川家は[[江戸幕府]]のもとで[[高家]]として家名を残した。<br />
<br />
== 生涯 ==<br />
=== 家督相続 ===<br />
[[天文 (元号)|天文]]7年([[1538年]])、[[今川義元]]と[[定恵院]]([[武田信虎]]の娘)との間に嫡子として生まれる。天文23年([[1554年]])、17歳の折に[[北条氏康]]の長女・[[早川殿|蔵春院早川殿]]と結婚し、[[甲相駿三国同盟]]の成立に寄与した。<br />
<br />
[[弘治 (日本)|弘治]]2年([[1556年]])から翌年にかけて駿河を訪問した[[山科言継]]の日記『言継卿記』には、若い日の氏真も登場している。言継は、弘治3年([[1557年]])正月に氏真が自邸で開いた和歌始に出席したり、氏真に書や鞠を送ったりしたことを記録している。<br />
<br />
氏真は[[永禄]]元年([[1558年]])より駿河・遠江に文書を発給しており<ref>初見文書は永禄元年閏6月24日付の遠江国河匂庄老間村の寺庵中宛安堵状。</ref>、<br />
この前後に義元から氏真に[[家督]]が譲られたとするのが、研究上の主流の見解である([[#家督継承について]])。この時期の三河への文書発給は氏真ではなく義元の名で行われていることから、義元が三河国の掌握と西方への軍事行動に専念するため、氏真に駿河・遠江の経営を委ねたとする見方が提示されている<ref>。有光(2008年)273~275ページ。</ref>。<br />
<br />
永禄3年([[1560年]])5月19日、[[尾張国|尾張]]に侵攻した義元が[[桶狭間の戦い]]で[[織田信長]]に討たれたため、氏真は名実ともに今川家の領国を継承することとなった。<br />
<br />
=== 相次ぐ離反 ===<br />
[[桶狭間の戦い]]では、今川家の重臣([[由比正信]]・[[一宮宗是]]など)や[[国人]]([[松井宗信]]・[[井伊直盛]]など)が多く討死した。[[三河国|三河]]・[[遠江国|遠江]]の国人の中には、今川家の統治に対する不満や当主死亡を契機とする紛争が広がり、今川家からの離反の動きとなって現れた(三州錯乱・遠州忩劇)。<br />
<br />
三河の国人は、義元の対織田戦の陣頭に動員されており、その犠牲も大きかった。[[徳川家康|松平元康]](1563年家康に改名)は桶狭間の合戦後に旧領[[岡崎城]]に入り、[[西三河]]地域は元康の勢力下に入った。[[東三河]]でも、国人領主たちは今川氏真が新たな人質を要求したことにより不満を強め、離反して松平方につく国人と今川方に残る国人との間での抗争が広がる(三州錯乱)。永禄4年([[1561年]])、今川家から離反した[[菅沼定盈]]の[[野田城 (三河国)|野田城]]攻めに先立って、[[小原鎮実]]は人質十数名を[[龍拈寺]]で処刑するが、この措置は多くの東三河勢の離反を決定的なものにした。松平元康は永禄5年([[1562年]])正月には織田信長と[[清洲同盟]]を結び、今川氏の傘下から独立する姿勢を明らかにする。永禄5年(1562年)6月、氏真は自ら兵を率いて[[牛久保城|牛久保]]に出兵し一宮砦を攻撃したが、「一宮の後詰」と呼ばれる元康の奮戦で撃退されている。このとき、駿府に滞在していた外祖父[[武田信虎]]の動きが不穏であり、氏真は途中で軍を返したともという<ref>『校訂松平記』による。この合戦については永禄7年(1564年)に起こったものとするもの(『三河物語』など)もあり、細部も異なる話も伝えられている。</ref>。<br />
永禄7年([[1564年]])6月には[[東三河]]の拠点である[[吉田城_(三河国)|吉田城]]が開城し、今川氏の勢力は三河から駆逐される。<br />
<br />
遠江においても家臣団・国人の混乱と離反が広がった(遠州忩劇、遠州錯乱)。永禄5年(1562年)には謀反が疑われた[[井伊直親]]を重臣の[[朝比奈泰朝]]に誅殺させている。ついで永禄7年(1564年)には[[浜松城|曳馬城]]主・[[飯尾連竜]]が家康と内通して反旗を翻した。氏真は、重臣[[三浦正俊]]らに命じて曳馬城を攻撃させるが陥落させることができず、逆に正俊が戦死してしまう。その後、和議に応じて降った飯尾連竜を永禄8年([[1565年]])12月に謀殺した。飯尾氏家臣たちが籠城する曳馬城には再び攻撃がかけられ、翌9年(1566年)4月に開城する。しかしこれらの措置も事態を収拾することはできず、国人たちを徳川方に走らせることになった。<br />
<br />
氏真は祖母[[寿桂尼]]の後見を受けて政治を行っていたと見られる。1560年(永禄3年)後半から1562年(永禄5年)にかけて氏真は活発な文書発給を行い、寺社・被官・国人のつなぎ止めを図っている。外交面では北条氏との連携を維持し、[[上杉謙信|長尾景虎]](後の上杉謙信)の関東侵攻に対して援兵を送っている。また、永禄4年(1561年)以前と推定される時期に[[室町幕府]]の[[相伴衆|御相伴衆]]の格式に列しており、幕府の権威によって領国の混乱に対処しようとしたと考えられる<ref>[[平野明夫]]「今川氏真と室町将軍」『戦国史研究』40(2000年8月)。</ref>。内政面では、永禄9年([[1566年]])4月に[[富士宮市|富士大宮]]の[[六斎市]]を[[楽市・楽座|楽市]]とし<ref>大宮司富士家文書</ref>、[[徳政令|徳政]]の実施を命じたり、役の免除などを行ったりした<ref>[[若林淳之]]「今川氏真の苦悶―今川政権の終焉―」『静岡大学教育学部研究報告』6(1955年)。若林は、氏真が国人的土豪層を基盤とする従来の[[守護大名]]的秩序の行き詰まりを受け、直接年貢負担者([[本百姓]])を基盤とする[[戦国大名]]的秩序への脱皮を図ったが、再編の混乱の中で侵攻を受け成果を見なかったと評価している。</ref>。<br />
しかし、これらの政策も、衰退をとどめることはできなかった。<br />
<br />
『[[甲陽軍鑑]]』など後に記された諸書には、氏真が遊興に耽るようになり、家臣の[[三浦義鎮]](右衛門佐、[[小原鎮実]]の子)を寵愛して政務を任せっきりにしたとする。また、政権末期にはこうした特定家臣の寵用や重臣の腐敗などの問題が表面化しつつあったと指摘されている<ref>若林淳之「今川氏真の苦悶」</ref>。<br />
<br />
[[里村紹巴]]が永禄10年([[1567年]])5月に駿河を訪問した際に記した『富士見道記』では、氏真をはじめ領内の寺社や公家宅で盛んに連歌の会や茶会を興行していることが記録されている。この時期も[[三条西実澄]]や[[冷泉為益]]が駿府に滞在しており、氏真政権末期にも歌壇は盛んであった。『校訂松平記』によると、永禄10年7月には駿河に[[風流踊]]が流行し、翌年の夏にも再発した。この際、氏真はみずから太鼓を叩いて興じたという。同書は、三浦右衛門佐が氏真に勧めて風流踊を流行させたとし、亡国の兆しとして描いている。<br />
<br />
=== 戦国大名今川氏の滅亡 ===<br />
{{main|駿河侵攻}}<br />
今川氏の衰退を見た[[甲斐国|甲斐]]の[[武田信玄]]は[[駿河国|駿河]]への南進を画策する。信玄の嫡男で氏真の妹・[[嶺松院]]の夫である[[武田義信]]はこれに反対したが、信玄は永禄8年([[1565年]])に義信を反逆の罪で幽閉して廃嫡。永禄10年([[1567年]])には義信を自害させ、嶺松院を今川家に送り返して婚姻同盟を破棄した。これにより今川氏は外交的にも不利な立場に陥った。氏真は[[越後国|越後]]の[[上杉謙信]]と盟約を交わして対抗し、[[相模国|相模]]の[[北条氏康]]とともに[[甲斐国|甲斐]]への[[荷留|塩留]]を行った<ref name="souran">『史料綜覧』。</ref>が、信玄は徳川家康や織田信長と同盟を結んで対抗したため、これは決定的なものにはならなかった。<br />
<br />
永禄11年([[1568年]])12月6日、信玄は甲府を発して駿河への侵攻を開始した。12月12日、[[薩た峠|薩{{lang|zh|埵}}峠]]で武田軍を迎撃するため氏真も[[興津]]の[[清見寺]]に出陣したが、[[瀬名信輝]]や[[葛山氏元]]、[[朝比奈政貞]]、[[三浦義鏡]]など駿河の有力国人21人が信玄に通じたため、12月13日に今川軍は潰走し、[[駿府]]もたちまち占領された。氏真は朝比奈泰朝の居城[[遠江国|遠江]][[掛川城]]へ逃れた。しかし、遠江にも今川領分割を信玄と約していた徳川家康が侵攻し、その大半が制圧される。12月27日には徳川軍によって掛川城が包囲されたが、泰朝をはじめとした家臣たちの奮闘で半年近くの籠城戦となった。<br />
<br />
早川殿の父・[[北条氏康]]は救援軍を差し向け、薩{{lang|zh|埵}}峠に布陣。戦力で勝る北条軍が優勢に展開するものの、武田軍の撃破には至らず戦況は膠着した。徳川軍による掛川包囲戦が長期化する中で、信玄は約定を破って遠江への圧迫を強めたため、家康は氏真との和睦を模索する。永禄12年([[1569年]])5月17日、氏真は家臣たちの助命と引き換えに掛川城を開城した。この時に今川氏真・徳川家康・北条氏康の間で、武田信玄の勢力を駿河から追い払った後は、氏真を再び駿河の国主とするという盟約が成立する。<br />
<br />
しかし、この盟約は結果的に履行されることはなく、氏真およびその子孫が領主の座に戻らなかったことから、一般的には、この掛川城の開城をもって戦国大名としての今川氏の滅亡(統治権の喪失)と解釈されている。<br />
<br />
=== 駿河旧国主の流転 ===<br />
[[掛川城]]の開城後、氏真は妻の実家である[[後北条氏|北条氏]]を頼り、蒲原を経て[[伊豆国|伊豆]][[戸倉城_(伊豆国)|戸倉城]]に入った。のち[[小田原]]に移り、早川に屋敷を与えられる<ref>『校訂松平記』</ref>。永禄12年([[1569年]])5月23日、氏真は[[北条氏政]]の嫡男・国王丸(後の[[北条氏直|氏直]])を猶子とし、国王丸の成長後に駿河を譲ることを約した(この時点で氏真の嫡男・[[今川範以|範以]]はまだ生まれていない)。また、[[武田氏]]への共闘を目的に[[上杉謙信]]のもとに使者を送り、今川・北条・上杉三国同盟を結ぶ(実態は[[越相同盟]])。駿河では、[[岡部正綱]]が一時駿府を奪回し、花沢城の[[小原鎮実]]が武田氏への抗戦を継続するなど今川勢力の活動はなお残っており、氏真を後援する北条氏による出兵も行われた。抗争中の駿河に対して氏真は多くの安堵状や感状を発給している。これらの書状の実効性を疑問視する見解もあるが、氏真が駿河に若干の直轄領を持ち、北条国王丸の代行者・補佐役として北条氏の駿河統治の一翼を担ったとの見方もある<ref>[[久保田昌希]]「懸川開城後の今川氏真と後北条氏」『駒沢史学』39・40合併号(1988年9月)、[[酒入陽子]]「懸川開城後の今川氏真について」『戦国史研究』39(2000年2月)。</ref>。しかし、蒲原城の戦いなどで北条軍は敗れ、今川家臣も順次武田氏の軍門に降るなどしたため、[[元亀]]2年([[1571年]])頃には大勢が決し、氏真は駿河の支配を回復することはできなかった。<br />
<br />
[[元亀]]2年([[1571年]])10月に[[北条氏康]]が死ぬと、[[北条氏政|氏政]]は外交方針を転換して[[武田氏]]と和睦した(甲相一和)。12月に氏真は[[相模国|相模]]を離れ、徳川家康の庇護下に入った<ref>『校訂松平記』によると、信玄が氏真の殺害を図って小田原に人を送ったためという。『北条五代記』にも同様の記事があり、氏真が「中々に世をも人をも恨むまじ 時にあはぬを身の科にして」という一首を詠んだと記されている。</ref>。<br />
掛川城開城の際の講和条件を頼りにしたと見られるが、家康にとっても旧国主の保護は駿河統治の大義名分を得るものであった。元亀3年([[1572年]])に入ると、氏真は興津清見寺に文書を下すなど、若干の動きを見せている。天正元年(1573年)には伊勢[[大湊 (伊勢市)|大湊]]の商人に預けていた氏真の茶道具を信長が買い上げようとしたことがあり、その際に信長家臣と大湊商人の間で交わされた文書から、氏真が浜松に滞在していたことがわかる。<br />
<br />
天正3年([[1575年]])の行動は、この年1月から9月頃までに詠んだ歌428首を収めた私歌集『今川氏真詠草』([[内閣文庫]]蔵)に書き残されている。氏真は1月に(おそらく浜松から)吉田・岡崎などを経て上洛の旅に出、京都到着後は社寺を参詣したり[[三条西実澄]]ら旧知の公家を訪問したりしている<ref name="eisou">『今川氏真詠草』</ref>。<br />
3月16日には徳川家康の同盟者にして「父の仇」でもある織田信長と[[京都]]の[[相国寺]]で会見、信長は氏真に蹴鞠を所望し、同20日に相国寺において公家たちとともに信長に蹴鞠を披露している<ref>『[[信長公記]]』。氏真は16日の会見以前に「千鳥の香炉」「宗祇香炉」を献上しており、この日の会見で、信長は宗祇香炉のみを氏真に返却している。『今川氏真詠草』にはこの会見に関する感慨は記されていない。</ref>。<br />
4月、[[武田勝頼]]が三河長篠に侵入したことを聞くと([[長篠の戦い]])京を出立して三河に戻り、5月15日から牛久保で後詰を務めている<ref>『今川氏真詠草』。おそらく家康に従ったものと思われる。『続武家閑談』『紀伊国物語』にも氏真が家康に同道していたことが記されている。</ref>。<br />
氏真に仕えていた[[朝比奈泰勝]]は、家康の許に使者に訪れた際に設楽原での戦闘に参加し、[[内藤昌豊]]を討ち取り、家康の直臣になったという<ref>『校訂松平記』</ref>。<br />
<br />
長篠の合戦後、氏真も残敵掃討に従事したのち、5月末からは数日間旧領駿河にも進入し、各地に放火している<ref name="eisou"/>。<br />
7月中旬には[[遠江国|遠江]][[諏訪原城]](現:[[静岡県]][[島田市]])攻撃に従った。諏訪原城は8月に落城して牧野城と改名する。天正4年(1576年)3月17日、家康は牧野城主に氏真を置き、[[松平家忠]]・[[松平康親]]に補佐させた<ref name="souran"/>。しかし、天正5年(1577年)3月1日に氏真は浜松に召還されている。1年足らずでの城主解任であった。また、城主時代に剃髪したらしく、牧野城主解任時に家臣・海老江弥三郎に暇を与えた文書では'''宗誾'''(そうぎん)と号している<ref name="souran"/>。<br />
この文書が、今川家当主として氏真が発給した現存最後の文書となる。<br />
<br />
=== 後半生 ===<br />
牧野城主解任後の動向は不明であるが、氏真は浜松周辺にいたのではないかと推測され、[[松平家忠]]の『家忠日記』に断続的に登場している。天正7年(1579年)10月には浜松城の家忠の詰所を氏真が訪問しており、その後家康の饗応も受けている。また「氏真衆」と呼ばれる家臣がおり、『家忠日記』には彼らとの交際も記されている。天正11年([[1583年]])7月、[[近衛前久]]が浜松を訪れ、家康が饗応した際には、氏真も陪席している<ref>『景憲家伝』、『明良洪範』</ref>。<br />
この後しばらくの消息は再びわからなくなる。<br />
<br />
[[天正]]19年([[1591年]])9月、[[山科言経]]の日記『言経卿記』に氏真は姿を現す。この頃までには京都に移り住んだと推測される。仙巌斎(仙岩斎)という斎号を持つようになった氏真は、言経はじめ[[冷泉為満]]・[[冷泉為将]]ら旧知・姻戚の[[公家]]などの文化人と往来し、冷泉家の月例和歌会や[[連歌]]の会などにしきりに参加したり、古典の借覧・書写などを行っていたことが記されている。[[文禄]]4年([[1595年]])の『言経卿記』には言経が氏真と共に[[石川家成]]を訪問するなど、この時期にも徳川家と何らかのつながりがあることが推測される<ref>井上宗雄「今川氏とその学芸」、『今川氏と観泉寺』p.671</ref>。<br />
<br />
京都在住時代の氏真は、豊臣秀吉あるいは徳川家康から与えられた所領からの収入によって生活をしていたとも推測される<ref>『[[志士清談]]』によると、氏真は秀吉の頃に400石の捨扶持を与えられ、京都四条で世捨て人のような暮らしをしていたという。</ref>。のちの慶長17年([[1612年]])に、徳川家康から近江国野洲郡長島村(現:[[滋賀県]][[野洲市]]長島)の「旧地」500石を安堵されているが<ref>『寛政重修諸家譜』、『略譜』(大日本史料所収)</ref>、この「旧地」の由来や性格ははっきりしていない<ref>今川家の衰微を見かねた若王子が分けたもの(『甲子夜話続編』)、建武年間に[[今川範国]]が領主だった由来のもの(『観泉寺と今川氏』p.125が引く『神社明細帳』所収の長島神社由緒)、室町時代に今川家が在京費用のために領有していたもの(『観泉寺と今川氏』p.11が引く野洲郡西運寺所蔵「御位牌之縁起」)など諸説ある。</ref>。<br />
<br />
[[慶長]]3年([[1598年]])、氏真は次男[[品川高久|高久]]を徳川秀忠に出仕させる。慶長12年([[1607年]])には長男・[[今川範以|範以]]が京都で没する。慶長16年([[1611年]])には、範以の遺児・[[今川直房|範英]]が徳川秀忠に出仕した。<br />
<br />
『言経卿記』の氏真記事は、慶長17年([[1612年]])正月、冷泉為満邸で行われた連歌会に出席した記事が最後となる。氏真は住み慣れた京都を去り、4月に郷里駿府で大御所徳川家康と面会している<ref>『[[駿府記]]』慶長17年4月14日条</ref>。氏真の「旧地」が安堵されたのはこの時で、また家康は氏真に対して品川に屋敷を与えたという。そのまま子や孫のいる[[江戸]]に移住したものと思われ、慶長18年([[1613年]])に長年連れ添った[[早川殿]]と死別した。<br />
<br />
[[慶長]]19年([[1614年]])[[12月28日 (旧暦)|12月28日]]、江戸で死去。享年77。<br />
<br />
葬儀は氏真の弟の[[一月長得]]が江戸[[市谷]]の[[萬昌院]]で行い、同寺に葬られた。[[寛文]]2年([[1662年]])に萬昌院が牛込に移転するのに際して、井草の宝珠山[[観泉寺]](現・[[東京都]][[杉並区]][[今川 (杉並区)|今川]]二丁目)に妻・蔵春院早河殿の墓とともに移された。<br />
<br />
== 研究上の論点 ==<br />
=== 家督継承について ===<br />
氏真の家督継承時期について、[[米原正義]]は弘治3年(1557年)正月の氏真邸の歌会始を今川家の歌会始とし、義元生前の家督譲渡の可能性をはじめて指摘した<ref name="yonehara">米原正義「今川氏の文芸」、同著『戦国武士と文芸の研究』(桜楓社、1976年)所収。</ref>。[[有光友學]]は「如律令」朱印の文書発給から永禄2年(1559年)5月段階で家督が継承されていたとする<ref>有光友學「今川義元-氏真の代替りについて」『戦国史研究』3(1982年)、「今川義元の生涯」『静岡県史研究』9(1993年)。</ref>。[[長谷川弘道]]は『言継卿記』弘治3年正月の記載を「屋形五郎殿」と解釈し、この時点で家督継承がなされていたとする<ref>「今川氏真の家督継承について」『戦国史研究』23(1992年)。</ref>。ただし、時期を確定する上ではいずれも決定的とはいえない。<br />
<br />
== 人物 ==<br />
=== 家族関係 ===<br />
*正室:[[早川殿|蔵春院早川殿]](北条氏康の長女)<br />
:氏真が没落した後も行動をともにし、慶長18年([[1613年]])に没するまで生涯連れ添った。範以・高久・澄存を生んだことは史料上確実であり、長女についても所生と考えられる<ref name="inoue">井上宗雄「今川氏とその学芸」、『今川氏と観泉寺』</ref><br />
*側室:庵原右近太夫忠康の娘。<br />
:有力家臣・[[庵原氏]]出身。<br />
*長女<br />
:[[吉良義定]]室。生年は明らかではないが、子・[[吉良義弥|義弥]](天正14年、1586年)の生年から、駿河時代の子と推測される。氏真が北条氏を頼って逃れた際の文書に「氏真・御二方」を引き取ったという文言があることから、氏真は早川殿とともに娘を伴っていたと考えられることも、推測を補強する<ref>長谷川弘道「今川氏真没落期の家族について」『戦国史研究』27(1994年2月)</ref>。<br />
*嫡男:[[今川範以]]<br />
:[[元亀]]元年([[1570年]])に生まれた。氏真33歳の時の子であり、この時期にはすでに駿河を追われている。父に先立って京都で没した。<br />
*次男:[[品川高久]]<br />
:[[天正]]4年([[1576年]])生まれ。今川の苗字は嫡家のみという由緒を重んじた[[徳川秀忠]]の意向で品川氏を名乗った。<br />
*三男:西尾安信<br />
:伝十郎と称した。生年は不詳。慶長18年([[1613年]])11月3日没。<br />
*四男:澄存<br />
:天正7年([[1579年]])生まれの末子。[[聖護院]]准后道澄の弟子となる。[[熊野若王子神社|若王子]]住職・熊野三山修験道本山奉行となり、[[承応]]元年([[1652年]])に没した。<br />
<br />
=== 交友関係 ===<br />
*[[山科言継]]<br />
:言綱の義母(山科言綱の正室)・黒木の方が[[寿桂尼]]の姉という関係で、黒木の方は妹を頼って駿河に下向していた。弘治2年([[1556年]])から翌年にかけての駿河下向の際の『言継卿記』は、貴重な史料となっている。言継の子・[[山科言経]]との交友も深かった。<br />
*[[里村紹巴]]<br />
:永禄10年(1567年)に駿河を訪問した際の『富士見道記』では、氏真が連歌を興行していることが記録されている。<br />
*[[乗阿|一華堂乗阿]]<br />
:長善寺住持。武田信虎の庶子あるいは猶子とも伝える。<br />
*[[松平家忠]]<br />
:深溝松平氏当主。『家忠日記』には「氏真様」と敬称付きで記されている。<br />
*[[沢庵宗彭]]<br />
:交友があったらしく、『明暗双々記』に氏真の死を悼む詩を残している。<br />
<br />
=== 文化人としての氏真 ===<br />
和歌・連歌・蹴鞠などの技芸に通じた文化人であったという。<br />
<br />
==== 和歌 ====<br />
氏真は生涯に多くの[[和歌]]を詠んだ。観泉寺史編纂刊行委員会編『今川氏と観泉寺』には1658首が収録されている。<br />
<br />
氏真の少年時の文化的な環境から、駿河に下向していた権大納言[[冷泉為和]]や、詩歌に通じていた[[太原雪斎]]などから指導を受けたとも考えられるが、具体的なことは知られていない<ref name="inoue"/>。紹巴の『富士見道記』には、氏真が[[冷泉為益]](為和の子)から作法の伝授を受けたと記されている<ref name="yonehara"/>。<br />
<br />
『今川氏と観泉寺』を編纂した一人であり、中古・中世和歌史の研究者である[[井上宗雄]]は、氏真の作品を優美平明を旨とする中世和歌の伝統的手法に則った作品と評している。「その作品は、すべてが勝れたものでなく、全体的に当時の水準を抜くものではなかったにしろ、時には水準に迫り、また少数ながら新しみのある歌、個性的な歌が存することは注目される。なお多くの平凡な歌が全く無駄だったとは思われない。常に歌に精神の中心を置いていればこそ、緊張感のみなぎった時には、調べの張った、個性的な歌を生んだのである」<ref name="inoue"/>。氏真は、[[後水尾天皇]]選の[[集外三十六歌仙]]にも名を連ねている(「集外三十六歌仙」にはほかに武田信玄や北条氏康も数えられている)。<br />
<br />
==== 蹴鞠 ====<br />
織田信長の前で[[蹴鞠]]を披露したエピソードで知られる。『信長公記』の記載では、氏真が蹴鞠をすることを聞き及んでいた信長が所望したという<ref>「今川殿鞠を遊ばさるゝの由聞食及ばれ、三月廿日、相国寺において御所望」。</ref>。同時代の史料で確認できる氏真と蹴鞠との関わりは、この『信長公記』の記載と、青年期の氏真に[[山科言継]]が鞠を送ったという『言継卿記』の記載程度しかない。<br />
<br />
駿河に下向していた[[飛鳥井家|飛鳥井流宗家]]の[[飛鳥井雅綱]]から手ほどきを受けたとされる。江戸時代初期に成立した笑話集『[[醒睡笑]]』には、氏真が賀茂神社神官の[[松下述久]]に師事したことが記されている。<br />
<br />
==== 剣術 ====<br />
[[塚原卜伝]]に[[鹿島新当流|新当流]]の[[剣術]]を学んだ<ref name="bugeiryuuha">綿谷雪・山田忠史編『武芸流派大事典』(新人物往来社、1969年)。</ref>。<br />
<br />
なお、江戸時代の剣・居合・棒術の流派に、駿河の今川越前守義真(義直、吉道とも)を始祖と称する「今川流」、[[仙台藩]]に伝わる剣・居合の流派に今川越前守重家(吉道とも)を始祖と称する「今川兼流」がある。綿谷雪・山田忠史編『武芸流派大事典』(新人物往来社、1969年)は、義真を氏真と同一人物と推測しているが、根拠は示されていない。笹間良彦『図説日本武道辞典』(普及版:柏書房、2003年)が引く『[[撃剣叢談]]』によると、今川越前守義真は駿河今川氏庶流の人物という。<br />
<br />
=== 後世の評価・逸話 ===<br />
*江戸時代初期に成立した『[[甲陽軍鑑]]』品第十一では、「鈍過たる大将(馬嫁なる大将)」として氏真が挙げられている。氏真は心は剛毅であり戦闘も下手ではなかったと描かれているが、譜代の賢臣を重んじず、三浦義鎮のような「奸臣」を重用して失政を行ったという点に批判の重点が置かれている。<br />
*[[松平定信]]が随筆『閑なるあまり』に「日本治りたりとても、油断するは[[足利義政|東山義政]]の茶湯、[[大内義隆]]の学問、今川氏真の歌道ぞ」と記しているように、江戸時代中期以降に書かれた文献の中では、[[和歌]]や[[蹴鞠]]といった「文弱」な娯楽に溺れ国を滅ぼした暗君として描かれていることが多く、このイメージは今日の歴史小説や歴史ドラマにおいてしばしば踏襲されている人物像である。<br />
*『[[続武家閑談]]』は以下の逸話を載せる。天正10年(1582年)、武田氏が滅ぼされた際、家康が信長に「駿河を氏真に与えたらどうか」と言ったところ、信長は「役にも立たない氏真に駿河を与えられようか、不要な人を生かすよりは腹を切らせたらいい」と答えた。これを伝え聞いて氏真は驚き、いずれかへ逃げ去っていたが、そのうちに[[本能寺の変]]が発生したという。家康と信長の間のやりとりについて真偽のほどは定かではない。<br />
*『[[及聞秘録]]』には、晩年家康を頼った氏真が江戸城をたびたび訪れて長話をしたために家康が辟易し、江戸城から離れた品川に屋敷を与えたと記されている。家康が氏真を江戸城で引見したかについては疑わしい。<br />
*『[[故老諸談]]』には、氏真と家康が和歌について談じたことが記される。氏真が和歌の道の奥深さや言葉選びの難しさを語るのに対して、家康は技法にこだわるよりも思いのままに詠むのがよいと返している。<br />
<br />
=== 肖像画 ===<br />
*妻の[[早川殿]]と対になった[[肖像画]](遺像)があり、現在米国の個人が所蔵している。元和4年(1618年)2月に著された雲屋祖泰([[妙心寺]]107世)の讃から、没後間もない時期に遺族によって供養・追慕のために描かれたものとみられる<ref>小林明「紙本著色今川氏真・同夫人像について」『静岡県史研究』9(1993年)</ref>。『静岡県史研究』9(1993年)に口絵として掲載されているほか、近年発行された入手しやすい書籍では有光(2008年)が図版として載せている。<br />
<br />
== 今川氏真を題材にした作品 ==<br />
;小説<br />
*天下を汝に―戦国外交の雄・今川氏真([[赤木駿介]]、新潮社)<br />
;氏真が登場するテレビドラマ<br />
* [[太閤記 (NHK大河ドラマ)|太閤記]](昭和40年([[1965年]]) NHK大河ドラマ、演:[[高野恭明]])<br />
* [[天と地と (NHK大河ドラマ)|天と地と]](昭和44年([[1969年]]) NHK大河ドラマ、演:[[阿知波信介]])<br />
* [[徳川家康 (NHK大河ドラマ)|徳川家康]](昭和58年([[1983年]]) NHK大河ドラマ、演:[[林与一]])<br />
* [[武田信玄 (NHK大河ドラマ)|武田信玄]](昭和63年([[1988年]]) NHK大河ドラマ、演:[[神田雄次]])<br />
* [[風林火山 (NHK大河ドラマ)|風林火山]](平成19年([[2007年]]) NHK大河ドラマ、演:[[風間由次郎]])<br />
<br />
== 参考文献 ==<br />
*観泉寺史編纂刊行委員会編『今川氏と観泉寺』(吉川弘文館、1974年)<br />
*米原正義『戦国武士と文芸の研究』(桜楓社、1976年)<br />
*有光友學『今川義元』(吉川弘文館、2008年)<br />
<br />
== 脚注 ==<br />
{{reflist|colwidth=30em}}<br />
<br />
<br />
{{先代次代|[[今川氏|駿河今川氏歴代当主]]|第10代:1560年 - 1569年|[[今川義元]]|高家今川家:[[今川直房]]}}<br />
<br />
{{DEFAULTSORT:いまかわ うしさね}}<br />
[[Category:今川氏|うしさね]]<br />
[[Category:戦国武将]]<br />
[[Category:戦国大名]]<br />
[[Category:駿河国の人物]]<br />
[[Category:1538年生]]<br />
[[Category:1615年没]]<br />
<br />
[[en:Imagawa Ujizane]]<br />
[[eo:Imagawa Ujizane]]<br />
[[fr:Ujizane Imagawa]]<br />
[[zh:今川氏真]]</div>
桂鷺淵
https://de.wikipedia.org/w/index.php?title=Imagawa_Ujizane&diff=135799370
Imagawa Ujizane
2009-04-18T05:29:37Z
<p>桂鷺淵: </p>
<hr />
<div>{{武士/開始|今川氏真}}<br />
{{武士/時代|[[戦国時代 (日本)|戦国時代]]から[[江戸時代]]前期}}<br />
{{武士/生誕|[[天文 (元号)|天文]]7年([[1538年]])<ref>没年齢からの逆算。</ref>}}<br />
{{武士/死没|[[慶長]]19年[[12月28日 (旧暦)|12月28日]]([[1615年]][[1月27日]])}}<br />
{{武士/改名|龍王丸(幼名)、五郎(仮名)<ref>[[大石泰史]]「今川氏真の幼名と仮名」『戦国史研究』23(1992年2月)</ref>、氏真、宗誾(法名)}}<br />
{{武士/別名|彦五郎(通称)、仙巖斎(斎号)}}<br />
{{武士/戒名|仙岩院殿量山泰栄大居士<ref>「[[萬昌院功運寺|牛込御殿山久宝山万昌院]]鬼簿」(『[[朝野旧聞襃藁]]』七百五十四所載)による。「仙岩院殿豊山泰永大居士」(「北条氏過去帳」〔『[[大日本史料]]』第十二編之十七所収〕)、「仙巌院殿機峯宗俊大居士」(『[[今川家略記]]』)とも。</ref>}}<br />
{{武士/墓所|[[萬昌院]]、[[観泉寺]]}}<br />
{{武士/官位|従四位下、[[上総国|上総]]介、刑部大輔<ref>『[[瑞光院記]]』によると、永禄3年([[1560年]])5月8日、義元が三河守に遷任された際に氏真は治部大輔に任官されたとあるが、この称を用いた史料はなく疑わしい。『寛政重修諸家譜』には「従四位下刑部大輔」とあるが、これも史料上確認されていない。実際の使用が確認されているのは「上総介」である。</ref>}}<br />
{{武士/幕府|[[室町幕府]][[駿河国|駿河]][[守護]]職・[[遠江国|遠江]]守護職}}<br />
{{武士/主君|[[北条氏康]]→[[北条氏政|氏政]]→[[徳川家康]]}}<br />
{{武士/氏族|[[今川氏]]}}<br />
{{武士/父母|父:[[今川義元]]<br/>母:[[定恵院]]([[武田信虎]]女)}}<br />
{{武士/兄弟|'''氏真'''、[[嶺松院]]([[武田義信]]室)<br>[[隆福院]]、[[一月長得]]}}<br />
{{武士/妻|正室:'''[[早川殿]]'''([[北条氏康]]女)}}<br />
{{武士/子|'''[[今川範以|範以]]'''、[[品川高久]]、娘([[吉良義定]]室)、猶子:''[[北条氏直]]''}}<br />
{{武士/終了}}<br />
<br />
'''今川 氏真'''(いまがわ うじざね)は、[[駿河国|駿河]]の[[守護大名]]・[[戦国大名]]。駿河[[今川氏]]10代当主で、大名としての今川家の最後の当主である。<br />
<br />
父・義元が[[桶狭間の戦い]]で[[織田信長]]によって討たれたためその領国を受け継いだが、[[武田信玄]]と[[徳川家康]]の侵攻を受けて敗れ、戦国大名としての今川家は滅亡した。その後は北条氏を頼り、最終的には徳川家康の庇護を受けた。今川家は[[江戸幕府]]のもとで[[高家]]として生き延びた。<br />
<br />
== 生涯 ==<br />
=== 家督相続 ===<br />
[[天文 (元号)|天文]]7年([[1538年]])、[[今川義元]]と[[定恵院]]([[武田信虎]]の娘)との間に嫡子として生まれる。天文23年([[1554年]])、17歳の折に[[北条氏康]]の長女・[[早川殿|蔵春院早川殿]]と結婚し、[[甲相駿三国同盟]]の成立に寄与した。<br />
<br />
[[弘治 (日本)|弘治]]2年([[1556年]])から翌年にかけて駿河を訪問した[[山科言継]]の日記『言継卿記』には、若い日の氏真も登場している。言継は、弘治3年([[1557年]])正月に氏真が自邸で開いた和歌始に出席したり、氏真に書や鞠を送ったりしたことを記録している。<br />
<br />
氏真は[[永禄]]元年([[1558年]])より駿河・遠江に文書を発給しており<ref>初見文書は永禄元年閏6月24日付の遠江国河匂庄老間村の寺庵中宛安堵状。</ref>、<br />
この前後に義元から氏真に[[家督]]が譲られたとするのが、研究上の主流の見解であるが、その時期については議論が分かれる<ref>氏真の家督継承時期は、[[米原正義]]は、弘治3年(1557年)正月の氏真邸の歌会始を今川家の歌会始とし、義元生前の家督譲渡の可能性をはじめて指摘した(「今川氏の文芸」、同著『戦国武士と文芸の研究』(桜楓社、1976)年所収)。[[有光友學]]は「如律令」朱印の文書発給から永禄2年(1559年)5月段階で家督が継承されていたとする(「今川義元-氏真の代替りについて」『戦国史研究』3(1982年)、「今川義元の生涯」『静岡県史研究』9(1993年))。[[長谷川弘道]]は『言継卿記』弘治3年正月の記載に「屋形五郎殿」とあることから、この時点で家督継承がなされていたとする(「今川氏真の家督継承について」『戦国史研究』23(1992年))。ただし、時期を確定する上ではいずれも決定的とはいえない。</ref>。<br />
氏真の文書発給は三河に及んでいないことから、代替わりの性格については議論があり、義元が三河国の掌握と西方への軍事行動に専念するため、氏真に駿河・遠江の経営を委ねたとする見方が提示されている<ref>。有光(2008年)273~275ページ。</ref>。<br />
<br />
永禄3年([[1560年]])5月19日、[[尾張国|尾張]]に侵攻した義元が[[桶狭間の戦い]]で[[織田信長]]に討たれたため、氏真は名実ともに今川家の領国を継承することとなった。<br />
<br />
=== 相次ぐ離反 ===<br />
[[桶狭間の戦い]]では今川氏の重臣や[[国人]]が多く討死した。[[三河国|三河]]・[[遠江国|遠江]]の国人・家臣たちの中には動揺や不満が広がり、今川氏からの離反の動きが広がった(三州錯乱・遠州忩劇)。<br />
<br />
三河の国人は、義元の対織田戦の陣頭に動員されており、その犠牲も大きかった。[[徳川家康|松平元康]](1563年家康に改名)は桶狭間の合戦後に旧領[[岡崎城]]に入り、[[西三河]]地域は元康の勢力下に入った。[[東三河]]でも、国人領主たちは今川氏真が新たな人質を要求したことにより不満を強め、離反して松平方につく国人と今川方に残る国人との間での抗争が広がる(三州錯乱)。永禄4年([[1561年]])、今川家から離反した[[菅沼定盈]]の[[野田城 (三河国)|野田城]]攻めに先立って、[[小原鎮実]]は人質十数名を[[龍拈寺]]で処刑するが、この措置は多くの東三河勢の離反を決定的なものにした。松平元康は永禄5年([[1562年]])正月には織田信長と[[清洲同盟]]を結び、今川氏の傘下から独立する姿勢を明らかにする。永禄5年(1562年)6月、氏真は自ら兵を率いて[[牛久保城|牛久保]]に出兵し一宮砦を攻撃したが、「一宮の後詰」と呼ばれる元康の奮戦で撃退されている。このとき、駿府に滞在していた外祖父[[武田信虎]]の動きが不穏であり、氏真は途中で軍を返したともという<ref>『校訂松平記』。この合戦については永禄7年(1564年)に起こったものとするもの(『三河物語』など)もあり、細部も異なる話も伝えられている。</ref>。<br />
永禄7年([[1564年]])6月には[[東三河]]の拠点である[[吉田城_(三河国)|吉田城]]が開城し、今川氏の勢力は三河から駆逐される。<br />
<br />
遠江においても家臣団・国人の混乱と離反が広がった(遠州忩劇、遠州錯乱)。永禄5年(1562年)には謀反が疑われた[[井伊直親]]を重臣の[[朝比奈泰朝]]に誅殺させている。ついで永禄7年(1564年)には[[浜松城|曳馬城]]主・[[飯尾連竜]]が家康と内通して反旗を翻した。氏真は、重臣[[三浦正俊]]らに命じて曳馬城を攻撃させるが陥落させることができず、逆に正俊が戦死してしまう。その後、和議に応じて降った飯尾連竜を永禄8年([[1565年]])12月に謀殺した。飯尾氏家臣たちが籠城する曳馬城には再び攻撃がかけられ、翌9年(1566年)4月に開城する。しかしこれらの措置も事態を収拾することはできず、国人たちを徳川方に走らせることになった。<br />
<br />
氏真は祖母[[寿桂尼]]の後見を受けて政治を行っていたと見られる。永禄3年後半から5年にかけて氏真は活発な文書発給を行い、寺社・被官・国人のつなぎ止めを図っている。外交面では北条氏との連携を維持し、[[上杉謙信|長尾景虎]](後の上杉謙信)の関東侵攻に対して援兵を送っている。また、永禄4年(1561年)以前と推定される時期に[[室町幕府]]の[[相伴衆|御相伴衆]]の格式に列しており、幕府の権威によって領国の混乱に対処しようとしたと考えられる<ref>[[平野明夫]]「今川氏真と室町将軍」『戦国史研究』40(2000年8月)</ref>。内政面では、永禄9年([[1566年]])4月に[[富士宮市|富士大宮]]の[[六斎市]]を[[楽市・楽座|楽市]]とし<ref>大宮司富士家文書</ref>、[[徳政令|徳政]]の実施を命じたり、役の免除などを行ったりした<ref>[[若林淳之]]「今川氏真の苦悶―今川政権の終焉―」『静岡大学教育学部研究報告』6(1955年)。若林は、国人的土豪層を基盤とする従来の[[守護大名]]的秩序の行き詰まりを受け、直接年貢負担者([[本百姓]])を基盤とする[[戦国大名]]的秩序への脱皮を図ったが、再編の混乱の中で侵攻を受け成果を見なかったと評価している。</ref>。<br />
しかし、これらの政策も、衰退をとどめることはできなかった。<br />
<br />
後世記された諸書<ref>『甲陽軍鑑』など</ref>には、氏真が遊興に耽るようになり、家臣の[[三浦義鎮]](右衛門佐、[[小原鎮実]]の子)を寵愛して政務を任せっきりにしたと記されている。また、政権末期にはこうした特定家臣の寵用や重臣の腐敗などの問題が表面化しつつあったと指摘されている<ref>若林淳之「今川氏真の苦悶」</ref>。<br />
<br />
[[里村紹巴]]が永禄10年([[1567年]])5月に駿河を訪問した際に記した『富士見道記』では、氏真をはじめ領内の寺社や公家宅で盛んに連歌の会や茶会を興行していることが記録されている。この時期も[[三条西実澄]]や[[冷泉為益]]が駿府に滞在しており、氏真政権末期にも歌壇は盛んであった。『校訂松平記』によると、永禄10年7月には駿河に[[風流踊]]が流行し、翌年の夏にも再発した。この際、氏真はみずから太鼓をたたいて興じたという。同書は、三浦右衛門佐が氏真に勧めて流行させたといい、風流踊りの流行を亡国の兆しとして描いている。<br />
<br />
=== 戦国大名今川氏の滅亡 ===<br />
{{main|駿河侵攻}}<br />
今川氏の衰退を見た[[甲斐国|甲斐]]の[[武田信玄]]は[[駿河国|駿河]]への南進を画策する。信玄の嫡男で氏真の妹・[[嶺松院]]の夫である[[武田義信]]はこれに反対したが、信玄は永禄8年([[1565年]])に義信を反逆の罪で幽閉して廃嫡。永禄10年([[1567年]])には義信を自害させ、嶺松院を今川家に送り返して婚姻同盟を破棄した。これにより今川氏は外交的にも不利な立場に陥った。氏真は[[越後国|越後]]の[[上杉謙信]]と盟約を交わして対抗し、[[相模国|相模]]の[[北条氏康]]とともに[[甲斐国|甲斐]]への[[荷留|塩留]]を行った<ref name="souran">『史料綜覧』。</ref>が、信玄は徳川家康や織田信長と同盟を結んで対抗したため、これは決定的なものにはならなかった。<br />
<br />
永禄11年([[1568年]])12月6日、信玄は甲府を発して駿河への侵攻を開始した。12月12日、[[薩た峠|薩{{lang|zh|埵}}峠]]で武田軍を迎撃するため氏真も[[興津]]の[[清見寺]]に出陣したが、[[瀬名信輝]]や[[葛山氏元]]、[[朝比奈政貞]]、[[三浦義鏡]]など駿河の有力国人21人が信玄に通じたため、12月13日に今川軍は潰走し、[[駿府]]もたちまち占領された。氏真は朝比奈泰朝の居城[[遠江国|遠江]][[掛川城]]へ逃れた。しかし、遠江にも今川領分割を信玄と約していた徳川家康が侵攻し、その大半が制圧される。12月27日には徳川軍によって掛川城が包囲されたが、泰朝をはじめとした家臣たちの奮闘で半年近くの籠城戦となった。<br />
<br />
早川殿の父・[[北条氏康]]は救援軍を差し向け、薩{{lang|zh|埵}}峠に布陣。戦力で勝る北条軍が優勢に展開するものの、武田軍の撃破には至らず戦況は膠着した。徳川軍による掛川包囲戦が長期化する中で、信玄は約定を破って遠江への圧迫を強め、家康は氏真との和睦を模索する。永禄12年([[1569年]])5月17日、氏真は家臣たちの助命と引き換えに掛川城を開城した。この時に今川氏真・徳川家康・北条氏康の間で、武田信玄の勢力を駿河から追い払った後は、氏真を再び駿河の国主とするという盟約が成立する。<br />
<br />
しかし、この盟約は結果的に履行されることはなく、氏真およびその子孫が領主の座に戻らなかったことから、一般的には、この掛川城の開城をもって戦国大名としての今川氏の滅亡(統治権の喪失)と解釈されている。<br />
<br />
=== 駿河旧国主の流転 ===<br />
[[掛川城]]の開城後、氏真は妻の実家である[[後北条氏|北条氏]]を頼り、蒲原を経て[[伊豆国|伊豆]][[戸倉城_(伊豆国)|戸倉城]]に入った(のち[[小田原]]に移り、早川に屋敷を与えられる<ref>『校訂松平記』</ref>)。永禄12年([[1569年]])5月23日、氏真は[[北条氏政]]の嫡男・国王丸(後の[[北条氏直|氏直]])を猶子とし、国王丸の成長後に駿河を譲ることを約した(この時点で氏真の嫡男・[[今川範以|範以]]はまだ生まれていない)。また、[[武田氏]]への共闘を目的に[[上杉謙信]]のもとに使者を送り、今川・北条・上杉三国同盟を結ぶ(実態は[[越相同盟]])。駿河では、[[岡部正綱]]が一時駿府を奪回し、花沢城の[[小原鎮実]]が武田氏への抗戦を継続するなど、今川勢力の活動はなお残っており、今川家支援を掲げた北条氏による出兵も行われた。氏真も、抗争中の駿河に対して多くの安堵状や感状を発給している<ref>実効性を疑問視する見解もあるが、氏真が駿河に若干の直轄領を持ち、北条国王丸の代行者・補佐役として北条氏の駿河統治の一翼を担ったとの見方もある。[[久保田昌希]]「懸川開城後の今川氏真と後北条氏」『駒沢史学』39・40合併号(1988年9月)、[[酒入陽子]]「懸川開城後の今川氏真について」『戦国史研究』39(2000年2月)。</ref>。しかし、蒲原城の戦いなどで北条軍は敗れ、今川家臣も調略により順次武田氏の軍門に降るなどしたため、[[元亀]]2年([[1571年]])頃には大勢が決し、氏真は駿河の支配を回復することはできなかった。<br />
<br />
[[元亀]]2年([[1571年]])10月に北条氏康が死ぬと、その後を継いだ[[北条氏政|氏政]]は外交方針を転換し[[武田氏]]と和睦した(甲相一和)。12月に氏真は[[相模国|相模]]を離れ、徳川家康の庇護下に入った<ref>『校訂松平記』によると、信玄が氏真の殺害を図って小田原に人を送ったためという。『北条五代記』にも同様の記事があり、氏真が「中々に世をも人をも恨むまじ 時にあはぬを身の科にして」という一首を詠んだと記されている。</ref>。<br />
掛川城開城の際の講和条件を頼りにしたと見られるが、家康にとっても旧国主の保護は駿河侵攻の大義名分を得るものであった。元亀3年([[1572年]])に入ると、氏真は興津清見寺に文書を下すなど、若干の動きを見せている。天正元年(1573年)には伊勢[[大湊 (伊勢市)|大湊]]の商人に預けていた氏真の茶道具を信長が買い上げようとしたことがあり、その際に信長家臣と大湊商人の間で交わされた文書から、氏真が浜松に滞在していたことがわかる。<br />
<br />
天正3年([[1575年]])の行動は、この年1月から9月頃までに詠んだ歌428首を収めた私歌集『今川氏真詠草』([[内閣文庫]]蔵)に書き残されている。氏真は1月に(おそらく浜松から)吉田・岡崎などを経て上洛の旅に出、京都到着後は社寺を参詣したり[[三条西実澄]]ら旧知の公家を訪問したりしている<ref name="eisou">『今川氏真詠草』</ref>。<br />
3月16日には徳川家康の同盟者にして「父の仇」でもある織田信長と[[京都]]の[[相国寺]]で会見、信長は氏真に蹴鞠を所望し、同20日に相国寺において公家たちとともに信長に蹴鞠を披露している<ref>『[[信長公記]]』。氏真は16日の会見以前に「千鳥の香炉」「宗祇香炉」を献上しており、この日の会見で、信長は宗祇香炉のみを氏真に返却している。『今川氏真詠草』にはこの会見に関する感慨は記されていない。</ref>。<br />
4月、[[武田勝頼]]が三河長篠に侵入したことを聞くと([[長篠の戦い]])京を出立して三河に戻り、5月15日から牛久保で後詰を務めている<ref>『今川氏真詠草』。おそらく家康に従ったものと思われる。『続武家閑談』『紀伊国物語』にも氏真が家康に同道していたことが記されている。</ref>。<br />
氏真に仕えていた[[朝比奈泰勝]]は、家康の許に使者に訪れた際に設楽原での戦闘に参加し、[[内藤昌豊]]を討ち取り、家康の直臣になったという<ref>『校訂松平記』</ref>。<br />
<br />
長篠の合戦後、氏真も残敵掃討に従事したのち、5月末からは数日間旧領駿河にも進入し、各地に放火している<ref name="eisou"/>。<br />
7月中旬には[[遠江国|遠江]][[諏訪原城]](現:[[静岡県]][[島田市]])攻撃に従った。諏訪原城は8月に落城して牧野城と改名する。天正4年(1576年)3月17日、家康は牧野城主に氏真を置き、[[松平家忠]]・[[松平康親]]に補佐させた<ref name="souran"/>。しかし、天正5年(1577年)3月1日に氏真は浜松に召還されている。1年足らずでの城主解任であった。また、城主時代に剃髪したらしく、牧野城主解任時に家臣・海老江弥三郎に暇を与えた文書では'''宗誾'''(そうぎん)と号している<ref name="souran"/>。<br />
この文書が、今川家当主として氏真が発給した最後の文書となる。<br />
<br />
=== 後半生 ===<br />
牧野城主解任後の動向は不明であるが、氏真は浜松周辺にいたのではないかと推測され、[[松平家忠]]の『家忠日記』に断続的に登場している。天正7年(1579年)10月には浜松城の家忠の詰所を氏真が訪問しており、その後家康の饗応も受けている。また「氏真衆」と呼ばれる家臣がおり、『家忠日記』には彼らとの交際も記されている。天正11年([[1583年]])7月、[[近衛前久]]が浜松を訪れ、家康が饗応した際には、氏真も陪席している<ref>『景憲家伝』、『明良洪範』</ref>。<br />
この後しばらくの消息は再びわからなくなる。<br />
<br />
[[天正]]19年([[1591年]])9月、[[山科言経]]の日記『言経卿記』に氏真は姿を現す。この頃までには、氏真は京都に移り住んでいたと推測される。仙巌斎(仙岩斎)という斎号を持つようになった氏真は、言経はじめ[[冷泉為満]]・[[冷泉為将]]ら旧知・姻戚の[[公家]]などの文化人と往来し、冷泉家の月例和歌会や[[連歌]]の会などにしきりに参加したり、古典の借覧・書写などを行っていたことが記されている。[[文禄]]4年([[1595年]])の『言経卿記』には言経が氏真と共に[[石川家成]]を訪問するなど、この時期にも徳川家と何らかのつながりがあることが推測される<ref>井上宗雄「今川氏とその学芸」、『今川氏と観泉寺』p.671</ref>。<br />
<br />
京都在住時代の氏真は、豊臣秀吉あるいは徳川家康から与えられた所領からの収入によって生活をしていたとも推測される<ref>『[[志士清談]]』によると、氏真は秀吉の頃に400石の捨扶持を与えられ、京都四条で世捨て人のような暮らしをしていたという。</ref>。のちの慶長17年([[1612年]])に、徳川家康から近江国野洲郡長島村(現:[[滋賀県]][[野洲市]]長島)の「旧地」500石を安堵されているが<ref>『寛政重修諸家譜』、『略譜』(大日本史料所収)</ref>、この「旧地」の由来や性格ははっきりしていない<ref>今川家の衰微を見かねた若王子が分けたもの(『甲子夜話続編』)、建武年間に[[今川範国]]が領主だった由来のもの(『観泉寺と今川氏』p.125が引く『神社明細帳』所収の長島神社由緒)、室町時代に今川家が在京費用のために領有していたもの(『観泉寺と今川氏』p.11が引く野洲郡西運寺所蔵「御位牌之縁起」)など諸説ある。</ref>。<br />
<br />
[[慶長]]3年([[1598年]])、氏真は次男[[品川高久|高久]]を徳川秀忠に出仕させる。慶長12年([[1607年]])には長男・[[今川範以|範以]]が京都で没する。慶長16年([[1611年]])には、範以の遺児・[[今川直房|範英]]が徳川秀忠に出仕した。<br />
<br />
『言経卿記』の氏真記事は、慶長17年([[1612年]])正月、冷泉為満邸で行われた連歌会に出席した記事が最後となる。氏真は住み慣れた京都を去り、4月に郷里駿府で大御所徳川家康と面会している<ref>『[[駿府記]]』慶長17年4月14日条</ref>。氏真の「旧地」が安堵されたのはこの時で、また家康は氏真に対して品川に屋敷を与えたという。そのまま子や孫のいる[[江戸]]に移住したものと思われ、慶長18年([[1613年]])に長年連れ添った[[早川殿]]と死別した。<br />
<br />
[[慶長]]19年([[1614年]])[[12月28日 (旧暦)|12月28日]]、江戸で死去。享年77。<br />
<br />
葬儀は氏真の弟の[[一月長得]]が江戸[[市谷]]の[[萬昌院]]で行い、同寺に葬られた。[[寛文]]2年([[1662年]])に萬昌院が牛込に移転するのに際して、井草の宝珠山[[観泉寺]](現・[[東京都]][[杉並区]][[今川 (杉並区)|今川]]二丁目)に妻・蔵春院早河殿の墓とともに移された。<br />
<br />
== 人物 ==<br />
=== 家族関係 ===<br />
*正室:[[早川殿|蔵春院早川殿]](北条氏康の長女)<br />
:氏真が没落した後も行動をともにし、慶長18年([[1613年]])に没するまで生涯連れ添った。範以・高久・澄存を生んだことは史料上確実であり、長女についても所生と考えられる<ref name="inoue">井上宗雄「今川氏とその学芸」、『今川氏と観泉寺』</ref><br />
*側室:庵原右近太夫忠康の娘。<br />
:有力家臣・[[庵原氏]]出身。<br />
*長女<br />
:[[吉良義定]]室。生年は明らかではないが、子・[[吉良義弥|義弥]](天正14年、1586年)の生年から、駿河時代の子と推測される。氏真が北条氏を頼って逃れた際の文書に「氏真・御二方」を引き取ったという文言があることから、氏真は早川殿とともに娘を伴っていたと考えられることも、推測を補強する<ref>長谷川弘道「今川氏真没落期の家族について」『戦国史研究』27(1994年2月)</ref>。<br />
*嫡男:[[今川範以]]<br />
:[[元亀]]元年([[1570年]])に生まれた。氏真33歳の時の子であり、この時期にはすでに駿河を追われている。父に先立って京都で没した。<br />
*次男:[[品川高久]]<br />
:[[天正]]4年([[1576年]])生まれ。今川の苗字は嫡家のみという由緒を重んじた[[徳川秀忠]]の意向で品川氏を名乗った。<br />
*三男:西尾安信<br />
:伝十郎と称した。生年は不詳。慶長18年([[1613年]])11月3日没。<br />
*四男:澄存<br />
:天正7年([[1579年]])生まれの末子。[[聖護院]]准后道澄の弟子となる。[[熊野若王子神社|若王子]]住職・熊野三山修験道本山奉行となり、[[承応]]元年([[1652年]])に没した。<br />
<br />
=== 交友関係 ===<br />
*[[山科言継]]<br />
:言綱の義母(山科言綱の正室)・黒木の方が[[寿桂尼]]の姉という関係で、黒木の方は妹を頼って駿河に下向していた。弘治2年([[1556年]])から翌年にかけての駿河下向の際の『言継卿記』は、貴重な史料となっている。言継の子・[[山科言経]]との交友も深かった。<br />
*[[里村紹巴]]<br />
:永禄10年(1567年)に駿河を訪問した際の『富士見道記』では、氏真が連歌を興行していることが記録されている。<br />
*[[乗阿|一華堂乗阿]]<br />
:長善寺住持。武田信虎の庶子あるいは猶子とも伝える。<br />
*[[松平家忠]]<br />
:深溝松平氏当主。『家忠日記』には「氏真様」と敬称付きで記されている。<br />
*[[沢庵宗彭]]<br />
:交友があったらしく、『明暗双々記』に氏真の死を悼む詩を残している。<br />
<br />
=== 文化人 ===<br />
和歌・連歌・蹴鞠などの技芸に通じた文化人であったという。<br />
* [[和歌]]<br />
:観泉寺史編纂刊行委員会編『今川氏と観泉寺』には1658首が収録されている。[[後水尾天皇]]選の[[集外三十六歌仙]]にも名を連ねている。<br />
:氏真の少年時の文化的な環境から、駿河に下向していた権大納言[[冷泉為和]]や、詩歌に通じていた[[太原雪斎]]などから指導を受けたとも考えられるが、具体的なことは知られていない<ref name="inoue"/>。成人後、[[冷泉為益]](為和の子)から多く学んだと思われる。<br />
:『今川氏と観泉寺』を編纂した一人であり、中古・中世和歌史の研究者である[[井上宗雄]]は、氏真の作品を優美平明を旨とする中世和歌の伝統的手法に則った作品と評している。「その作品は、すべてが勝れたものでなく、全体的に当時の水準を抜くものではなかったにしろ、時には水準に迫り、また少数ながら新しみのある歌、個性的な歌が存することは注目される。なお多くの平凡な歌が全く無駄だったとは思われない。常に歌に精神の中心を置いていればこそ、緊張感のみなぎった時には、調べの張った、個性的な歌を生んだのである」<ref name="inoue"/><br />
* [[蹴鞠]]<br />
: [[飛鳥井家|飛鳥井流宗家]]の[[飛鳥井雅綱]]より手ほどきを受けたとされる。『[[醒睡笑]]』には賀茂神社神官の[[松下述久]]に師事したことが記されている。<br />
* [[剣術]]<br />
: [[塚原卜伝]]に[[鹿島新当流|新当流]]を学んだ<ref name="bugeiryuuha">綿谷雪・山田忠史編『武芸流派大事典』(新人物往来社、1969年)。なお、江戸時代の剣・居合・棒術の流派に、駿河の'''今川越前守義真'''(義直、吉道とも)を始祖と称する「'''今川流'''」、[[仙台藩]]に伝わる剣・居合の流派に今川越前守重家(吉道とも)を始祖と称する「'''今川兼流'''」がある。『武芸流派大事典』は、義真とは氏真のことと推測しているが、根拠は示されていない。笹間良彦『図説日本武道辞典』(普及版:柏書房、2003年)が引く『[[撃剣叢談]]』は、今川越前守義真を駿河今川氏の庶流とする。</ref>。<br />
<br />
=== 後世の評価・逸話 ===<br />
*江戸時代初期に成立した『[[甲陽軍鑑]]』品第十一では、「鈍過たる大将(馬嫁なる大将)」として氏真が挙げられている。氏真は心は剛毅であり戦闘も下手ではなかったと描かれているが、譜代の賢臣を重んじず、三浦義鎮のような「奸臣」を重用して失政を行ったという点に批判の重点が置かれている。<br />
*[[松平定信]]が随筆『閑なるあまり』に「日本治りたりとても、油断するは[[足利義政|東山義政]]の茶湯、[[大内義隆]]の学問、今川氏真の歌道ぞ」と記しているように、江戸時代中期以降に書かれた文献の中では、[[和歌]]や[[蹴鞠]]といった「文弱」な娯楽に溺れ国を滅ぼした暗君として描かれていることが多く、このイメージは今日の歴史小説や歴史ドラマにおいてしばしば踏襲されている人物像である。<br />
*『[[続武家閑談]]』は以下の逸話を載せる。天正10年(1582年)、武田氏が滅ぼされた際、家康が信長に「駿河を氏真に与えたらどうか」と言ったところ、信長は「役にも立たない氏真に駿河を与えられようか、不要な人を生かすよりは腹を切らせたらいい」と答えた。これを伝え聞いて氏真は驚き、いずれかへ逃げ去っていたが、そのうちに[[本能寺の変]]が発生したという。家康と信長の間のやりとりについて真偽のほどは定かではない。<br />
*『[[及聞秘録]]』には、晩年家康を頼った氏真が江戸城をたびたび訪れて長話をしたために家康が辟易し、江戸城から離れた品川に屋敷を与えたと記されている。家康が氏真を江戸城で引見したかについては疑わしい。<br />
*『[[故老諸談]]』には、氏真と家康が和歌について談じたことが記される。氏真が和歌の道の奥深さや言葉選びの難しさを語るのに対して、家康は技法にこだわるよりも思いのままに詠むのがよいと返している。<br />
<br />
=== その他 ===<br />
*妻の[[早川殿]]と対になった[[肖像画]](遺像)があり、現在米国の個人が所蔵している。元和4年(1618年)2月に著された雲屋祖泰([[妙心寺]]107世)の讃から、没後間もない時期に遺族によって供養・追慕のために描かれたものとみられる<ref>小林明「紙本著色今川氏真・同夫人像について」『静岡県史研究』9(1993年)</ref>。『静岡県史研究』9(1993年)に口絵として掲載されているほか、近年発行された入手しやすい書籍では有光(2008年)が図版として載せている。<br />
<br />
== 今川氏真を題材にした作品 ==<br />
;小説<br />
*天下を汝に―戦国外交の雄・今川氏真([[赤木駿介]]、新潮社)<br />
;氏真が登場するテレビドラマ<br />
* [[太閤記 (NHK大河ドラマ)|太閤記]](昭和40年([[1965年]]) NHK大河ドラマ、演:[[高野恭明]])<br />
* [[天と地と (NHK大河ドラマ)|天と地と]](昭和44年([[1969年]]) NHK大河ドラマ、演:[[阿知波信介]])<br />
* [[徳川家康 (NHK大河ドラマ)|徳川家康]](昭和58年([[1983年]]) NHK大河ドラマ、演:[[林与一]])<br />
* [[武田信玄 (NHK大河ドラマ)|武田信玄]](昭和63年([[1988年]]) NHK大河ドラマ、演:[[神田雄次]])<br />
* [[風林火山 (NHK大河ドラマ)|風林火山]](平成19年([[2007年]]) NHK大河ドラマ、演:[[風間由次郎]])<br />
<br />
== 参考文献 ==<br />
*観泉寺史編纂刊行委員会編『今川氏と観泉寺』(吉川弘文館、1974年)<br />
*有光友學『今川義元』(吉川弘文館、2008年)<br />
<br />
== 脚注 ==<br />
{{reflist|colwidth=30em}}<br />
<br />
<br />
{{先代次代|[[今川氏|駿河今川氏歴代当主]]|第10代:1560年 - 1569年|[[今川義元]]|高家今川家:[[今川直房]]}}<br />
<br />
{{DEFAULTSORT:いまかわ うしさね}}<br />
[[Category:今川氏|うしさね]]<br />
[[Category:戦国武将]]<br />
[[Category:守護大名]]<br />
[[Category:戦国大名]]<br />
[[Category:駿河国の人物]]<br />
[[Category:1538年生]]<br />
[[Category:1615年没]]<br />
<br />
[[en:Imagawa Ujizane]]<br />
[[eo:Imagawa Ujizane]]<br />
[[fr:Ujizane Imagawa]]<br />
[[zh:今川氏真]]</div>
桂鷺淵
https://de.wikipedia.org/w/index.php?title=Imagawa_Ujizane&diff=135799369
Imagawa Ujizane
2009-04-07T09:44:06Z
<p>桂鷺淵: </p>
<hr />
<div>{{武士/開始|今川氏真}}<br />
{{武士/時代|[[戦国時代 (日本)|戦国時代]]から[[江戸時代]]前期}}<br />
{{武士/生誕|[[天文 (元号)|天文]]7年([[1538年]])<ref>没年齢からの逆算</ref>}}<br />
{{武士/死没|[[慶長]]19年[[12月28日 (旧暦)|12月28日]]([[1615年]][[1月27日]])}}<br />
{{武士/改名|龍王丸(幼名)、五郎(仮名)<ref>[[大石泰史]]「今川氏真の幼名と仮名」『戦国史研究』23(1992年2月)</ref>、氏真、宗誾(法名)、仙巖斎(斎号)}}<br />
{{武士/別名|彦五郎(通称)}}<br />
{{武士/戒名|仙岩院殿量山泰栄大居士<ref>「[[萬昌院功運寺|牛込御殿山久宝山万昌院]]鬼簿」(『[[朝野旧聞襃藁]]』七百五十四所載)による。仙岩院殿豊山泰永大居士(「北条氏過去帳」〔『[[大日本史料]]』第十二編之十七所収〕)、仙巌院殿機峯宗俊大居士(『[[今川家略記]]』)とも。</ref>}}<br />
{{武士/墓所|[[萬昌院]]、[[観泉寺]]}}<br />
{{武士/官位|従四位下、[[上総国|上総]]介、刑部大輔<ref>『瑞光院記』によると、永禄3年([[1560年]])5月8日、義元が三河守に遷任された際に氏真は治部大輔に任官されたとあるが、この称を用いた史料はなく疑わしい。『寛政重修諸家譜』には「従四位下刑部大輔」とあるが、これも史料上確認されていない。実際の使用が確認されているのは「上総介」である。</ref>}}<br />
{{武士/幕府|[[室町幕府]][[駿河国|駿河]][[守護]]職・[[遠江国|遠江]]守護職}}<br />
{{武士/主君|[[北条氏康]]→[[北条氏政|氏政]]→[[徳川家康]]}}<br />
{{武士/氏族|[[今川氏]]}}<br />
{{武士/父母|父:[[今川義元]]<br/>母:[[定恵院]]([[武田信虎]]女)}}<br />
{{武士/兄弟|'''氏真'''、[[嶺松院]]([[武田義信]]室)<br>[[隆福院]]、[[一月長得]]}}<br />
{{武士/妻|正室:'''[[早川殿]]'''([[北条氏康]]女)}}<br />
{{武士/子|'''[[今川範以|範以]]'''、[[品川高久]]、娘([[吉良義定]]室)、猶子:''[[北条氏直]]''}}<br />
{{武士/終了}}<br />
<br />
'''今川 氏真'''(いまがわ うじざね)は、[[駿河国|駿河]]の[[守護大名]]・[[戦国大名]]。駿河[[今川氏]]10代当主で、大名としての今川家の最後の当主である。<br />
<br />
父・義元が[[桶狭間の戦い]]で[[織田信長]]によって討たれたためその領国を受け継いだが、[[武田信玄]]と[[徳川家康]]の侵攻を受けて敗れ、戦国大名としての今川家は滅亡した。その後は北条氏を頼り、最終的には徳川家康の庇護を受けた。今川家は[[江戸幕府]]のもとで[[高家]]として生き延びた。<br />
<br />
== 生涯 ==<br />
=== 家督相続 ===<br />
[[天文 (元号)|天文]]7年([[1538年]])、[[今川義元]]と[[定恵院]]([[武田信虎]]の娘)との間に嫡子として生まれる。天文23年([[1554年]])、17歳の折に[[北条氏康]]の長女・[[早川殿|蔵春院早川殿]]と結婚し、[[甲相駿三国同盟]]の成立に寄与した。<br />
<br />
[[弘治 (日本)|弘治]]2年([[1556年]])から翌年にかけて駿河を訪問した[[山科言継]]の日記『言継卿記』には、若い日の氏真も登場している。言継は、弘治3年([[1557年]])正月に氏真が自邸で開いた和歌始に出席したり、氏真に書や鞠を送ったりしたことを記録している。<br />
<br />
氏真は[[永禄]]元年([[1558年]])より駿河・遠江に文書を発給しており<ref>初見文書は永禄元年閏6月24日付の遠江国河匂庄老間村の寺庵中宛安堵状。</ref>、この前後に義元から氏真に[[家督]]が譲られたとも考えられている<ref>氏真の家督継承時期は、今川氏研究上の争点のひとつである。[[米原正義]]は、弘治3年(1557年)正月の氏真邸の歌会始を今川家の歌会始とし、義元生前の家督譲渡の可能性をはじめて指摘した(「今川氏の文芸」、同著『戦国武士と文芸の研究』(桜楓社、1976)年所収)。[[有光友學]]は「如律令」朱印の文書発給から永禄2年(1559年)5月段階で家督が継承されていたとする(「今川義元-氏真の代替りについて」『戦国史研究』3(1982年)、「今川義元の生涯」『静岡県史研究』9(1993年))。[[長谷川弘道]]は『言継卿記』弘治3年正月の記載に「屋形五郎殿」とあることから、この時点で家督継承がなされていたとする(「今川氏真の家督継承について」『戦国史研究』23(1992年))。ただし、時期を確定する上ではいずれも決定的とはいえない。</ref>。<br />
ただし、その後も義元が政治・軍事の主導権を掌握しており、家督相続が行われていたとしてどの程度の実質が伴っていたかには見解が分かれている。義元が三河国の掌握と西方への軍事行動に専念するため、氏真に駿河・遠江の経営を委ねたとする見方が提示されている<ref>三河国に対しては氏真は文書の発給を行っていない。有光(2008年)273~275ページ。</ref>。<br />
<br />
永禄3年([[1560年]])5月19日、[[尾張国|尾張]]に侵攻した義元が[[桶狭間の戦い]]で[[織田信長]]に討たれたため、氏真は名実ともに今川家の当主となった。<br />
<br />
=== 相次ぐ離反 ===<br />
[[桶狭間の戦い]]では今川氏の重臣や[[国人]]が多く討死した。[[三河国|三河]]・[[遠江国|遠江]]の国人・家臣たちの中には動揺や不満が広がり、今川氏からの離反の動きが広がった。<br />
<br />
三河の国人は、義元の対織田戦の陣頭に動員されており、その犠牲も大きかった。[[徳川家康|松平元康]](1563年家康に改名)は桶狭間の合戦後に旧領[[岡崎城]]に入り、[[西三河]]地域は元康の勢力下に入った。[[東三河]]でも、国人領主たちは今川氏真が新たな人質を要求したことにより不満を強め、離反して松平方につく国人と今川方に残る国人との間での抗争が広がる(三州錯乱)。永禄4年([[1561年]])、今川家から離反した[[菅沼定盈]]の[[野田城 (三河国)|野田城]]攻めに先立って、[[小原鎮実]]は人質十数名を[[龍拈寺]]で処刑するが、この措置は多くの東三河勢の離反を決定的なものにした。松平元康は永禄5年([[1562年]])正月には織田信長と[[清洲同盟]]を結び、今川氏の傘下から独立する姿勢を明らかにする。永禄5年(1562年)6月、氏真は自ら兵を率いて[[牛久保城|牛久保]]に出兵し一宮砦を攻撃したが、「一宮の後詰」と呼ばれる元康の奮戦で撃退されている。このとき、駿府に滞在していた外祖父[[武田信虎]]の動きが不穏であり、氏真は途中で軍を返したともという<ref>『校訂松平記』。この合戦については永禄7年(1564年)に起こったものとするもの(『三河物語』など)もあり、細部も異なる話も伝えられている。</ref>。<br />
永禄7年([[1564年]])6月には[[東三河]]の拠点である[[吉田城_(三河国)|吉田城]]が開城し、今川氏の勢力は三河から駆逐される。<br />
<br />
遠江においても家臣団・国人の混乱と離反が広がった(遠州錯乱)。永禄5年(1562年)には謀反が疑われた[[井伊直親]]を重臣の[[朝比奈泰朝]]に誅殺させている。ついで永禄7年(1564年)には[[浜松城|曳馬城]]主・[[飯尾連竜]]が家康と内通して反旗を翻した。氏真は、重臣[[三浦正俊]]らに命じて曳馬城を攻撃させるが陥落させることができず、逆に正俊が戦死してしまう。その後、和議に応じて降った飯尾連竜を永禄8年([[1565年]])12月に謀殺した。飯尾氏家臣たちが籠城する曳馬城には再び攻撃がかけられ、翌9年(1566年)4月に開城する。しかしこれらの措置も事態を収拾することはできず、国人たちを徳川方に走らせることになった。<br />
<br />
氏真は祖母[[寿桂尼]]の後見を受けて政治を行っていたと見られる。永禄3年後半から5年にかけて氏真は活発な文書発給を行い、寺社・被官・国人のつなぎ止めを図っている。外交面では北条氏との連携を維持し、[[上杉謙信|長尾景虎]](後の上杉謙信)の関東侵攻に対して援兵を送っている。また、永禄4年(1561年)以前と推定される時期に[[室町幕府]]の[[相伴衆|御相伴衆]]の格式に列しており、幕府の権威によって領国の混乱に対処しようとしたと考えられる<ref>[[平野明夫]]「今川氏真と室町将軍」『戦国史研究』40(2000年8月)</ref>。内政面では、永禄9年([[1566年]])4月に[[富士宮市|富士大宮]]の[[六斎市]]を[[楽市・楽座|楽市]]とし<ref>大宮司富士家文書</ref>、[[徳政令|徳政]]の実施を命じたり、役の免除などを行ったりした<ref>[[若林淳之]]「今川氏真の苦悶―今川政権の終焉―」『静岡大学教育学部研究報告』6(1955年)。若林は、国人的土豪層を基盤とする従来の[[守護大名]]的秩序の行き詰まりを受け、直接年貢負担者([[本百姓]])を基盤とする[[戦国大名]]的秩序への脱皮を図ったが、再編の混乱の中で侵攻を受け成果を見なかったと評価している。</ref>。<br />
しかし、これらの政策も、衰退をとどめることはできなかった。<br />
<br />
後世記された諸書<ref>『甲陽軍鑑』など</ref>には、氏真が遊興に耽るようになり、家臣の[[三浦義鎮]](右衛門佐、[[小原鎮実]]の子)を寵愛して政務を任せっきりにしたと記されている。また、政権末期にはこうした特定家臣の寵用や重臣の腐敗などの問題が表面化しつつあったと指摘されている<ref>若林淳之「今川氏真の苦悶」</ref>。<br />
<br />
[[里村紹巴]]が永禄10年([[1567年]])5月に駿河を訪問した際に記した『富士見道記』では、氏真をはじめ領内の寺社や公家宅で盛んに連歌の会や茶会を興行していることが記録されている。この時期も[[三条西実澄]]や[[冷泉為益]]が駿府に滞在しており、氏真政権末期にも歌壇は盛んであった。『校訂松平記』によると、永禄10年7月には駿河に[[風流踊]]が流行し、翌年の夏にも再発した。この際、氏真はみずから太鼓をたたいて興じたという。同書は、三浦右衛門佐が氏真に勧めて流行させたといい、風流踊りの流行を亡国の兆しとして描いている。<br />
<br />
=== 戦国大名今川氏の滅亡 ===<br />
{{main|駿河侵攻}}<br />
今川氏の衰退を見た[[甲斐国|甲斐]]の[[武田信玄]]は[[駿河国|駿河]]への南進を画策する。信玄の嫡男で氏真の妹・[[嶺松院]]の夫である[[武田義信]]はこれに反対したが、信玄は永禄8年([[1565年]])に義信を反逆の罪で幽閉して廃嫡。永禄10年([[1567年]])には義信を自害させ、嶺松院を今川家に送り返して婚姻同盟を破棄した。これにより今川氏は外交的にも不利な立場に陥った。氏真は[[越後国|越後]]の[[上杉謙信]]と盟約を交わして対抗し、[[相模国|相模]]の[[北条氏康]]とともに[[甲斐国|甲斐]]への[[荷留|塩留]]を行った<ref name="souran">『史料綜覧』。</ref>が、信玄は徳川家康や織田信長と同盟を結んで対抗したため、これは決定的なものにはならなかった。<br />
<br />
永禄11年([[1568年]])12月6日、信玄は甲府を発して駿河への侵攻を開始した。12月12日、[[薩た峠|薩{{lang|zh|埵}}峠]]で武田軍を迎撃するため氏真も[[興津]]の[[清見寺]]に出陣したが、[[瀬名信輝]]や[[葛山氏元]]、[[朝比奈政貞]]、[[三浦義鏡]]など駿河の有力国人21人が信玄に通じたため、12月13日に今川軍は潰走し、[[駿府]]もたちまち占領された。氏真は朝比奈泰朝の居城[[遠江国|遠江]][[掛川城]]へ逃れた。しかし、遠江にも今川領分割を信玄と約していた徳川家康が侵攻し、その大半が制圧される。12月27日には徳川軍によって掛川城が包囲されたが、泰朝をはじめとした家臣たちの奮闘で半年近くの籠城戦となった。<br />
<br />
早川殿の父・[[北条氏康]]は救援軍を差し向け、薩{{lang|zh|埵}}峠に布陣。戦力で勝る北条軍が優勢に展開するものの、武田軍の撃破には至らず戦況は膠着した。徳川軍による掛川包囲戦が長期化する中で、信玄は約定を破って遠江への圧迫を強め、家康は氏真との和睦を模索する。永禄12年([[1569年]])5月17日、氏真は家臣たちの助命と引き換えに掛川城を開城した。この時に今川氏真・徳川家康・北条氏康の間で、武田信玄の勢力を駿河から追い払った後は、氏真を再び駿河の国主とするという盟約が成立する。<br />
<br />
しかし、この盟約は結果的に履行されることはなく、氏真およびその子孫が領主の座に戻らなかったことから、一般的には、この掛川城の開城をもって戦国大名としての今川氏の滅亡(統治権の喪失)と解釈されている。<br />
<br />
=== 駿河旧国主の流転 ===<br />
[[掛川城]]の開城後、氏真は妻の実家である[[後北条氏|北条氏]]を頼り、蒲原を経て[[伊豆国|伊豆]][[戸倉城_(伊豆国)|戸倉城]]に入った(のち[[小田原]]に移り、早川に屋敷を与えられる<ref>『校訂松平記』</ref>)。永禄12年([[1569年]])5月23日、氏真は[[北条氏政]]の嫡男・国王丸(後の[[北条氏直|氏直]])を猶子とし、国王丸の成長後に駿河を譲ることを約した(この時点で氏真の嫡男・[[今川範以|範以]]はまだ生まれていない)。また、[[武田氏]]への共闘を目的に[[上杉謙信]]のもとに使者を送り、今川・北条・上杉三国同盟を結ぶ(実態は[[越相同盟]])。駿河では、[[岡部正綱]]が一時駿府を奪回し、花沢城の[[小原鎮実]]が武田氏への抗戦を継続するなど、今川勢力の活動はなお残っており、今川家支援を掲げた北条氏による出兵も行われた。氏真も、抗争中の駿河に対して多くの安堵状や感状を発給している<ref>実効性を疑問視する見解もあるが、氏真が駿河に若干の直轄領を持ち、北条国王丸の代行者・補佐役として北条氏の駿河統治の一翼を担ったとの見方もある。[[久保田昌希]]「懸川開城後の今川氏真と後北条氏」『駒沢史学』39・40合併号(1988年9月)、[[酒入陽子]]「懸川開城後の今川氏真について」『戦国史研究』39(2000年2月)。</ref>。しかし、蒲原城の戦いなどで北条軍は敗れ、今川家臣も調略により順次武田氏の軍門に降るなどしたため、[[元亀]]2年([[1571年]])頃には大勢が決し、氏真は駿河の支配を回復することはできなかった。<br />
<br />
[[元亀]]2年([[1571年]])10月に北条氏康が死ぬと、その後を継いだ[[北条氏政|氏政]]は外交方針を転換し[[武田氏]]と和睦した(甲相一和)。12月に氏真は[[相模国|相模]]を離れ、徳川家康の庇護下に入った<ref>『校訂松平記』によると、信玄が氏真の殺害を図って小田原に人を送ったためという。『北条五代記』にも同様の記事があり、氏真が「中々に世をも人をも恨むまじ 時にあはぬを身の科にして」という一首を詠んだと記されている。</ref>。<br />
掛川城開城の際の講和条件を頼りにしたと見られるが、家康にとっても旧国主の保護は駿河侵攻の大義名分を得るものであった。元亀3年([[1572年]])に入ると、氏真は興津清見寺に文書を下すなど、若干の動きを見せている。天正元年(1573年)には伊勢[[大湊 (伊勢市)|大湊]]の商人に預けていた氏真の茶道具を信長が買い上げようとしたことがあり、その際に信長家臣と大湊商人の間で交わされた文書から、氏真が浜松に滞在していたことがわかる。<br />
<br />
天正3年([[1575年]])の行動は、この年1月から9月頃までに詠んだ歌428首を収めた私歌集『今川氏真詠草』([[内閣文庫]]蔵)に書き残されている。氏真は1月に(おそらく浜松から)吉田・岡崎などを経て上洛の旅に出、京都到着後は社寺を参詣したり[[三条西実澄]]ら旧知の公家を訪問したりしている<ref name="eisou">『今川氏真詠草』</ref>。<br />
3月16日には徳川家康の同盟者にして「父の仇」でもある織田信長と[[京都]]の[[相国寺]]で会見、信長は氏真に蹴鞠を所望し、同20日に相国寺において公家たちとともに信長に蹴鞠を披露している<ref>『[[信長公記]]』。氏真は16日の会見以前に「千鳥の香炉」「宗祇香炉」を献上しており、この日の会見で、信長は宗祇香炉のみを氏真に返却している。『今川氏真詠草』にはこの会見に関する感慨は記されていない。</ref>。<br />
4月、[[武田勝頼]]が三河長篠に侵入したことを聞くと([[長篠の戦い]])京を出立して三河に戻り、5月15日から牛久保で後詰を務めている<ref>『今川氏真詠草』。おそらく家康に従ったものと思われる。『続武家閑談』『紀伊国物語』にも氏真が家康に同道していたことが記されている。</ref>。<br />
氏真に仕えていた[[朝比奈泰勝]]は、家康の許に使者に訪れた際に設楽原での戦闘に参加し、[[内藤昌豊]]を討ち取り、家康の直臣になったという<ref>『校訂松平記』</ref>。<br />
<br />
長篠の合戦後、氏真も残敵掃討に従事したのち、5月末からは数日間旧領駿河にも進入し、各地に放火している<ref name="eisou"/>。<br />
7月中旬には[[遠江国|遠江]][[諏訪原城]](現:[[静岡県]][[島田市]])攻撃に従った。諏訪原城は8月に落城して牧野城と改名する。天正4年(1576年)3月17日、家康は牧野城主に氏真を置き、[[松平家忠]]・[[松平康親]]に補佐させた<ref name="souran"/>。しかし、天正5年(1577年)3月1日に氏真は浜松に召還されている。1年足らずでの城主解任であった。また、城主時代に剃髪したらしく、牧野城主解任時に家臣・海老江弥三郎に暇を与えた文書では'''宗誾'''(そうぎん)と号している<ref name="souran"/>。<br />
この文書が、今川家当主として氏真が発給した最後の文書となる。<br />
<br />
=== 後半生 ===<br />
牧野城主解任後の動向は不明であるが、氏真は浜松周辺にいたのではないかと推測され、[[松平家忠]]の『家忠日記』に断続的に登場している。天正7年(1579年)10月には浜松城の家忠の詰所を氏真が訪問しており、その後家康の饗応も受けている。また「氏真衆」と呼ばれる家臣がおり、『家忠日記』には彼らとの交際も記されている。天正11年([[1583年]])7月、[[近衛前久]]が浜松を訪れ、家康が饗応した際には、氏真も陪席している<ref>『景憲家伝』、『明良洪範』</ref>。<br />
この後しばらくの消息は再びわからなくなる。<br />
<br />
[[天正]]19年([[1591年]])9月、[[山科言経]]の日記『言経卿記』に氏真は姿を現す。この頃までには、氏真は京都に移り住んでいたと推測される。仙巌斎(仙岩斎)という斎号を持つようになった氏真は、言経はじめ[[冷泉為満]]・[[冷泉為将]]ら旧知・姻戚の[[公家]]などの文化人と往来し、冷泉家の月例和歌会や[[連歌]]の会などにしきりに参加したり、古典の借覧・書写などを行っていたことが記されている。[[文禄]]4年([[1595年]])の『言経卿記』には言経が氏真と共に[[石川家成]]を訪問するなど、この時期にも徳川家と何らかのつながりがあることが推測される<ref>井上宗雄「今川氏とその学芸」、『今川氏と観泉寺』p.671</ref>。<br />
<br />
京都在住時代の氏真は、豊臣秀吉あるいは徳川家康から与えられた所領からの収入によって生活をしていたとも推測される<ref>『[[志士清談]]』によると、氏真は秀吉の頃に400石の捨扶持を与えられ、京都四条で世捨て人のような暮らしをしていたという。</ref>。のちの慶長17年([[1612年]])に、徳川家康から近江国野洲郡長島村(現:[[滋賀県]][[野洲市]]長島)の「旧地」500石を安堵されているが<ref>『寛政重修諸家譜』、『略譜』(大日本史料所収)</ref>、この「旧地」の由来や性格ははっきりしていない<ref>今川家の衰微を見かねた若王子が分けたもの(『甲子夜話続編』)、建武年間に[[今川範国]]が領主だった由来のもの(『観泉寺と今川氏』p.125が引く『神社明細帳』所収の長島神社由緒)、室町時代に今川家が在京費用のために領有していたもの(『観泉寺と今川氏』p.11が引く野洲郡西運寺所蔵「御位牌之縁起」)など諸説ある。</ref>。<br />
<br />
[[慶長]]3年([[1598年]])、氏真は次男[[品川高久|高久]]を徳川秀忠に出仕させる。慶長12年([[1607年]])には長男・[[今川範以|範以]]が京都で没する。慶長16年([[1611年]])には、範以の遺児・[[今川直房|範英]]が徳川秀忠に出仕した。<br />
<br />
『言経卿記』の氏真記事は、慶長17年([[1612年]])正月、冷泉為満邸で行われた連歌会に出席した記事が最後となる。氏真は住み慣れた京都を去り、4月に郷里駿府で大御所徳川家康と面会している<ref>『[[駿府記]]』慶長17年4月14日条</ref>。氏真の「旧地」が安堵されたのはこの時で、また家康は氏真に対して品川に屋敷を与えたという。そのまま子や孫のいる[[江戸]]に移住したものと思われ、慶長18年([[1613年]])に長年連れ添った[[早川殿]]と死別した。<br />
<br />
[[慶長]]19年([[1614年]])[[12月28日 (旧暦)|12月28日]]、江戸で死去。享年77。<br />
<br />
葬儀は氏真の弟の[[一月長得]]が江戸[[市谷]]の[[萬昌院]]で行い、同寺に葬られた。[[寛文]]2年([[1662年]])に萬昌院が牛込に移転するのに際して、井草の宝珠山[[観泉寺]](現・[[東京都]][[杉並区]][[今川 (杉並区)|今川]]二丁目)に妻・蔵春院早河殿の墓とともに移された。<br />
<br />
== 人物 ==<br />
=== 家族関係 ===<br />
*正室:[[早川殿|蔵春院早川殿]](北条氏康の長女)<br />
:氏真が没落した後も行動をともにし、慶長18年([[1613年]])に没するまで生涯連れ添った。範以・高久・澄存を生んだことは史料上確実であり、長女についても所生と考えられる<ref name="inoue">井上宗雄「今川氏とその学芸」、『今川氏と観泉寺』</ref><br />
*側室:庵原右近太夫忠康の娘。<br />
:有力家臣・[[庵原氏]]出身。<br />
*長女<br />
:[[吉良義定]]室。生年は明らかではないが、子・[[吉良義弥|義弥]](天正14年、1586年)の生年から、駿河時代の子と推測される。氏真が北条氏を頼って逃れた際の文書に「氏真・御二方」を引き取ったという文言があることから、氏真は早川殿とともに娘を伴っていたと考えられることも、推測を補強する<ref>長谷川弘道「今川氏真没落期の家族について」『戦国史研究』27(1994年2月)</ref>。<br />
*嫡男:[[今川範以]]<br />
:[[元亀]]元年([[1570年]])に生まれた。氏真33歳の時の子であり、この時期にはすでに駿河を追われている。父に先立って京都で没した。<br />
*次男:[[品川高久]]<br />
:[[天正]]4年([[1576年]])生まれ。今川の苗字は嫡家のみという由緒を重んじた[[徳川秀忠]]の意向で品川氏を名乗った。<br />
*三男:西尾安信<br />
:伝十郎と称した。生年は不詳。慶長18年([[1613年]])11月3日没。<br />
*四男:澄存<br />
:天正7年([[1579年]])生まれの末子。[[聖護院]]准后道澄の弟子となる。[[熊野若王子神社|若王子]]住職・熊野三山修験道本山奉行となり、[[承応]]元年([[1652年]])に没した。<br />
<br />
=== 交友関係 ===<br />
*[[山科言継]]<br />
:言綱の義母(山科言綱の正室)・黒木の方が[[寿桂尼]]の姉という関係で、黒木の方は妹を頼って駿河に下向していた。弘治2年([[1556年]])から翌年にかけての駿河下向の際の『言継卿記』は、貴重な史料となっている。言継の子・[[山科言経]]との交友も深かった。<br />
*[[里村紹巴]]<br />
:永禄10年(1567年)に駿河を訪問した際の『富士見道記』では、氏真が連歌を興行していることが記録されている。<br />
*[[乗阿|一華堂乗阿]]<br />
:長善寺住持。武田信虎の庶子あるいは猶子とも伝える。<br />
*[[松平家忠]]<br />
:深溝松平氏当主。『家忠日記』には「氏真様」と敬称付きで記されている。<br />
*[[沢庵宗彭]]<br />
:交友があったらしく、『明暗双々記』に氏真の死を悼む詩を残している。<br />
<br />
=== 文化人 ===<br />
和歌・連歌・蹴鞠などの技芸に通じた文化人であったという。<br />
* [[和歌]]<br />
:観泉寺史編纂刊行委員会編『今川氏と観泉寺』には1658首が収録されている。[[後水尾天皇]]選の[[集外三十六歌仙]]にも名を連ねている。<br />
:氏真の少年時の文化的な環境から、駿河に下向していた権大納言[[冷泉為和]]や、詩歌に通じていた[[太原雪斎]]などから指導を受けたとも考えられるが、具体的なことは知られていない<ref name="inoue"/>。成人後、[[冷泉為益]](為和の子)から多く学んだと思われる。<br />
:『今川氏と観泉寺』を編纂した一人であり、中古・中世和歌史の研究者である[[井上宗雄]]は、氏真の作品を優美平明を旨とする中世和歌の伝統的手法に則った作品と評している。「その作品は、すべてが勝れたものでなく、全体的に当時の水準を抜くものではなかったにしろ、時には水準に迫り、また少数ながら新しみのある歌、個性的な歌が存することは注目される。なお多くの平凡な歌が全く無駄だったとは思われない。常に歌に精神の中心を置いていればこそ、緊張感のみなぎった時には、調べの張った、個性的な歌を生んだのである」<ref name="inoue"/><br />
* [[蹴鞠]]<br />
: [[飛鳥井家|飛鳥井流宗家]]の[[飛鳥井雅綱]]より手ほどきを受けたとされる。『[[醒睡笑]]』には賀茂神社神官の[[松下述久]]に師事したことが記されている。<br />
* [[剣術]]<br />
: [[塚原卜伝]]に[[鹿島新当流|新当流]]を学んだ<ref name="bugeiryuuha">綿谷雪・山田忠史編『武芸流派大事典』(新人物往来社、1969年)。なお、江戸時代の剣・居合・棒術の流派に、駿河の'''今川越前守義真'''(義直、吉道とも)を始祖と称する「'''今川流'''」、[[仙台藩]]に伝わる剣・居合の流派に今川越前守重家(吉道とも)を始祖と称する「'''今川兼流'''」がある。『武芸流派大事典』は、義真とは氏真のことと推測しているが、根拠は示されていない。笹間良彦『図説日本武道辞典』(普及版:柏書房、2003年)が引く『[[撃剣叢談]]』は、今川越前守義真を駿河今川氏の庶流とする。</ref>。<br />
<br />
=== 後世の評価・逸話 ===<br />
*江戸時代初期に成立した『[[甲陽軍鑑]]』品第十一では、「鈍過たる大将(馬嫁なる大将)」として氏真が挙げられている。氏真は心は剛毅であり戦闘も下手ではなかったと描かれているが、譜代の賢臣を重んじず、三浦義鎮のような「奸臣」を重用して失政を行ったという点に批判の重点が置かれている。<br />
*[[松平定信]]が随筆『閑なるあまり』に「日本治りたりとても、油断するは[[足利義政|東山義政]]の茶湯、[[大内義隆]]の学問、今川氏真の歌道ぞ」と記しているように、江戸時代中期以降に書かれた文献の中では、[[和歌]]や[[蹴鞠]]といった「文弱」な娯楽に溺れ国を滅ぼした暗君として描かれていることが多く、このイメージは今日の歴史小説や歴史ドラマにおいてしばしば踏襲されている人物像である。<br />
*『[[続武家閑談]]』は以下の逸話を載せる。天正10年(1582年)、武田氏が滅ぼされた際、家康が信長に「駿河を氏真に与えたらどうか」と言ったところ、信長は「役にも立たない氏真に駿河を与えられようか、不要な人を生かすよりは腹を切らせたらいい」と答えた。これを伝え聞いて氏真は驚き、いずれかへ逃げ去っていたが、そのうちに[[本能寺の変]]が発生したという。家康と信長の間のやりとりについて真偽のほどは定かではない。<br />
*『[[及聞秘録]]』には、晩年家康を頼った氏真が江戸城をたびたび訪れて長話をしたために家康が辟易し、江戸城から離れた品川に屋敷を与えたと記されている。家康が氏真を江戸城で引見したかについては疑わしい。<br />
*『[[故老諸談]]』には、氏真と家康が和歌について談じたことが記される。氏真が和歌の道の奥深さや言葉選びの難しさを語るのに対して、家康は技法にこだわるよりも思いのままに詠むのがよいと返している。<br />
<br />
=== その他 ===<br />
*妻の[[早川殿]]と対になった[[肖像画]](遺像)があり、現在米国の個人が所蔵している。元和4年(1618年)2月に著された雲屋祖泰([[妙心寺]]107世)の讃から、没後間もない時期に遺族によって供養・追慕のために描かれたものとみられる<ref>小林明「紙本著色今川氏真・同夫人像について」『静岡県史研究』9(1993年)</ref>。『静岡県史研究』9(1993年)に口絵として掲載されているほか、近年発行された入手しやすい書籍では有光(2008年)が図版として載せている。<br />
<br />
== 今川氏真を題材にした作品 ==<br />
;小説<br />
*天下を汝に―戦国外交の雄・今川氏真([[赤木駿介]]、新潮社)<br />
;氏真が登場するテレビドラマ<br />
* [[太閤記 (NHK大河ドラマ)|太閤記]](昭和40年([[1965年]]) NHK大河ドラマ、演:[[高野恭明]])<br />
* [[天と地と (NHK大河ドラマ)|天と地と]](昭和44年([[1969年]]) NHK大河ドラマ、演:[[阿知波信介]])<br />
* [[徳川家康 (NHK大河ドラマ)|徳川家康]](昭和58年([[1983年]]) NHK大河ドラマ、演:[[林与一]])<br />
* [[武田信玄 (NHK大河ドラマ)|武田信玄]](昭和63年([[1988年]]) NHK大河ドラマ、演:[[神田雄次]])<br />
* [[風林火山 (NHK大河ドラマ)|風林火山]](平成19年([[2007年]]) NHK大河ドラマ、演:[[風間由次郎]])<br />
<br />
== 参考文献 ==<br />
*観泉寺史編纂刊行委員会編『今川氏と観泉寺』(吉川弘文館、1974年)<br />
*有光友學『今川義元』(吉川弘文館、2008年)<br />
<br />
== 脚注 ==<br />
{{reflist}}<br />
<br />
<br />
{{先代次代|[[今川氏|駿河今川氏歴代当主]]|第10代:1560年 - 1569年|[[今川義元]]|高家今川家:[[今川直房]]}}<br />
<br />
{{DEFAULTSORT:いまかわ うしさね}}<br />
[[Category:今川氏|うしさね]]<br />
[[Category:戦国武将]]<br />
[[Category:守護大名]]<br />
[[Category:戦国大名]]<br />
[[Category:駿河国の人物]]<br />
[[Category:1538年生]]<br />
[[Category:1615年没]]<br />
<br />
[[en:Imagawa Ujizane]]<br />
[[eo:Imagawa Ujizane]]<br />
[[fr:Ujizane Imagawa]]<br />
[[zh:今川氏真]]</div>
桂鷺淵
https://de.wikipedia.org/w/index.php?title=Imagawa_Ujizane&diff=135799367
Imagawa Ujizane
2009-02-20T13:55:46Z
<p>桂鷺淵: </p>
<hr />
<div>{{武士/開始|今川氏真}}<br />
{{武士/時代|[[戦国時代 (日本)|戦国時代]]から[[江戸時代]]前期}}<br />
{{武士/生誕|[[天文 (元号)|天文]]7年([[1538年]])<ref>没年齢からの逆算</ref>}}<br />
{{武士/死没|[[慶長]]19年[[12月28日 (旧暦)|12月28日]]([[1615年]][[1月27日]])}}<br />
{{武士/改名|五郎(幼名)、氏真、宗誾、<br>仙巖斎(法名)}}<br />
{{武士/別名|彦五郎(通称)}}<br />
{{武士/戒名|傳岩院殿量山泰栄大居士<ref>仙岩院殿豊山泰永大居士(「北条氏過去帳」)、仙厳院殿機峰宗俊大居士とも</ref>}}<br />
{{武士/墓所|[[萬昌院]]、[[観泉寺]]}}<br />
{{武士/官位|従四位下、[[上総国|上総]]介、刑部大輔<ref>『瑞光院記』によると、永禄3年([[1560年]])5月8日、義元が三河守に遷任された際に氏真は治部大輔に任官されたとあるが、この称を用いた史料はなく疑わしい。『寛政重修諸家譜』には「従四位下刑部大輔」とあるが、これも史料上確認されていない。実際の使用が確認されているのは「上総介」である。</ref>}}<br />
{{武士/幕府|[[室町幕府]][[駿河国|駿河]][[守護]]職・[[遠江国|遠江]]守護職}}<br />
{{武士/主君|[[北条氏康]]→[[北条氏政|氏政]]→[[徳川家康]]}}<br />
{{武士/氏族|[[今川氏]]}}<br />
{{武士/父母|父:[[今川義元]]<br/>母:[[定恵院]]([[武田信虎]]女)}}<br />
{{武士/兄弟|'''氏真'''、[[嶺松院]]([[武田義信]]室)<br>[[隆福院]]、[[一月長得]]}}<br />
{{武士/妻|正室:'''[[早川殿]]'''([[北条氏康]]女)}}<br />
{{武士/子|'''[[今川範以|範以]]'''、[[品川高久]]、娘([[吉良義定]]室)、猶子:''[[北条氏直]]''}}<br />
{{武士/終了}}<br />
<br />
'''今川 氏真'''(いまがわ うじざね)は、[[駿河国|駿河]]の[[守護大名]]・[[戦国大名]]。駿河[[今川氏]]10代当主で、大名としての今川家の最後の当主である。<br />
<br />
父・義元が[[桶狭間の戦い]]で[[織田信長]]によって討たれたためその領国を受け継いだが、[[武田信玄]]と[[徳川家康]]の侵攻を受けて敗れ、戦国大名としての今川家は滅亡した。その後は北条氏を頼り、最終的には徳川家康の庇護を受けた。今川家は[[江戸幕府]]のもとで[[高家]]として生き延びた。<br />
<br />
== 生涯 ==<br />
=== 家督相続 ===<br />
[[天文 (元号)|天文]]7年([[1538年]])、[[今川義元]]と[[定恵院]]([[武田信虎]]の娘)との間に嫡子として生まれる。天文23年([[1554年]])、17歳の折に[[北条氏康]]の長女・[[早川殿|蔵春院早川殿]]と結婚し、[[甲相駿三国同盟]]の成立に寄与した。<br />
<br />
[[弘治 (日本)|弘治]]2年([[1556年]])から翌年にかけて駿河を訪問した[[山科言継]]の日記『言継卿記』には、若い日の氏真も登場している。言継は、弘治3年([[1557年]])正月に氏真が自邸で開いた和歌始に出席したり、氏真に書や鞠を送ったりしたことを記録している。<br />
<br />
氏真は[[永禄]]元年([[1558年]])より駿河・遠江に文書を発給しており<ref>初見文書は永禄元年閏6月24日付の遠江国河匂庄老間村の寺庵中宛安堵状。</ref>、この前後に義元から氏真に[[家督]]が譲られたとも考えられている<ref>氏真の家督継承時期は、今川氏研究上の争点のひとつである。[[米原正義]]は、弘治3年(1557年)正月の氏真邸の歌会始を今川家の歌会始とし、義元生前の家督譲渡の可能性をはじめて指摘した(「今川氏の文芸」、同著『戦国武士と文芸の研究』(桜楓社、1976)年所収)。[[有光友學]]は「如律令」朱印の文書発給から永禄2年(1559年)5月段階で家督が継承されていたとする(「今川義元-氏真の代替りについて」『戦国史研究』3(1982年)、「今川義元の生涯」『静岡県史研究』9(1993年))。[[長谷川弘道]]は『言継卿記』弘治3年正月の記載に「屋形五郎殿」とあることから、この時点で家督継承がなされていたとする(「今川氏真の家督継承について」『戦国史研究』23(1992年))。ただし、時期を確定する上ではいずれも決定的とはいえない。</ref>。<br />
ただし、その後も義元が政治・軍事の主導権を掌握しており、家督相続が行われていたとしてどの程度の実質が伴っていたかには見解が分かれている。義元が三河国の掌握と西方への軍事行動に専念するため、氏真に駿河・遠江の経営を委ねたとする見方が提示されている<ref>三河国に対しては氏真は文書の発給を行っていない。有光(2008年)273~275ページ。</ref>。<br />
<br />
永禄3年([[1560年]])5月19日、[[尾張国|尾張]]に侵攻した義元が[[桶狭間の戦い]]で[[織田信長]]に討たれたため、氏真は名実ともに今川家の当主となった。<br />
<br />
=== 相次ぐ離反 ===<br />
[[桶狭間の戦い]]では今川氏の重臣や[[国人]]が多く討死した。[[三河国|三河]]・[[遠江国|遠江]]の国人・家臣たちの中には動揺や不満が広がり、今川氏からの離反の動きが広がった。<br />
<br />
三河の国人は、義元の対織田戦の陣頭に動員されており、その犠牲も大きかった。[[徳川家康|松平元康]](1563年家康に改名)は桶狭間の合戦後に旧領[[岡崎城]]に入り、[[西三河]]地域は元康の勢力下に入った。[[東三河]]でも、国人領主たちは今川氏真が新たな人質を要求したことにより不満を強め、離反して松平方につく国人と今川方に残る国人との間での抗争が広がる。永禄4年([[1561年]])、今川家から離反した[[菅沼定盈]]の[[野田城 (三河国)|野田城]]攻めに先立って、[[小原鎮実]]は人質十数名を[[龍拈寺]]で処刑するが、この措置は多くの東三河勢の離反を決定的なものにした。松平元康は永禄5年([[1562年]])正月には織田信長と[[清洲同盟]]を結び、今川氏の傘下から独立する姿勢を明らかにする。永禄5年(1562年)6月、氏真は自ら兵を率いて[[牛久保城|牛久保]]に出兵し一宮砦を攻撃したが、「一宮の後詰」と呼ばれる元康の奮戦で撃退されている。このとき、駿府に滞在していた外祖父[[武田信虎]]の動きが不穏であり、氏真は途中で軍を返したともという<ref>『校訂松平記』。この合戦については永禄7年(1564年)に起こったものとするもの(『三河物語』など)もあり、細部も異なる話も伝えられている。</ref>。<br />
永禄7年([[1564年]])6月には[[東三河]]の拠点である[[吉田城_(三河国)|吉田城]]が開城し、今川氏の勢力は三河から駆逐される。<br />
<br />
遠江においても家臣団・国人の混乱と離反が広がった(遠州錯乱)。永禄5年(1562年)には謀反が疑われた[[井伊直親]]を重臣の[[朝比奈泰朝]]に誅殺させている。ついで永禄7年(1564年)には[[浜松城|曳馬城]]主・[[飯尾連竜]]が家康と内通して反旗を翻した。氏真は、重臣[[三浦正俊]]らに命じて曳馬城を攻撃させるが陥落させることができず、逆に正俊が戦死してしまう。その後、和議に応じて降った飯尾連竜を永禄8年([[1565年]])12月に謀殺した。飯尾氏家臣たちが籠城する曳馬城には再び攻撃がかけられ、翌9年(1566年)4月に開城する。しかしこれらの措置も事態を収拾することはできず、国人たちを徳川方に走らせることになった。<br />
<br />
氏真は祖母[[寿桂尼]]の後見を受けて政治を行っていたと見られる。永禄3年後半から5年にかけて氏真は活発な文書発給を行い、寺社・被官・国人のつなぎ止めを図っている。外交面では北条氏との連携を維持し、[[上杉謙信|長尾景虎]](後の上杉謙信)の関東侵攻に対して援兵を送っている。また、内政面では、永禄9年([[1566年]])4月に[[富士宮市|富士大宮]]の[[六斎市]]を[[楽市・楽座|楽市]]とし<ref>大宮司富士家文書</ref>、[[徳政令|徳政]]の実施や役の免除などを行った<ref>[[若林淳之]]「今川氏真の苦悶―今川政権の終焉―」『静岡大学教育学部紀要』6(1955年)</ref>。<br />
しかし、これらの政策も、衰退をとどめることはできなかった。<br />
<br />
後世記された諸書<ref>『甲陽軍鑑』など</ref>には、氏真が遊興に耽るようになり、家臣の[[三浦義鎮]](右衛門佐、[[小原鎮実]]の子)を寵愛して政務を任せっきりにしたと記されている。また、政権末期にはこうした特定家臣の寵用や重臣の腐敗などの問題が表面化しつつあったと指摘されている<ref>若林淳之「今川氏真の苦悶」</ref>。<br />
<br />
[[里村紹巴]]が永禄10年([[1567年]])5月に駿河を訪問した際に記した『富士見道記』では、氏真をはじめ領内の寺社や公家宅で盛んに連歌の会や茶会を興行していることが記録されている。この時期も[[三条西実澄]]や[[冷泉為益]]が駿府に滞在しており、氏真政権末期にも歌壇は盛んであった。『校訂松平記』によると、永禄10年7月には駿河に[[風流踊]]が流行し、翌年の夏にも再発した。同書は、三浦右衛門佐が氏真に勧めて流行させたといい、風流踊りの流行を亡国の兆しとして描いている。<br />
<br />
=== 戦国大名今川氏の滅亡 ===<br />
{{main|駿河侵攻}}<br />
今川氏の衰退を見た[[甲斐国|甲斐]]の[[武田信玄]]は[[駿河国|駿河]]への南進を画策する。信玄の嫡男で氏真の妹・[[嶺松院]]の夫である[[武田義信]]はこれに反対したが、信玄は永禄8年([[1565年]])に義信を反逆の罪で幽閉して廃嫡。永禄10年([[1567年]])には義信を自害させ、嶺松院を今川家に送り返して婚姻同盟を破棄した。これにより今川氏は外交的にも不利な立場に陥った。氏真は[[越後国|越後]]の[[上杉謙信]]と盟約を交わして対抗し、[[相模国|相模]]の[[北条氏康]]とともに[[甲斐国|甲斐]]への[[荷留|塩留]]を行った<ref name="souran">『史料綜覧』。</ref>が、信玄は徳川家康や織田信長と同盟を結んで対抗したため、これは決定的なものにはならなかった。<br />
<br />
永禄11年([[1568年]])12月6日、信玄は甲府を発して駿河への侵攻を開始した。12月12日、[[薩た峠|薩{{lang|zh|埵}}峠]]で武田軍を迎撃するため氏真も[[興津]]の[[清見寺]]に出陣したが、[[瀬名信輝]]や[[葛山氏元]]、[[朝比奈政貞]]、[[三浦義鏡]]など駿河の有力国人21人が信玄に通じたため、12月13日に今川軍は潰走し、[[駿府]]もたちまち占領された。氏真は朝比奈泰朝の居城[[遠江国|遠江]][[掛川城]]へ逃れた。しかし、遠江にも今川領分割を信玄と約していた徳川家康が侵攻し、その大半が制圧される。12月27日には徳川軍によって掛川城が包囲されたが、泰朝をはじめとした家臣たちの奮闘で半年近くの籠城戦となった。<br />
<br />
早川殿の父・[[北条氏康]]は救援軍を差し向け、薩{{lang|zh|埵}}峠に布陣。戦力で勝る北条軍が優勢に展開するものの、武田軍の撃破には至らず戦況は膠着した。徳川軍による掛川包囲戦が長期化する中で、信玄は約定を破って遠江への圧迫を強め、家康は氏真との和睦を模索する。永禄12年([[1569年]])5月17日、氏真は家臣たちの助命と引き換えに掛川城を開城した。この時に今川氏真・徳川家康・北条氏康の間で、武田信玄の勢力を駿河から追い払った後は、氏真を再び駿河の国主とするという盟約が成立する。<br />
<br />
しかし、この盟約は結果的に履行されることはなく、氏真およびその子孫が領主の座に戻らなかったことから、一般的には、この掛川城の開城をもって戦国大名としての今川氏の滅亡(統治権の喪失)と解釈されている。<br />
<br />
=== 駿河旧国主の流転 ===<br />
[[掛川城]]の開城後、氏真は妻の実家である[[後北条氏|北条氏]]を頼り、蒲原を経て[[伊豆国|伊豆]][[戸倉城_(伊豆国)|戸倉城]]に入った(のち[[小田原]]に移り、早川に屋敷を与えられる<ref>『校訂松平記』</ref>)。永禄12年([[1569年]])5月23日、氏真は[[北条氏政]]の嫡男・国王丸(後の[[北条氏直|氏直]])を猶子とし、国王丸の成長後に駿河を譲ることを約した(この時点で氏真の嫡男・[[今川範以|範以]]はまだ生まれていない)。また、[[武田氏]]への共闘を目的に[[上杉謙信]]のもとに使者を送り、今川・北条・上杉三国同盟を結ぶ(実態は[[越相同盟]])。駿河では、[[岡部正綱]]が一時駿府を奪回し、花沢城の[[小原鎮実]]が武田氏への抗戦を継続するなど、今川勢力の活動はなお残っており、今川家支援を掲げた北条氏による出兵も行われた。氏真も、抗争中の駿河に対する安堵状や感状を発給している。しかし、蒲原城の戦いなどで北条軍は敗れ、今川家臣も調略により順次武田氏の軍門に降るなどしたため、[[元亀]]2年([[1571年]])頃には大勢が決し、氏真は駿河の支配を回復することはできなかった。<br />
<br />
[[元亀]]2年([[1571年]])10月に北条氏康が死ぬと、その後を継いだ[[北条氏政|氏政]]は外交方針を転換し[[武田氏]]と和睦した。12月に氏真は[[相模国|相模]]を離れ、徳川家康の庇護下に入った<ref>『校訂松平記』によると、信玄が氏真の殺害を図って小田原に人を送ったためという。『北条五代記』にも同様の記事があり、氏真が「中々に世をも人をも恨むまじ 時にあはぬを身の科にして」という一首を詠んだと記されている。</ref>。<br />
掛川城開城の際の講和条件を頼りにしたと見られるが、家康にとっても旧国主の保護は駿河侵攻の大義名分を得るものであった。元亀3年([[1572年]])に入ると、氏真は興津清見寺に文書を下すなど、若干の動きを見せている。<br />
<br />
天正3年([[1575年]])の行動は、この年1月から9月頃までに詠んだ歌428首を収めた私歌集『今川氏真詠草』([[内閣文庫]]蔵)に書き残されている。氏真は1月に浜松から上洛の旅に出、京都到着後は社寺を参詣したり[[三条西実澄]]ら旧知の公家を訪問したりしている<ref name="eisou">『今川氏真詠草』</ref>。<br />
3月16日には徳川家康の同盟者にして「父の仇」でもある織田信長と[[京都]]の[[相国寺]]で会見、信長は氏真に蹴鞠を所望し、同20日に相国寺において公家たちとともに信長に蹴鞠を披露している<ref>『[[信長公記]]』。氏真は16日の会見以前に「千鳥の香炉」「宗祇香炉」を献上しており、この日の会見で、信長は宗祇香炉のみを氏真に返却している。『今川氏真詠草』にはこの会見に関する感慨は記されていない。</ref>。<br />
4月、[[武田勝頼]]が三河長篠に侵入したことを聞くと([[長篠の戦い]])京を出立して三河に戻り、5月15日から牛久保で後詰を務めている<ref>『今川氏真詠草』。おそらく家康に従ったものと思われる。『続武家閑談』『紀伊国物語』にも氏真が家康に同道していたことが記されている。</ref>。<br />
氏真に仕えていた[[朝比奈泰勝]]は、家康の許に使者に訪れた際に設楽原での戦闘に参加し、[[内藤昌豊]]を討ち取り、家康の直臣になったという<ref>『校訂松平記』</ref>。<br />
<br />
長篠の合戦後、氏真も残敵掃討に従事したのち、5月末からは数日間旧領駿河にも進入し、各地に放火している<ref name="eisou"/>。<br />
7月中旬には[[遠江国|遠江]][[諏訪原城]](現:[[静岡県]][[島田市]])に従った。諏訪原城は8月に落城して牧野城と改名する。天正4年(1576年)3月17日、家康は牧野城主に氏真を置き、[[松平家忠]]・[[松平康親]]に補佐させた<ref name="souran"/>。しかし、天正5年(1577年)3月1日に氏真は浜松に召還されている。一年足らずでの解任であった。また、城主時代に剃髪したらしく、牧野城主解任時に家臣・海老江弥三郎に暇を与えた文書では'''宗誾'''(そうぎん)と号している<ref name="souran"/>。<br />
この文書が、今川家当主として氏真が発給した最後の文書となる。<br />
<br />
=== 後半生 ===<br />
牧野城主解任後の動向は不明であるが、氏真は浜松周辺にいたのではないかと推測され、[[松平家忠]]の『家忠日記』に断続的に登場している。天正7年(1579年)10月には浜松城の家忠の詰所を氏真が訪問しており、その後家康の饗応も受けている。また「氏真衆」と呼ばれる家臣がおり、『家忠日記』には彼らとの交際も記されている。天正11年([[1583年]])7月、[[近衛前久]]が浜松を訪れ、家康が饗応した際には、氏真も陪席している<ref>『景憲家伝』、『明良洪範』</ref>。<br />
この後しばらくの消息は再びわからなくなる。<br />
<br />
[[天正]]19年([[1591年]])9月、[[山科言経]]の日記『言経卿記』に氏真は姿を現す。この頃までには、氏真は京都に移り住んでいたと推測される。仙巌斎(仙岩斎)という斎号を持つようになった氏真は、言経はじめ[[冷泉為満]]・[[冷泉為将]]ら旧知・姻戚の[[公家]]などの文化人と往来し、[[連歌]]の会などにしきりに参加したり、古典の借覧・書写などを行っていたことが記されている。[[文禄]]4年([[1595年]])の『言経卿記』には言経が氏真と共に[[石川家成]]を訪問するなど、この時期にも徳川家と何らかのつながりがあることが推測される<ref>井上宗雄「今川氏とその学芸」、『今川氏と観泉寺』p.671</ref>。<br />
<br />
京都在住時代の氏真は、豊臣秀吉あるいは徳川家康から与えられた所領からの収入によって生活をしていたとも推測される<ref>『[[志士清談]]』によると、氏真は秀吉の頃に400石の捨扶持を与えられ、京都四条で世捨て人のような暮らしをしていたという。</ref>。のちの慶長17年([[1612年]])に、徳川家康から近江国野洲郡長島村(現:[[滋賀県]][[野洲市]]長島)の「旧地」500石を安堵されているが<ref>『寛政重修諸家譜』、『略譜』(大日本史料所収)</ref>、この「旧地」の由来や性格ははっきりしていない<ref>今川家の衰微を見かねた若王子が分けたもの(『甲子夜話続編』)、建武年間に[[今川範国]]が領主だった由来のもの(『観泉寺と今川氏』p.125が引く『神社明細帳』所収の長島神社由緒)、室町時代に今川家が在京費用のために領有していたもの(『観泉寺と今川氏』p.11が引く野洲郡西運寺所蔵「御位牌之縁起」)など諸説ある。</ref>。<br />
<br />
[[慶長]]3年([[1598年]])、氏真は次男[[品川高久|高久]]を徳川秀忠に出仕させる。慶長12年([[1607年]])には長男・[[今川範以|範以]]が京都で没する。慶長16年([[1611年]])には、範以の遺児・[[今川直房|範英]]が徳川秀忠に出仕した。<br />
<br />
『言経卿記』の氏真記事は、慶長17年([[1612年]])正月、冷泉為満邸で行われた連歌会に出席した記事が最後となる。氏真は住み慣れた京都を去り、4月に郷里駿府で大御所徳川家康と面会している<ref>『[[駿府記]]』慶長17年4月14日条</ref>。氏真の「旧地」が安堵されたのはこの時で、また家康は氏真に対して品川に屋敷を与えたという。そのまま子や孫のいる[[江戸]]に移住したものと思われ、慶長18年([[1613年]])に長年連れ添った[[早川殿]]と死別した。<br />
<br />
[[慶長]]19年([[1614年]])[[12月28日 (旧暦)|12月28日]]、江戸で死去。享年77。<br />
<br />
葬儀は氏真の弟の[[一月長得]]が江戸[[市谷]]の[[萬昌院]]で行い、同寺に葬られた。[[寛文]]2年([[1662年]])に萬昌院が牛込に移転するのに際して、井草の宝珠山[[観泉寺]](現・[[東京都]][[杉並区]][[今川 (杉並区)|今川]]二丁目)に妻・蔵春院早河殿の墓とともに移された。<br />
<br />
== 人物 ==<br />
=== 家族関係 ===<br />
*正室:[[早川殿|蔵春院早川殿]](北条氏康の長女)<br />
:氏真が没落した後も行動をともにし、慶長18年([[1613年]])に没するまで生涯連れ添った。範以・高久・澄存を生んだことは史料上確実であり、長女についても所生と考えられる<ref name="inoue">井上宗雄「今川氏とその学芸」、『今川氏と観泉寺』</ref><br />
*側室:庵原右近太夫忠康の娘。<br />
:有力家臣・[[庵原氏]]出身。<br />
*長女<br />
:[[吉良義定]]室。生年は明らかではないが、夫・義定の生年(永禄7年、1564年)から、駿河時代の子と推測される。<br />
*嫡男:[[今川範以]]<br />
:[[元亀]]元年([[1570年]])に生まれた。氏真33歳の時の子であり、この時期にはすでに駿河を追われている。父に先立って京都で没した。<br />
*次男:[[品川高久]]<br />
:[[天正]]4年([[1576年]])生まれ。今川の苗字は嫡家のみという由緒を重んじた[[徳川秀忠]]の意向で品川氏を名乗った。<br />
*三男:西尾安信<br />
:伝十郎と称した。生年は不詳。慶長18年([[1613年]])11月3日没。<br />
*四男:澄存<br />
:天正7年([[1579年]])生まれの末子。[[聖護院]]准后道澄の弟子となる。[[熊野若王子神社|若王子]]住職・熊野三山修験道本山奉行となり、[[承応]]元年([[1652年]])に没した。<br />
<br />
=== 交友関係 ===<br />
*[[山科言継]]<br />
:言綱の義母(山科言綱の正室)・黒木の方が[[寿桂尼]]の姉という関係で、黒木の方は妹を頼って駿河に下向していた。弘治2年([[1556年]])から翌年にかけての駿河下向の際の『言継卿記』は、貴重な史料となっている。言継の子・[[山科言経]]との交友も深かった。<br />
*[[里村紹巴]]<br />
:永禄10年(1567年)に駿河を訪問した際の『富士見道記』では、氏真が連歌を興行していることが記録されている。<br />
*[[乗阿|一華堂乗阿]]<br />
:長善寺住持。武田信虎の庶子あるいは猶子とも伝える。<br />
*[[松平家忠]]<br />
:深溝松平氏当主。『家忠日記』には「氏真様」と敬称付きで記されている。<br />
*[[沢庵宗彭]]<br />
:交友があったらしく、『明暗双々記』に氏真の死を悼む詩を残している。<br />
<br />
=== 文化人 ===<br />
和歌・連歌・蹴鞠などの技芸に通じた文化人であったという。<br />
* [[和歌]]<br />
:観泉寺史編纂刊行委員会編『今川氏と観泉寺』には1658首が収録されている。[[後水尾天皇]]選の[[集外三十六歌仙]]にも名を連ねている。<br />
:氏真の少年時の文化的な環境から、駿河に下向していた権大納言[[冷泉為和]]や、詩歌に通じていた[[太原雪斎]]などから指導を受けたとも考えられるが、具体的なことは知られていない<ref name="inoue"/>。成人後、[[冷泉為益]](為和の子)から多く学んだと思われる。<br />
:『今川氏と観泉寺』を編纂した一人であり、中古・中世和歌史の研究者である[[井上宗雄]]は、氏真の作品を優美平明を旨とする中世和歌の伝統的手法に則った作品と評している。「その作品は、すべてが勝れたものでなく、全体的に当時の水準を抜くものではなかったにしろ、時には水準に迫り、また少数ながら新しみのある歌、個性的な歌が存することは注目される。なお多くの平凡な歌が全く無駄だったとは思われない。常に歌に精神の中心を置いていればこそ、緊張感のみなぎった時には、調べの張った、個性的な歌を生んだのである」<ref name="inoue"/><br />
* [[蹴鞠]]<br />
: [[飛鳥井家|飛鳥井流宗家]]の[[飛鳥井雅綱]]より手ほどきを受けたとされる。『[[醒睡笑]]』には賀茂神社神官の[[松下述久]]に師事したことが記されている。<br />
* [[剣術]]<br />
: [[塚原卜伝]]に[[鹿島新当流|新当流]]を学んだ<ref name="bugeiryuuha">綿谷雪・山田忠史編『武芸流派大事典』(新人物往来社、1969年)。なお、江戸時代の剣・居合・棒術の流派に、駿河の'''今川越前守義真'''(義直、吉道とも)を始祖と称する「'''今川流'''」、[[仙台藩]]に伝わる剣・居合の流派に今川越前守重家(吉道とも)を始祖と称する「'''今川兼流'''」がある。『武芸流派大事典』は、義真とは氏真のことと推測しているが、根拠は示されていない。笹間良彦『図説日本武道辞典』(普及版:柏書房、2003年)が引く『[[撃剣叢談]]』は、今川越前守義真を駿河今川氏の庶流とする。</ref>。<br />
<br />
=== 後世の評価・逸話 ===<br />
*江戸時代初期に成立した『[[甲陽軍鑑]]』品第十一では、「鈍過たる大将(馬嫁なる大将)」として氏真が挙げられている。氏真は心は剛毅であり戦闘も下手ではなかったと描かれているが、譜代の賢臣を重んじず、三浦義鎮のような「奸臣」を重用して失政を行ったという点に批判の重点が置かれている。<br />
*[[松平定信]]が随筆『閑なるあまり』に「日本治りたりとても、油断するは[[足利義政|東山義政]]の茶湯、[[大内義隆]]の学問、今川氏真の歌道ぞ」と記しているように、江戸時代中期以降に書かれた文献の中では、[[和歌]]や[[蹴鞠]]といった「文弱」な娯楽に溺れ国を滅ぼした暗君として描かれていることが多く、このイメージは今日の歴史小説や歴史ドラマにおいてしばしば踏襲されている人物像である。<br />
*『[[続武家閑談]]』は以下の逸話を載せる。天正10年(1582年)、武田氏が滅ぼされた際、家康が信長に「駿河を氏真に与えたらどうか」と言ったところ、信長は「役にも立たない氏真に駿河を与えられようか、不要な人を生かすよりは腹を切らせたらいい」と答えた。これを伝え聞いて氏真は驚き、いずれかへ逃げ去っていたが、そのうちに[[本能寺の変]]が発生したという。家康と信長の間のやりとりについて真偽のほどは定かではない。<br />
*『[[及聞秘録]]』には、晩年家康を頼った氏真が江戸城をたびたび訪れて長話をしたために家康が辟易し、江戸城から離れた品川に屋敷を与えたと記されている。家康が氏真を江戸城で引見したかについては疑わしい。<br />
*『[[故老諸談]]』には、氏真と家康が和歌について談じたことが記される。氏真が和歌の道の奥深さや言葉選びの難しさを語るのに対して、家康は技法にこだわるよりも思いのままに詠むのがよいと返している。<br />
<br />
=== その他 ===<br />
*剃髪後に描かれた肖像画がある(個人蔵)<ref>有光(2008年)に所収</ref>。<br />
<br />
== 今川氏真を題材にした作品 ==<br />
;小説<br />
*天下を汝に―戦国外交の雄・今川氏真([[赤木駿介]]、新潮社)<br />
;氏真が登場するテレビドラマ<br />
* [[太閤記 (NHK大河ドラマ)|太閤記]](昭和40年([[1965年]]) NHK大河ドラマ、演:[[高野恭明]])<br />
* [[天と地と (NHK大河ドラマ)|天と地と]](昭和44年([[1969年]]) NHK大河ドラマ、演:[[阿知波信介]])<br />
* [[徳川家康 (NHK大河ドラマ)|徳川家康]](昭和58年([[1983年]]) NHK大河ドラマ、演:[[林与一]])<br />
* [[武田信玄 (NHK大河ドラマ)|武田信玄]](昭和63年([[1988年]]) NHK大河ドラマ、演:[[神田雄次]])<br />
* [[風林火山 (NHK大河ドラマ)|風林火山]](平成19年([[2007年]]) NHK大河ドラマ、演:[[風間由次郎]])<br />
<br />
== 参考文献 ==<br />
*観泉寺史編纂刊行委員会編『今川氏と観泉寺』(吉川弘文館、1974年)<br />
*有光友學『今川義元』(吉川弘文館、2008年)<br />
<br />
== 脚注 ==<br />
{{reflist}}<br />
<br />
<br />
{{先代次代|[[今川氏|駿河今川氏歴代当主]]|第10代:1560年 - 1569年|[[今川義元]]|高家今川家:[[今川直房]]}}<br />
<br />
{{DEFAULTSORT:いまかわ うしさね}}<br />
[[Category:今川氏|うしさね]]<br />
[[Category:戦国武将]]<br />
[[Category:守護大名]]<br />
[[Category:戦国大名]]<br />
[[Category:駿河国の人物]]<br />
[[Category:1538年生]]<br />
[[Category:1615年没]]<br />
<br />
[[en:Imagawa Ujizane]]<br />
[[eo:Imagawa Ujizane]]<br />
[[fr:Ujizane Imagawa]]<br />
[[zh:今川氏真]]</div>
桂鷺淵
https://de.wikipedia.org/w/index.php?title=Imagawa_Ujizane&diff=135799366
Imagawa Ujizane
2009-02-10T11:47:57Z
<p>桂鷺淵: /* 後世の評価・逸話 */</p>
<hr />
<div>{{武士/開始|今川氏真}}<br />
{{武士/時代|[[戦国時代 (日本)|戦国時代]]から[[江戸時代]]前期}}<br />
{{武士/生誕|[[天文 (元号)|天文]]7年([[1538年]])<ref>没年齢からの逆算</ref>}}<br />
{{武士/死没|[[慶長]]19年[[12月28日 (旧暦)|12月28日]]([[1615年]][[1月27日]])}}<br />
{{武士/改名|五郎(幼名)、氏真、宗誾、<br>仙巖斎(法名)}}<br />
{{武士/別名|彦五郎(通称)}}<br />
{{武士/戒名|傳岩院殿量山泰栄大居士<ref>仙岩院殿豊山泰永大居士(「北条氏過去帳」)、仙厳院殿機峰宗俊大居士とも</ref>}}<br />
{{武士/墓所|[[萬昌院]]、[[観泉寺]]}}<br />
{{武士/官位|従四位下、[[上総国|上総]]介、刑部大輔<ref>『瑞光院記』によると、永禄3年([[1560年]])5月8日、義元が三河守に遷任された際に氏真は治部大輔に任官されたとあるが、この称を用いた史料はなく疑わしい。『寛政重修諸家譜』には「従四位下刑部大輔」とあるが、これも史料上確認されていない。実際の使用が確認されているのは「上総介」である。</ref>}}<br />
{{武士/幕府|[[室町幕府]][[駿河国|駿河]][[守護]]職・[[遠江国|遠江]]守護職}}<br />
{{武士/主君|[[北条氏康]]→[[北条氏政|氏政]]→[[徳川家康]]}}<br />
{{武士/氏族|[[今川氏]]}}<br />
{{武士/父母|父:[[今川義元]]<br/>母:[[定恵院]]([[武田信虎]]女)}}<br />
{{武士/兄弟|'''氏真'''、[[嶺松院]]([[武田義信]]室)<br>[[隆福院]]、[[一月長得]]}}<br />
{{武士/妻|正室:'''[[早川殿]]'''([[北条氏康]]女)}}<br />
{{武士/子|'''[[今川範以|範以]]'''、[[品川高久]]、娘([[吉良義定]]室)、猶子:''[[北条氏直]]''}}<br />
{{武士/終了}}<br />
<br />
'''今川 氏真'''(いまがわ うじざね)は、[[駿河国|駿河]]の[[守護大名]]・[[戦国大名]]。駿河[[今川氏]]10代当主で、大名としての今川家の最後の当主である。<br />
<br />
父・義元が[[桶狭間の戦い]]で[[織田信長]]によって討たれたためその領国を受け継いだが、[[武田信玄]]と[[徳川家康]]の侵攻を受けて敗れ、戦国大名としての今川家は滅亡した。その後は北条氏を頼り、最終的には徳川家康の庇護を受けた。今川家は[[江戸幕府]]のもとで[[高家]]として生き延びた。<br />
<br />
== 生涯 ==<br />
=== 家督相続 ===<br />
[[天文 (元号)|天文]]7年([[1538年]])、[[今川義元]]と[[定恵院]]([[武田信虎]]の娘)との間に嫡子として生まれる。天文23年([[1554年]])、17歳の折に[[北条氏康]]の長女・[[早川殿|蔵春院早川殿]]と結婚し、[[甲相駿三国同盟]]の成立に寄与した。<br />
<br />
[[弘治 (日本)|弘治]]2年([[1556年]])から翌年にかけて駿河を訪問した[[山科言継]]の日記『言継卿記』には、若い日の氏真も登場している。言継は、弘治3年([[1557年]])正月に氏真が自邸で開いた和歌始に出席したり、氏真に書や鞠を送ったりしたことを記録している。<br />
<br />
氏真は[[永禄]]元年([[1558年]])より駿河・遠江に文書を発給しており<ref>初見文書は永禄元年閏6月24日付の遠江国河匂庄老間村の寺庵中宛安堵状。</ref>、この前後に義元から氏真に[[家督]]が譲られたとも考えられている<ref>氏真の家督継承時期は、今川氏研究上の争点のひとつである。[[米原正義]]は、弘治3年(1557年)正月の氏真邸の歌会始を今川家の歌会始とし、義元生前の家督譲渡の可能性をはじめて指摘した(「今川氏の文芸」、同著『戦国武士と文芸の研究』(桜楓社、1976)年所収)。[[有光友學]]は「如律令」朱印の文書発給から永禄2年(1559年)5月段階で家督が継承されていたとする(「今川義元-氏真の代替りについて」『戦国史研究』3(1982年)、「今川義元の生涯」『静岡県史研究』9(1993年))。[[長谷川弘道]]は『言継卿記』弘治3年正月の記載に「屋形五郎殿」とあることから、この時点で家督継承がなされていたとする(「今川氏真の家督継承について」『戦国史研究』23(1992年))。ただし、時期を確定する上ではいずれも決定的とはいえない。</ref>。<br />
ただし、その後も義元が政治・軍事の主導権を掌握しており、家督相続が行われていたとしてどの程度の実質が伴っていたかには見解が分かれている。義元が三河国の掌握と西方への軍事行動に専念するため、氏真に駿河・遠江の経営を委ねたとする見方が提示されている<ref>三河国に対しては氏真は文書の発給を行っていない。有光(2008年)273~275ページ。</ref>。<br />
<br />
永禄3年([[1560年]])5月19日、[[尾張国|尾張]]に侵攻した義元が[[桶狭間の戦い]]で[[織田信長]]に討たれたため、氏真は名実ともに今川家の当主となった。<br />
<br />
=== 相次ぐ離反 ===<br />
[[桶狭間の戦い]]では今川氏の重臣や[[国人]]が多く討死した。[[三河国|三河]]・[[遠江国|遠江]]の国人・家臣たちの中には動揺や不満が広がり、今川氏からの離反の動きが広がった。<br />
<br />
三河の国人は、義元の対織田戦の陣頭に動員されており、その犠牲も大きかった。[[徳川家康|松平元康]](1563年家康に改名)は桶狭間の合戦後に旧領[[岡崎城]]に入り、[[西三河]]地域は元康の勢力下に入った。[[東三河]]でも、国人領主たちは今川氏真が新たな人質を要求したことにより不満を強め、離反して松平方につく国人と今川方に残る国人との間での抗争が広がる。永禄4年([[1561年]])、今川家から離反した[[菅沼定盈]]の[[野田城 (三河国)|野田城]]攻めに先立って、[[小原鎮実]]は人質十数名を[[龍拈寺]]で処刑するが、この措置は多くの東三河勢の離反を決定的なものにした。松平元康は永禄5年([[1562年]])正月には織田信長と[[清洲同盟]]を結び、今川氏の傘下から独立する姿勢を明らかにする。永禄5年(1562年)6月、氏真は自ら兵を率いて[[牛久保城|牛久保]]に出兵し一宮砦を攻撃したが、「一宮の後詰」と呼ばれる元康の奮戦で撃退されている。このとき、駿府に滞在していた外祖父[[武田信虎]]の動きが不穏であり、氏真は途中で軍を返したともという<ref>『校訂松平記』。この合戦については永禄7年(1564年)に起こったものとするもの(『三河物語』など)もあり、細部も異なる話も伝えられている。</ref>。<br />
永禄7年([[1564年]])6月には[[東三河]]の拠点である[[吉田城_(三河国)|吉田城]]が開城し、今川氏の勢力は三河から駆逐される。<br />
<br />
遠江においても家臣団・国人の混乱と離反が広がった(遠州錯乱)。永禄5年(1562年)には謀反が疑われた[[井伊直親]]を重臣の[[朝比奈泰朝]]に誅殺させている。ついで永禄7年(1564年)には[[浜松城|曳馬城]]主・[[飯尾連竜]]が家康と内通して反旗を翻した。氏真は、重臣[[三浦正俊]]らに命じて曳馬城を攻撃させるが陥落させることができず、逆に正俊が戦死してしまう。その後、和議に応じて降った飯尾連竜を永禄8年([[1565年]])12月に謀殺した。飯尾氏家臣たちが籠城する曳馬城には再び攻撃がかけられ、翌9年(1566年)4月に開城する。しかしこれらの措置も事態を収拾することはできず、国人たちを徳川方に走らせることになった。<br />
<br />
氏真は祖母[[寿桂尼]]の後見を受けて政治を行っていたと見られる。永禄3年後半から5年にかけて氏真は活発な文書発給を行い、寺社・被官・国人のつなぎ止めを図っている。外交面では北条氏との連携を維持し、[[上杉謙信|長尾景虎]](後の上杉謙信)の関東侵攻に対して援兵を送っている。また、内政面では、永禄9年([[1566年]])4月に[[富士宮市|富士大宮]]の[[六斎市]]を[[楽市・楽座|楽市]]とし<ref>大宮司富士家文書</ref>、[[徳政令|徳政]]の実施や役の免除などを行った<ref>[[若林淳之]]「今川氏真の苦悶―今川政権の終焉―」『静岡大学教育学部紀要』6(1955年)</ref>。<br />
しかし、これらの政策も、衰退をとどめることはできなかった。<br />
<br />
後世記された諸書<ref>『甲陽軍鑑』など</ref>には、氏真が遊興に耽るようになり、家臣の[[三浦義鎮]](右衛門佐、[[小原鎮実]]の子)を寵愛して政務を任せっきりにしたと記されている。また、政権末期にはこうした特定家臣の寵用や重臣の腐敗などの問題が表面化しつつあったと指摘されている<ref>若林淳之「今川氏真の苦悶」</ref>。<br />
<br />
[[里村紹巴]]が永禄10年([[1567年]])5月に駿河を訪問した際に記した『富士見道記』では、氏真をはじめ領内の寺社や公家宅で盛んに連歌の会や茶会を興行していることが記録されている。この時期も[[三条西実澄]]や[[冷泉為益]]が駿府に滞在しており、氏真政権末期にも歌壇は盛んであった。『校訂松平記』によると、永禄10年7月には駿河に[[風流踊]]が流行し、翌年の夏にも再発した。同書は、三浦右衛門佐が氏真に勧めて流行させたといい、風流踊りの流行を亡国の兆しとして描いている。<br />
<br />
=== 戦国大名今川氏の滅亡 ===<br />
{{main|駿河侵攻}}<br />
今川氏の衰退を見た[[甲斐国|甲斐]]の[[武田信玄]]は[[駿河国|駿河]]への南進を画策する。信玄の嫡男で氏真の妹・[[嶺松院]]の夫である[[武田義信]]はこれに反対したが、信玄は永禄8年([[1565年]])に義信を反逆の罪で幽閉して廃嫡。永禄10年([[1567年]])には義信を自害させ、嶺松院を今川家に送り返して婚姻同盟を破棄した。これにより今川氏は外交的にも不利な立場に陥った。氏真は[[越後国|越後]]の[[上杉謙信]]と盟約を交わして対抗し、[[相模国|相模]]の[[北条氏康]]とともに[[甲斐国|甲斐]]への[[荷留|塩留]]を行った<ref name="souran">『史料綜覧』。</ref>が、信玄は徳川家康や織田信長と同盟を結んで対抗したため、これは決定的なものにはならなかった。<br />
<br />
永禄11年([[1568年]])12月6日、信玄は甲府を発して駿河への侵攻を開始した。12月12日、[[薩た峠|薩{{lang|zh|埵}}峠]]で武田軍を迎撃するため氏真も[[興津]]の[[清見寺]]に出陣したが、[[瀬名信輝]]や[[葛山氏元]]、[[朝比奈政貞]]、[[三浦義鏡]]など駿河の有力国人21人が信玄に通じたため、12月13日に今川軍は潰走し、[[駿府]]もたちまち占領された。氏真は朝比奈泰朝の居城[[遠江国|遠江]][[掛川城]]へ逃れた。しかし、遠江にも今川領分割を信玄と約していた徳川家康が侵攻し、その大半が制圧される。12月27日には徳川軍によって掛川城が包囲されたが、泰朝をはじめとした家臣たちの奮闘で半年近くの籠城戦となった。<br />
<br />
早川殿の父・[[北条氏康]]は救援軍を差し向け、薩{{lang|zh|埵}}峠に布陣。戦力で勝る北条軍が優勢に展開するものの、武田軍の撃破には至らず戦況は膠着した。徳川軍による掛川包囲戦が長期化する中で、信玄は約定を破って遠江への圧迫を強め、家康は氏真との和睦を模索する。永禄12年([[1569年]])5月17日、氏真は家臣たちの助命と引き換えに掛川城を開城した。この時に今川氏真・徳川家康・北条氏康の間で、武田信玄の勢力を駿河から追い払った後は、氏真を再び駿河の国主とするという盟約が成立する。<br />
<br />
しかし、この盟約は結果的に履行されることはなく、氏真およびその子孫が領主の座に戻らなかったことから、一般的には、この掛川城の開城をもって戦国大名としての今川氏の滅亡(統治権の喪失)と解釈されている。<br />
<br />
=== 駿河旧国主の流転 ===<br />
[[掛川城]]の開城後、氏真は妻の実家である[[後北条氏|北条氏]]を頼り、蒲原を経て[[伊豆国|伊豆]][[戸倉城_(伊豆国)|戸倉城]]に入った(のち[[小田原]]に移り、早川に屋敷を与えられる<ref>『校訂松平記』</ref>)。永禄12年([[1569年]])5月23日、氏真は[[北条氏政]]の嫡男・国王丸(後の[[北条氏直|氏直]])を猶子とし、国王丸の成長後に駿河を譲ることを約した(この時点で氏真の嫡男・[[今川範以|範以]]はまだ生まれていない)。また、[[武田氏]]への共闘を目的に[[上杉謙信]]のもとに使者を送り、今川・北条・上杉三国同盟を結ぶ(実態は[[越相同盟]])。駿河では、[[岡部正綱]]が一時駿府を奪回し、花沢城の[[小原鎮実]]が武田氏への抗戦を継続するなど、今川勢力の活動はなお残っており、今川家支援を掲げた北条氏による出兵も行われた。氏真も、抗争中の駿河に対する安堵状や感状を発給している。しかし、蒲原城の戦いなどで北条軍は敗れ、今川家臣も調略により順次武田氏の軍門に降るなどしたため、[[元亀]]2年([[1571年]])頃には大勢が決し、氏真は駿河の支配を回復することはできなかった。<br />
<br />
[[元亀]]2年([[1571年]])10月に北条氏康が死ぬと、その後を継いだ[[北条氏政|氏政]]は外交方針を転換し[[武田氏]]と和睦した。12月に氏真は[[相模国|相模]]を離れ、徳川家康の庇護下に入った<ref>『校訂松平記』によると、信玄が氏真の殺害を図って小田原に人を送ったためという。『北条五代記』にも同様の記事があり、氏真が「中々に世をも人をも恨むまじ 時にあはぬを身の科にして」という一首を詠んだと記されている。</ref>。<br />
掛川城開城の際の講和条件を頼りにしたと見られるが、家康にとっても旧国主の保護は駿河侵攻の大義名分を得るものであった。元亀3年([[1572年]])に入ると、氏真は興津清見寺に文書を下すなど、若干の動きを見せている。<br />
<br />
天正3年([[1575年]])の行動は、この年1月から9月頃までに詠んだ歌428首を収めた私歌集『今川氏真詠草』([[内閣文庫]]蔵)に書き残されている。氏真は1月に浜松から上洛の旅に出、京都到着後は社寺を参詣したり[[三条西実澄]]ら旧知の公家を訪問したりしている<ref name="eisou">『今川氏真詠草』</ref>。<br />
3月16日には徳川家康の同盟者にして「父の仇」でもある織田信長と[[京都]]の[[相国寺]]で会見、信長は氏真に蹴鞠を所望し、同20日に相国寺において公家たちとともに信長に蹴鞠を披露している<ref>『[[信長公記]]』。氏真は16日の会見以前に「千鳥の香炉」「宗祇香炉」を献上しており、この日の会見で、信長は宗祇香炉のみを氏真に返却している。『今川氏真詠草』にはこの会見に関する感慨は記されていない。</ref>。<br />
4月、[[武田勝頼]]が三河長篠に侵入したことを聞くと([[長篠の戦い]])京を出立して三河に戻り、5月15日から牛久保で後詰を務めている<ref>『今川氏真詠草』。おそらく家康に従ったものと思われる。『続武家閑談』『紀伊国物語』にも氏真が家康に同道していたことが記されている。</ref>。<br />
氏真に仕えていた[[朝比奈泰勝]]は、家康の許に使者に訪れた際に設楽原での戦闘に参加し、[[内藤昌豊]]を討ち取り、家康の直臣になったという<ref>『校訂松平記』</ref>。<br />
<br />
長篠の合戦後、氏真も残敵掃討に従事したのち、5月末からは数日間旧領駿河にも進入し、各地に放火している<ref name="eisou"/>。<br />
7月中旬には[[遠江国|遠江]][[諏訪原城]](現:[[静岡県]][[島田市]])に従った。諏訪原城は8月に落城して牧野城と改名する。天正4年(1576年)3月17日、家康は牧野城主に氏真を置き、[[松平家忠]]・[[松平康親]]に補佐させた<ref name="souran"/>。しかし、天正5年(1577年)3月1日に氏真は浜松に召還されている。一年足らずでの解任であった。また、城主時代に剃髪したらしく、牧野城主解任時に家臣・海老江弥三郎に暇を与えた文書では'''宗誾'''(そうぎん)と号している<ref name="souran"/>。<br />
この文書が、今川家当主として氏真が発給した最後の文書となる。<br />
<br />
=== 後半生 ===<br />
牧野城主解任後の動向は不明であるが、氏真は浜松周辺にいたのではないかと推測され、[[松平家忠]]の『家忠日記』に断続的に登場している。天正7年(1579年)10月には浜松城の家忠の詰所を氏真が訪問しており、その後家康の饗応も受けている。また「氏真衆」と呼ばれる家臣がおり、『家忠日記』には彼らとの交際も記されている。天正11年([[1583年]])7月、[[近衛前久]]が浜松を訪れ、家康が饗応した際には、氏真も陪席している<ref>『景憲家伝』、『明良洪範』</ref>。<br />
この後しばらくの消息は再びわからなくなる。<br />
<br />
[[天正]]19年([[1591年]])9月、[[山科言経]]の日記『言経卿記』に氏真は姿を現す。この頃までには、氏真は京都に移り住んでいたと推測される。仙巌斎(仙岩斎)という斎号を持つようになった氏真は、言経はじめ[[冷泉為満]]・[[冷泉為将]]ら旧知・姻戚の[[公家]]などの文化人と往来し、[[連歌]]の会などにしきりに参加したり、古典の借覧・書写などを行っていたことが記されている。[[文禄]]4年([[1595年]])の『言経卿記』には言経が氏真と共に[[石川家成]]を訪問するなど、この時期にも徳川家と何らかのつながりがあることが推測される<ref>井上宗雄「今川氏とその学芸」、『今川氏と観泉寺』p.671</ref>。<br />
<br />
京都在住時代の氏真は、豊臣秀吉あるいは徳川家康から与えられた所領からの収入によって生活をしていたとも推測される<ref>『[[志士清談]]』によると、氏真は秀吉の頃に400石の捨扶持を与えられ、京都四条で世捨て人のような暮らしをしていたという。</ref>。のちの慶長17年([[1612年]])に、徳川家康から近江国野洲郡長島村(現:[[滋賀県]][[野洲市]]長島)の「旧地」500石を安堵されているが<ref>『寛政重修諸家譜』、『略譜』(大日本史料所収)</ref>、この「旧地」の由来や性格ははっきりしていない<ref>今川家の衰微を見かねた若王子が分けたもの(『甲子夜話続編』)、建武年間に[[今川範国]]が領主だった由来のもの(『観泉寺と今川氏』p.125が引く『神社明細帳』所収の長島神社由緒)、室町時代に今川家が在京費用のために領有していたもの(『観泉寺と今川氏』p.11が引く野洲郡西運寺所蔵「御位牌之縁起」)など諸説ある。</ref>。<br />
<br />
[[慶長]]3年([[1598年]])、氏真は次男[[品川高久|高久]]を徳川秀忠に出仕させる。慶長12年([[1607年]])には長男・[[今川範以|範以]]が京都で没する。慶長16年([[1611年]])には、範以の遺児・[[今川直房|範英]]が徳川秀忠に出仕した。<br />
<br />
『言経卿記』の氏真記事は、慶長17年([[1612年]])正月、冷泉為満邸で行われた連歌会に出席した記事が最後となる。氏真は住み慣れた京都を去り、4月に郷里駿府で大御所徳川家康と面会している<ref>『[[駿府記]]』慶長17年4月14日条</ref>。氏真の「旧地」が安堵されたのはこの時で、また家康は氏真に対して品川に屋敷を与えたという。そのまま子や孫のいる[[江戸]]に移住したものと思われ、慶長18年([[1613年]])に長年連れ添った[[早川殿]]と死別した。<br />
<br />
[[慶長]]19年([[1614年]])[[12月28日 (旧暦)|12月28日]]、江戸で死去。享年77。<br />
<br />
葬儀は氏真の弟の[[一月長得]]が江戸[[市谷]]の[[萬昌院]]で行い、同寺に葬られた。[[寛文]]2年([[1662年]])に萬昌院が牛込に移転するのに際して、井草の宝珠山[[観泉寺]](現・[[東京都]][[杉並区]][[今川 (杉並区)|今川]]二丁目)に妻・蔵春院早河殿の墓とともに移された。<br />
<br />
== 人物 ==<br />
=== 家族関係 ===<br />
*正室:[[早川殿|蔵春院早川殿]](北条氏康の長女)<br />
:氏真が没落した後も行動をともにし、慶長18年([[1613年]])に没するまで生涯連れ添った。範以・高久・澄存を生んだことは史料上確実であり、長女についても所生と考えられる<ref name="inoue">井上宗雄「今川氏とその学芸」、『今川氏と観泉寺』</ref><br />
*長女<br />
:[[吉良義定]]室。生年は明らかではないが、夫・義定の生年(永禄7年、1564年)から、駿河時代の子と推測される。<br />
*嫡男:[[今川範以]]<br />
:[[元亀]]元年([[1570年]])に生まれた。氏真33歳の時の子であり、この時期にはすでに駿河を追われている。父に先立って京都で没した。<br />
*次男:[[品川高久]]<br />
:[[天正]]4年([[1576年]])生まれ。今川の苗字は嫡家のみという由緒を重んじた[[徳川秀忠]]の意向で品川氏を名乗った。<br />
*三男:西尾安信<br />
:伝十郎と称した。生年は不詳。慶長18年([[1613年]])11月3日没。<br />
*四男:澄存<br />
:天正7年([[1579年]])生まれの末子。[[聖護院]]准后道澄の弟子となる。[[熊野若王子神社|若王子]]住職・熊野三山修験道本山奉行となり、[[承応]]元年([[1652年]])に没した。<br />
<br />
=== 交友関係 ===<br />
*[[山科言継]]<br />
:言綱の義母(山科言綱の正室)・黒木の方が[[寿桂尼]]の姉という関係で、黒木の方は妹を頼って駿河に下向していた。弘治2年([[1556年]])から翌年にかけての駿河下向の際の『言継卿記』は、貴重な史料となっている。言継の子・[[山科言経]]との交友も深かった。<br />
*[[里村紹巴]]<br />
:永禄10年(1567年)に駿河を訪問した際の『富士見道記』では、氏真が連歌を興行していることが記録されている。<br />
*[[乗阿|一華堂乗阿]]<br />
:長善寺住持。武田信虎の庶子あるいは猶子とも伝える。<br />
*[[松平家忠]]<br />
:深溝松平氏当主。『家忠日記』には「氏真様」と敬称付きで記されている。<br />
*[[沢庵宗彭]]<br />
:交友があったらしく、『明暗双々記』に氏真の死を悼む詩を残している。<br />
<br />
=== 文化人 ===<br />
和歌・連歌・蹴鞠などの技芸に通じた文化人であったという。<br />
* [[和歌]]<br />
:観泉寺史編纂刊行委員会編『今川氏と観泉寺』には1658首が収録されている。[[後水尾天皇]]選の[[集外三十六歌仙]]にも名を連ねている。<br />
:氏真の少年時の文化的な環境から、駿河に下向していた権大納言[[冷泉為和]]や、詩歌に通じていた[[太原雪斎]]などから指導を受けたとも考えられるが、具体的なことは知られていない<ref name="inoue"/>。成人後、[[冷泉為益]](為和の子)から多く学んだと思われる。<br />
:『今川氏と観泉寺』を編纂した一人であり、中古・中世和歌史の研究者である[[井上宗雄]]は、氏真の作品を優美平明を旨とする中世和歌の伝統的手法に則った作品と評している。「その作品は、すべてが勝れたものでなく、全体的に当時の水準を抜くものではなかったにしろ、時には水準に迫り、また少数ながら新しみのある歌、個性的な歌が存することは注目される。なお多くの平凡な歌が全く無駄だったとは思われない。常に歌に精神の中心を置いていればこそ、緊張感のみなぎった時には、調べの張った、個性的な歌を生んだのである」<ref name="inoue"/><br />
* [[蹴鞠]]<br />
: [[飛鳥井家|飛鳥井流宗家]]の[[飛鳥井雅綱]]より手ほどきを受けたとされる。『[[醒睡笑]]』には賀茂神社神官の[[松下述久]]に師事したことが記されている。<br />
* [[剣術]]<br />
: [[塚原卜伝]]に[[鹿島新当流|新当流]]を学んだという。<br />
<br />
=== 後世の評価・逸話 ===<br />
*江戸時代初期に成立した『[[甲陽軍鑑]]』品第十一では、「鈍過たる大将(馬嫁なる大将)」として氏真が挙げられている。氏真は心は剛毅であり戦闘も下手ではなかったと描かれているが、譜代の賢臣を重んじず、三浦義鎮のような「奸臣」を重用して失政を行ったという点に批判の重点が置かれている。<br />
*[[松平定信]]が随筆『閑なるあまり』に「日本治りたりとても、油断するは[[足利義政|東山義政]]の茶湯、[[大内義隆]]の学問、今川氏真の歌道ぞ」と記しているように、江戸時代中期以降に書かれた文献の中では、[[和歌]]や[[蹴鞠]]といった「文弱」な娯楽に溺れ国を滅ぼした暗君として描かれていることが多く、このイメージは今日の歴史小説や歴史ドラマにおいてしばしば踏襲されている人物像である。<br />
*『[[続武家閑談]]』は以下の逸話を載せる。天正10年(1582年)、武田氏が滅ぼされた際、家康が信長に「駿河を氏真に与えたらどうか」と言ったところ、信長は「役にも立たない氏真に駿河を与えられようか、不要な人を生かすよりは腹を切らせたらいい」と答えた。これを伝え聞いて氏真は驚き、いずれかへ逃げ去っていたが、そのうちに[[本能寺の変]]が発生したという。家康と信長の間のやりとりについて真偽のほどは定かではない。<br />
*『[[及聞秘録]]』には、晩年家康を頼った氏真が江戸城をたびたび訪れて長話をしたために家康が辟易し、江戸城から離れた品川に屋敷を与えたと記されている。家康が氏真を江戸城で引見したかについては疑わしい。<br />
*『[[故老諸談]]』には、氏真と家康が和歌について談じたことが記される。氏真が和歌の道の奥深さや言葉選びの難しさを語るのに対して、家康は技法にこだわるよりも思いのままに詠むのがよいと返している。<br />
<br />
=== その他 ===<br />
*剃髪後に描かれた肖像画がある(個人蔵)<ref>有光(2008年)に所収</ref>。<br />
<br />
== 今川氏真を題材にした作品 ==<br />
;小説<br />
*天下を汝に―戦国外交の雄・今川氏真([[赤木駿介]]、新潮社)<br />
;氏真が登場するテレビドラマ<br />
* [[太閤記 (NHK大河ドラマ)|太閤記]](昭和40年([[1965年]]) NHK大河ドラマ、演:[[高野恭明]])<br />
* [[天と地と (NHK大河ドラマ)|天と地と]](昭和44年([[1969年]]) NHK大河ドラマ、演:[[阿知波信介]])<br />
* [[徳川家康 (NHK大河ドラマ)|徳川家康]](昭和58年([[1983年]]) NHK大河ドラマ、演:[[林与一]])<br />
* [[武田信玄 (NHK大河ドラマ)|武田信玄]](昭和63年([[1988年]]) NHK大河ドラマ、演:[[神田雄次]])<br />
* [[風林火山 (NHK大河ドラマ)|風林火山]](平成19年([[2007年]]) NHK大河ドラマ、演:[[風間由次郎]])<br />
<br />
== 参考文献 ==<br />
*観泉寺史編纂刊行委員会編『今川氏と観泉寺』(吉川弘文館、1974年)<br />
*有光友學『今川義元』(吉川弘文館、2008年)<br />
<br />
== 脚注 ==<br />
{{reflist}}<br />
<br />
<br />
{{先代次代|[[今川氏|駿河今川氏歴代当主]]|第10代:1560年 - 1569年|[[今川義元]]|高家今川家:[[今川直房]]}}<br />
<br />
{{DEFAULTSORT:いまかわ うしさね}}<br />
[[Category:今川氏|うしさね]]<br />
[[Category:戦国武将]]<br />
[[Category:守護大名]]<br />
[[Category:戦国大名]]<br />
[[Category:駿河国の人物]]<br />
[[Category:1538年生]]<br />
[[Category:1615年没]]<br />
<br />
[[en:Imagawa Ujizane]]<br />
[[eo:Imagawa Ujizane]]<br />
[[fr:Ujizane Imagawa]]<br />
[[zh:今川氏真]]</div>
桂鷺淵
https://de.wikipedia.org/w/index.php?title=Imagawa_Ujizane&diff=135799365
Imagawa Ujizane
2009-02-10T11:43:45Z
<p>桂鷺淵: </p>
<hr />
<div>{{武士/開始|今川氏真}}<br />
{{武士/時代|[[戦国時代 (日本)|戦国時代]]から[[江戸時代]]前期}}<br />
{{武士/生誕|[[天文 (元号)|天文]]7年([[1538年]])<ref>没年齢からの逆算</ref>}}<br />
{{武士/死没|[[慶長]]19年[[12月28日 (旧暦)|12月28日]]([[1615年]][[1月27日]])}}<br />
{{武士/改名|五郎(幼名)、氏真、宗誾、<br>仙巖斎(法名)}}<br />
{{武士/別名|彦五郎(通称)}}<br />
{{武士/戒名|傳岩院殿量山泰栄大居士<ref>仙岩院殿豊山泰永大居士(「北条氏過去帳」)、仙厳院殿機峰宗俊大居士とも</ref>}}<br />
{{武士/墓所|[[萬昌院]]、[[観泉寺]]}}<br />
{{武士/官位|従四位下、[[上総国|上総]]介、刑部大輔<ref>『瑞光院記』によると、永禄3年([[1560年]])5月8日、義元が三河守に遷任された際に氏真は治部大輔に任官されたとあるが、この称を用いた史料はなく疑わしい。『寛政重修諸家譜』には「従四位下刑部大輔」とあるが、これも史料上確認されていない。実際の使用が確認されているのは「上総介」である。</ref>}}<br />
{{武士/幕府|[[室町幕府]][[駿河国|駿河]][[守護]]職・[[遠江国|遠江]]守護職}}<br />
{{武士/主君|[[北条氏康]]→[[北条氏政|氏政]]→[[徳川家康]]}}<br />
{{武士/氏族|[[今川氏]]}}<br />
{{武士/父母|父:[[今川義元]]<br/>母:[[定恵院]]([[武田信虎]]女)}}<br />
{{武士/兄弟|'''氏真'''、[[嶺松院]]([[武田義信]]室)<br>[[隆福院]]、[[一月長得]]}}<br />
{{武士/妻|正室:'''[[早川殿]]'''([[北条氏康]]女)}}<br />
{{武士/子|'''[[今川範以|範以]]'''、[[品川高久]]、娘([[吉良義定]]室)、猶子:''[[北条氏直]]''}}<br />
{{武士/終了}}<br />
<br />
'''今川 氏真'''(いまがわ うじざね)は、[[駿河国|駿河]]の[[守護大名]]・[[戦国大名]]。駿河[[今川氏]]10代当主で、大名としての今川家の最後の当主である。<br />
<br />
父・義元が[[桶狭間の戦い]]で[[織田信長]]によって討たれたためその領国を受け継いだが、[[武田信玄]]と[[徳川家康]]の侵攻を受けて敗れ、戦国大名としての今川家は滅亡した。その後は北条氏を頼り、最終的には徳川家康の庇護を受けた。今川家は[[江戸幕府]]のもとで[[高家]]として生き延びた。<br />
<br />
== 生涯 ==<br />
=== 家督相続 ===<br />
[[天文 (元号)|天文]]7年([[1538年]])、[[今川義元]]と[[定恵院]]([[武田信虎]]の娘)との間に嫡子として生まれる。天文23年([[1554年]])、17歳の折に[[北条氏康]]の長女・[[早川殿|蔵春院早川殿]]と結婚し、[[甲相駿三国同盟]]の成立に寄与した。<br />
<br />
[[弘治 (日本)|弘治]]2年([[1556年]])から翌年にかけて駿河を訪問した[[山科言継]]の日記『言継卿記』には、若い日の氏真も登場している。言継は、弘治3年([[1557年]])正月に氏真が自邸で開いた和歌始に出席したり、氏真に書や鞠を送ったりしたことを記録している。<br />
<br />
氏真は[[永禄]]元年([[1558年]])より駿河・遠江に文書を発給しており<ref>初見文書は永禄元年閏6月24日付の遠江国河匂庄老間村の寺庵中宛安堵状。</ref>、この前後に義元から氏真に[[家督]]が譲られたとも考えられている<ref>氏真の家督継承時期は、今川氏研究上の争点のひとつである。[[米原正義]]は、弘治3年(1557年)正月の氏真邸の歌会始を今川家の歌会始とし、義元生前の家督譲渡の可能性をはじめて指摘した(「今川氏の文芸」、同著『戦国武士と文芸の研究』(桜楓社、1976)年所収)。[[有光友學]]は「如律令」朱印の文書発給から永禄2年(1559年)5月段階で家督が継承されていたとする(「今川義元-氏真の代替りについて」『戦国史研究』3(1982年)、「今川義元の生涯」『静岡県史研究』9(1993年))。[[長谷川弘道]]は『言継卿記』弘治3年正月の記載に「屋形五郎殿」とあることから、この時点で家督継承がなされていたとする(「今川氏真の家督継承について」『戦国史研究』23(1992年))。ただし、時期を確定する上ではいずれも決定的とはいえない。</ref>。<br />
ただし、その後も義元が政治・軍事の主導権を掌握しており、家督相続が行われていたとしてどの程度の実質が伴っていたかには見解が分かれている。義元が三河国の掌握と西方への軍事行動に専念するため、氏真に駿河・遠江の経営を委ねたとする見方が提示されている<ref>三河国に対しては氏真は文書の発給を行っていない。有光(2008年)273~275ページ。</ref>。<br />
<br />
永禄3年([[1560年]])5月19日、[[尾張国|尾張]]に侵攻した義元が[[桶狭間の戦い]]で[[織田信長]]に討たれたため、氏真は名実ともに今川家の当主となった。<br />
<br />
=== 相次ぐ離反 ===<br />
[[桶狭間の戦い]]では今川氏の重臣や[[国人]]が多く討死した。[[三河国|三河]]・[[遠江国|遠江]]の国人・家臣たちの中には動揺や不満が広がり、今川氏からの離反の動きが広がった。<br />
<br />
三河の国人は、義元の対織田戦の陣頭に動員されており、その犠牲も大きかった。[[徳川家康|松平元康]](1563年家康に改名)は桶狭間の合戦後に旧領[[岡崎城]]に入り、[[西三河]]地域は元康の勢力下に入った。[[東三河]]でも、国人領主たちは今川氏真が新たな人質を要求したことにより不満を強め、離反して松平方につく国人と今川方に残る国人との間での抗争が広がる。永禄4年([[1561年]])、今川家から離反した[[菅沼定盈]]の[[野田城 (三河国)|野田城]]攻めに先立って、[[小原鎮実]]は人質十数名を[[龍拈寺]]で処刑するが、この措置は多くの東三河勢の離反を決定的なものにした。松平元康は永禄5年([[1562年]])正月には織田信長と[[清洲同盟]]を結び、今川氏の傘下から独立する姿勢を明らかにする。永禄5年(1562年)6月、氏真は自ら兵を率いて[[牛久保城|牛久保]]に出兵し一宮砦を攻撃したが、「一宮の後詰」と呼ばれる元康の奮戦で撃退されている。このとき、駿府に滞在していた外祖父[[武田信虎]]の動きが不穏であり、氏真は途中で軍を返したともという<ref>『校訂松平記』。この合戦については永禄7年(1564年)に起こったものとするもの(『三河物語』など)もあり、細部も異なる話も伝えられている。</ref>。<br />
永禄7年([[1564年]])6月には[[東三河]]の拠点である[[吉田城_(三河国)|吉田城]]が開城し、今川氏の勢力は三河から駆逐される。<br />
<br />
遠江においても家臣団・国人の混乱と離反が広がった(遠州錯乱)。永禄5年(1562年)には謀反が疑われた[[井伊直親]]を重臣の[[朝比奈泰朝]]に誅殺させている。ついで永禄7年(1564年)には[[浜松城|曳馬城]]主・[[飯尾連竜]]が家康と内通して反旗を翻した。氏真は、重臣[[三浦正俊]]らに命じて曳馬城を攻撃させるが陥落させることができず、逆に正俊が戦死してしまう。その後、和議に応じて降った飯尾連竜を永禄8年([[1565年]])12月に謀殺した。飯尾氏家臣たちが籠城する曳馬城には再び攻撃がかけられ、翌9年(1566年)4月に開城する。しかしこれらの措置も事態を収拾することはできず、国人たちを徳川方に走らせることになった。<br />
<br />
氏真は祖母[[寿桂尼]]の後見を受けて政治を行っていたと見られる。永禄3年後半から5年にかけて氏真は活発な文書発給を行い、寺社・被官・国人のつなぎ止めを図っている。外交面では北条氏との連携を維持し、[[上杉謙信|長尾景虎]](後の上杉謙信)の関東侵攻に対して援兵を送っている。また、内政面では、永禄9年([[1566年]])4月に[[富士宮市|富士大宮]]の[[六斎市]]を[[楽市・楽座|楽市]]とし<ref>大宮司富士家文書</ref>、[[徳政令|徳政]]の実施や役の免除などを行った<ref>[[若林淳之]]「今川氏真の苦悶―今川政権の終焉―」『静岡大学教育学部紀要』6(1955年)</ref>。<br />
しかし、これらの政策も、衰退をとどめることはできなかった。<br />
<br />
後世記された諸書<ref>『甲陽軍鑑』など</ref>には、氏真が遊興に耽るようになり、家臣の[[三浦義鎮]](右衛門佐、[[小原鎮実]]の子)を寵愛して政務を任せっきりにしたと記されている。また、政権末期にはこうした特定家臣の寵用や重臣の腐敗などの問題が表面化しつつあったと指摘されている<ref>若林淳之「今川氏真の苦悶」</ref>。<br />
<br />
[[里村紹巴]]が永禄10年([[1567年]])5月に駿河を訪問した際に記した『富士見道記』では、氏真をはじめ領内の寺社や公家宅で盛んに連歌の会や茶会を興行していることが記録されている。この時期も[[三条西実澄]]や[[冷泉為益]]が駿府に滞在しており、氏真政権末期にも歌壇は盛んであった。『校訂松平記』によると、永禄10年7月には駿河に[[風流踊]]が流行し、翌年の夏にも再発した。同書は、三浦右衛門佐が氏真に勧めて流行させたといい、風流踊りの流行を亡国の兆しとして描いている。<br />
<br />
=== 戦国大名今川氏の滅亡 ===<br />
{{main|駿河侵攻}}<br />
今川氏の衰退を見た[[甲斐国|甲斐]]の[[武田信玄]]は[[駿河国|駿河]]への南進を画策する。信玄の嫡男で氏真の妹・[[嶺松院]]の夫である[[武田義信]]はこれに反対したが、信玄は永禄8年([[1565年]])に義信を反逆の罪で幽閉して廃嫡。永禄10年([[1567年]])には義信を自害させ、嶺松院を今川家に送り返して婚姻同盟を破棄した。これにより今川氏は外交的にも不利な立場に陥った。氏真は[[越後国|越後]]の[[上杉謙信]]と盟約を交わして対抗し、[[相模国|相模]]の[[北条氏康]]とともに[[甲斐国|甲斐]]への[[荷留|塩留]]を行った<ref name="souran">『史料綜覧』。</ref>が、信玄は徳川家康や織田信長と同盟を結んで対抗したため、これは決定的なものにはならなかった。<br />
<br />
永禄11年([[1568年]])12月6日、信玄は甲府を発して駿河への侵攻を開始した。12月12日、[[薩た峠|薩{{lang|zh|埵}}峠]]で武田軍を迎撃するため氏真も[[興津]]の[[清見寺]]に出陣したが、[[瀬名信輝]]や[[葛山氏元]]、[[朝比奈政貞]]、[[三浦義鏡]]など駿河の有力国人21人が信玄に通じたため、12月13日に今川軍は潰走し、[[駿府]]もたちまち占領された。氏真は朝比奈泰朝の居城[[遠江国|遠江]][[掛川城]]へ逃れた。しかし、遠江にも今川領分割を信玄と約していた徳川家康が侵攻し、その大半が制圧される。12月27日には徳川軍によって掛川城が包囲されたが、泰朝をはじめとした家臣たちの奮闘で半年近くの籠城戦となった。<br />
<br />
早川殿の父・[[北条氏康]]は救援軍を差し向け、薩{{lang|zh|埵}}峠に布陣。戦力で勝る北条軍が優勢に展開するものの、武田軍の撃破には至らず戦況は膠着した。徳川軍による掛川包囲戦が長期化する中で、信玄は約定を破って遠江への圧迫を強め、家康は氏真との和睦を模索する。永禄12年([[1569年]])5月17日、氏真は家臣たちの助命と引き換えに掛川城を開城した。この時に今川氏真・徳川家康・北条氏康の間で、武田信玄の勢力を駿河から追い払った後は、氏真を再び駿河の国主とするという盟約が成立する。<br />
<br />
しかし、この盟約は結果的に履行されることはなく、氏真およびその子孫が領主の座に戻らなかったことから、一般的には、この掛川城の開城をもって戦国大名としての今川氏の滅亡(統治権の喪失)と解釈されている。<br />
<br />
=== 駿河旧国主の流転 ===<br />
[[掛川城]]の開城後、氏真は妻の実家である[[後北条氏|北条氏]]を頼り、蒲原を経て[[伊豆国|伊豆]][[戸倉城_(伊豆国)|戸倉城]]に入った(のち[[小田原]]に移り、早川に屋敷を与えられる<ref>『校訂松平記』</ref>)。永禄12年([[1569年]])5月23日、氏真は[[北条氏政]]の嫡男・国王丸(後の[[北条氏直|氏直]])を猶子とし、国王丸の成長後に駿河を譲ることを約した(この時点で氏真の嫡男・[[今川範以|範以]]はまだ生まれていない)。また、[[武田氏]]への共闘を目的に[[上杉謙信]]のもとに使者を送り、今川・北条・上杉三国同盟を結ぶ(実態は[[越相同盟]])。駿河では、[[岡部正綱]]が一時駿府を奪回し、花沢城の[[小原鎮実]]が武田氏への抗戦を継続するなど、今川勢力の活動はなお残っており、今川家支援を掲げた北条氏による出兵も行われた。氏真も、抗争中の駿河に対する安堵状や感状を発給している。しかし、蒲原城の戦いなどで北条軍は敗れ、今川家臣も調略により順次武田氏の軍門に降るなどしたため、[[元亀]]2年([[1571年]])頃には大勢が決し、氏真は駿河の支配を回復することはできなかった。<br />
<br />
[[元亀]]2年([[1571年]])10月に北条氏康が死ぬと、その後を継いだ[[北条氏政|氏政]]は外交方針を転換し[[武田氏]]と和睦した。12月に氏真は[[相模国|相模]]を離れ、徳川家康の庇護下に入った<ref>『校訂松平記』によると、信玄が氏真の殺害を図って小田原に人を送ったためという。『北条五代記』にも同様の記事があり、氏真が「中々に世をも人をも恨むまじ 時にあはぬを身の科にして」という一首を詠んだと記されている。</ref>。<br />
掛川城開城の際の講和条件を頼りにしたと見られるが、家康にとっても旧国主の保護は駿河侵攻の大義名分を得るものであった。元亀3年([[1572年]])に入ると、氏真は興津清見寺に文書を下すなど、若干の動きを見せている。<br />
<br />
天正3年([[1575年]])の行動は、この年1月から9月頃までに詠んだ歌428首を収めた私歌集『今川氏真詠草』([[内閣文庫]]蔵)に書き残されている。氏真は1月に浜松から上洛の旅に出、京都到着後は社寺を参詣したり[[三条西実澄]]ら旧知の公家を訪問したりしている<ref name="eisou">『今川氏真詠草』</ref>。<br />
3月16日には徳川家康の同盟者にして「父の仇」でもある織田信長と[[京都]]の[[相国寺]]で会見、信長は氏真に蹴鞠を所望し、同20日に相国寺において公家たちとともに信長に蹴鞠を披露している<ref>『[[信長公記]]』。氏真は16日の会見以前に「千鳥の香炉」「宗祇香炉」を献上しており、この日の会見で、信長は宗祇香炉のみを氏真に返却している。『今川氏真詠草』にはこの会見に関する感慨は記されていない。</ref>。<br />
4月、[[武田勝頼]]が三河長篠に侵入したことを聞くと([[長篠の戦い]])京を出立して三河に戻り、5月15日から牛久保で後詰を務めている<ref>『今川氏真詠草』。おそらく家康に従ったものと思われる。『続武家閑談』『紀伊国物語』にも氏真が家康に同道していたことが記されている。</ref>。<br />
氏真に仕えていた[[朝比奈泰勝]]は、家康の許に使者に訪れた際に設楽原での戦闘に参加し、[[内藤昌豊]]を討ち取り、家康の直臣になったという<ref>『校訂松平記』</ref>。<br />
<br />
長篠の合戦後、氏真も残敵掃討に従事したのち、5月末からは数日間旧領駿河にも進入し、各地に放火している<ref name="eisou"/>。<br />
7月中旬には[[遠江国|遠江]][[諏訪原城]](現:[[静岡県]][[島田市]])に従った。諏訪原城は8月に落城して牧野城と改名する。天正4年(1576年)3月17日、家康は牧野城主に氏真を置き、[[松平家忠]]・[[松平康親]]に補佐させた<ref name="souran"/>。しかし、天正5年(1577年)3月1日に氏真は浜松に召還されている。一年足らずでの解任であった。また、城主時代に剃髪したらしく、牧野城主解任時に家臣・海老江弥三郎に暇を与えた文書では'''宗誾'''(そうぎん)と号している<ref name="souran"/>。<br />
この文書が、今川家当主として氏真が発給した最後の文書となる。<br />
<br />
=== 後半生 ===<br />
牧野城主解任後の動向は不明であるが、氏真は浜松周辺にいたのではないかと推測され、[[松平家忠]]の『家忠日記』に断続的に登場している。天正7年(1579年)10月には浜松城の家忠の詰所を氏真が訪問しており、その後家康の饗応も受けている。また「氏真衆」と呼ばれる家臣がおり、『家忠日記』には彼らとの交際も記されている。天正11年([[1583年]])7月、[[近衛前久]]が浜松を訪れ、家康が饗応した際には、氏真も陪席している<ref>『景憲家伝』、『明良洪範』</ref>。<br />
この後しばらくの消息は再びわからなくなる。<br />
<br />
[[天正]]19年([[1591年]])9月、[[山科言経]]の日記『言経卿記』に氏真は姿を現す。この頃までには、氏真は京都に移り住んでいたと推測される。仙巌斎(仙岩斎)という斎号を持つようになった氏真は、言経はじめ[[冷泉為満]]・[[冷泉為将]]ら旧知・姻戚の[[公家]]などの文化人と往来し、[[連歌]]の会などにしきりに参加したり、古典の借覧・書写などを行っていたことが記されている。[[文禄]]4年([[1595年]])の『言経卿記』には言経が氏真と共に[[石川家成]]を訪問するなど、この時期にも徳川家と何らかのつながりがあることが推測される<ref>井上宗雄「今川氏とその学芸」、『今川氏と観泉寺』p.671</ref>。<br />
<br />
京都在住時代の氏真は、豊臣秀吉あるいは徳川家康から与えられた所領からの収入によって生活をしていたとも推測される<ref>『[[志士清談]]』によると、氏真は秀吉の頃に400石の捨扶持を与えられ、京都四条で世捨て人のような暮らしをしていたという。</ref>。のちの慶長17年([[1612年]])に、徳川家康から近江国野洲郡長島村(現:[[滋賀県]][[野洲市]]長島)の「旧地」500石を安堵されているが<ref>『寛政重修諸家譜』、『略譜』(大日本史料所収)</ref>、この「旧地」の由来や性格ははっきりしていない<ref>今川家の衰微を見かねた若王子が分けたもの(『甲子夜話続編』)、建武年間に[[今川範国]]が領主だった由来のもの(『観泉寺と今川氏』p.125が引く『神社明細帳』所収の長島神社由緒)、室町時代に今川家が在京費用のために領有していたもの(『観泉寺と今川氏』p.11が引く野洲郡西運寺所蔵「御位牌之縁起」)など諸説ある。</ref>。<br />
<br />
[[慶長]]3年([[1598年]])、氏真は次男[[品川高久|高久]]を徳川秀忠に出仕させる。慶長12年([[1607年]])には長男・[[今川範以|範以]]が京都で没する。慶長16年([[1611年]])には、範以の遺児・[[今川直房|範英]]が徳川秀忠に出仕した。<br />
<br />
『言経卿記』の氏真記事は、慶長17年([[1612年]])正月、冷泉為満邸で行われた連歌会に出席した記事が最後となる。氏真は住み慣れた京都を去り、4月に郷里駿府で大御所徳川家康と面会している<ref>『[[駿府記]]』慶長17年4月14日条</ref>。氏真の「旧地」が安堵されたのはこの時で、また家康は氏真に対して品川に屋敷を与えたという。そのまま子や孫のいる[[江戸]]に移住したものと思われ、慶長18年([[1613年]])に長年連れ添った[[早川殿]]と死別した。<br />
<br />
[[慶長]]19年([[1614年]])[[12月28日 (旧暦)|12月28日]]、江戸で死去。享年77。<br />
<br />
葬儀は氏真の弟の[[一月長得]]が江戸[[市谷]]の[[萬昌院]]で行い、同寺に葬られた。[[寛文]]2年([[1662年]])に萬昌院が牛込に移転するのに際して、井草の宝珠山[[観泉寺]](現・[[東京都]][[杉並区]][[今川 (杉並区)|今川]]二丁目)に妻・蔵春院早河殿の墓とともに移された。<br />
<br />
== 人物 ==<br />
=== 家族関係 ===<br />
*正室:[[早川殿|蔵春院早川殿]](北条氏康の長女)<br />
:氏真が没落した後も行動をともにし、慶長18年([[1613年]])に没するまで生涯連れ添った。範以・高久・澄存を生んだことは史料上確実であり、長女についても所生と考えられる<ref name="inoue">井上宗雄「今川氏とその学芸」、『今川氏と観泉寺』</ref><br />
*長女<br />
:[[吉良義定]]室。生年は明らかではないが、夫・義定の生年(永禄7年、1564年)から、駿河時代の子と推測される。<br />
*嫡男:[[今川範以]]<br />
:[[元亀]]元年([[1570年]])に生まれた。氏真33歳の時の子であり、この時期にはすでに駿河を追われている。父に先立って京都で没した。<br />
*次男:[[品川高久]]<br />
:[[天正]]4年([[1576年]])生まれ。今川の苗字は嫡家のみという由緒を重んじた[[徳川秀忠]]の意向で品川氏を名乗った。<br />
*三男:西尾安信<br />
:伝十郎と称した。生年は不詳。慶長18年([[1613年]])11月3日没。<br />
*四男:澄存<br />
:天正7年([[1579年]])生まれの末子。[[聖護院]]准后道澄の弟子となる。[[熊野若王子神社|若王子]]住職・熊野三山修験道本山奉行となり、[[承応]]元年([[1652年]])に没した。<br />
<br />
=== 交友関係 ===<br />
*[[山科言継]]<br />
:言綱の義母(山科言綱の正室)・黒木の方が[[寿桂尼]]の姉という関係で、黒木の方は妹を頼って駿河に下向していた。弘治2年([[1556年]])から翌年にかけての駿河下向の際の『言継卿記』は、貴重な史料となっている。言継の子・[[山科言経]]との交友も深かった。<br />
*[[里村紹巴]]<br />
:永禄10年(1567年)に駿河を訪問した際の『富士見道記』では、氏真が連歌を興行していることが記録されている。<br />
*[[乗阿|一華堂乗阿]]<br />
:長善寺住持。武田信虎の庶子あるいは猶子とも伝える。<br />
*[[松平家忠]]<br />
:深溝松平氏当主。『家忠日記』には「氏真様」と敬称付きで記されている。<br />
*[[沢庵宗彭]]<br />
:交友があったらしく、『明暗双々記』に氏真の死を悼む詩を残している。<br />
<br />
=== 文化人 ===<br />
和歌・連歌・蹴鞠などの技芸に通じた文化人であったという。<br />
* [[和歌]]<br />
:観泉寺史編纂刊行委員会編『今川氏と観泉寺』には1658首が収録されている。[[後水尾天皇]]選の[[集外三十六歌仙]]にも名を連ねている。<br />
:氏真の少年時の文化的な環境から、駿河に下向していた権大納言[[冷泉為和]]や、詩歌に通じていた[[太原雪斎]]などから指導を受けたとも考えられるが、具体的なことは知られていない<ref name="inoue"/>。成人後、[[冷泉為益]](為和の子)から多く学んだと思われる。<br />
:『今川氏と観泉寺』を編纂した一人であり、中古・中世和歌史の研究者である[[井上宗雄]]は、氏真の作品を優美平明を旨とする中世和歌の伝統的手法に則った作品と評している。「その作品は、すべてが勝れたものでなく、全体的に当時の水準を抜くものではなかったにしろ、時には水準に迫り、また少数ながら新しみのある歌、個性的な歌が存することは注目される。なお多くの平凡な歌が全く無駄だったとは思われない。常に歌に精神の中心を置いていればこそ、緊張感のみなぎった時には、調べの張った、個性的な歌を生んだのである」<ref name="inoue"/><br />
* [[蹴鞠]]<br />
: [[飛鳥井家|飛鳥井流宗家]]の[[飛鳥井雅綱]]より手ほどきを受けたとされる。『[[醒睡笑]]』には賀茂神社神官の[[松下述久]]に師事したことが記されている。<br />
* [[剣術]]<br />
: [[塚原卜伝]]に[[鹿島新当流|新当流]]を学んだという。<br />
<br />
=== 後世の評価・逸話 ===<br />
*江戸時代初期に成立した『[[甲陽軍鑑]]』品第十一では、「鈍過たる大将(馬嫁なる大将)」として氏真が挙げられている。氏真は心は剛毅であり戦闘も下手ではなかったと描かれているが、譜代の賢臣を重んじず、三浦義鎮のような「奸臣」を重用して失政を行ったという点に批判の重点が置かれている。<br />
*[[松平定信]]が随筆『閑なるあまり』に「日本治りたりとても、油断するは[[東山義政]]の茶湯、[[大内義隆]]の学問、今川氏真の歌道ぞ」と記しているように、江戸時代中期以降に書かれた文献の中では、[[和歌]]や[[蹴鞠]]といった「文弱」な娯楽に溺れ国を滅ぼした暗君として描かれていることが多く、このイメージは今日の歴史小説や歴史ドラマにおいてしばしば踏襲されている人物像である。<br />
*『[[続武家閑談]]』は以下の逸話を載せる。天正10年(1582年)、武田氏が滅ぼされた際、家康が信長に「駿河を氏真に与えたらどうか」と言ったところ、信長は「役にも立たない氏真に駿河を与えられようか、不要な人を生かすよりは腹を切らせたらいい」と答えた。これを伝え聞いて氏真は驚き、いずれかへ逃げ去っていたが、そのうちに[[本能寺の変]]が発生したという。家康と信長の間のやりとりについて真偽のほどは定かではない。<br />
*『[[及聞秘録]]』には、晩年家康を頼った氏真が江戸城をたびたび訪れて長話をしたために家康が辟易し、江戸城から離れた品川に屋敷を与えたと記されている。家康が氏真を江戸城で引見したかについては疑わしい。<br />
*『[[故老諸談]]』には、氏真と家康が和歌について談じたことが記される。氏真が和歌の道の奥深さや言葉選びの難しさを語るのに対して、家康は技法にこだわるよりも思いのままに詠むのがよいと返している。<br />
<br />
=== その他 ===<br />
*剃髪後に描かれた肖像画がある(個人蔵)<ref>有光(2008年)に所収</ref>。<br />
<br />
== 今川氏真を題材にした作品 ==<br />
;小説<br />
*天下を汝に―戦国外交の雄・今川氏真([[赤木駿介]]、新潮社)<br />
;氏真が登場するテレビドラマ<br />
* [[太閤記 (NHK大河ドラマ)|太閤記]](昭和40年([[1965年]]) NHK大河ドラマ、演:[[高野恭明]])<br />
* [[天と地と (NHK大河ドラマ)|天と地と]](昭和44年([[1969年]]) NHK大河ドラマ、演:[[阿知波信介]])<br />
* [[徳川家康 (NHK大河ドラマ)|徳川家康]](昭和58年([[1983年]]) NHK大河ドラマ、演:[[林与一]])<br />
* [[武田信玄 (NHK大河ドラマ)|武田信玄]](昭和63年([[1988年]]) NHK大河ドラマ、演:[[神田雄次]])<br />
* [[風林火山 (NHK大河ドラマ)|風林火山]](平成19年([[2007年]]) NHK大河ドラマ、演:[[風間由次郎]])<br />
<br />
== 参考文献 ==<br />
*観泉寺史編纂刊行委員会編『今川氏と観泉寺』(吉川弘文館、1974年)<br />
*有光友學『今川義元』(吉川弘文館、2008年)<br />
<br />
== 脚注 ==<br />
{{reflist}}<br />
<br />
<br />
{{先代次代|[[今川氏|駿河今川氏歴代当主]]|第10代:1560年 - 1569年|[[今川義元]]|高家今川家:[[今川直房]]}}<br />
<br />
{{DEFAULTSORT:いまかわ うしさね}}<br />
[[Category:今川氏|うしさね]]<br />
[[Category:戦国武将]]<br />
[[Category:守護大名]]<br />
[[Category:戦国大名]]<br />
[[Category:駿河国の人物]]<br />
[[Category:1538年生]]<br />
[[Category:1615年没]]<br />
<br />
[[en:Imagawa Ujizane]]<br />
[[eo:Imagawa Ujizane]]<br />
[[fr:Ujizane Imagawa]]<br />
[[zh:今川氏真]]</div>
桂鷺淵
https://de.wikipedia.org/w/index.php?title=Imagawa_Ujizane&diff=135799305
Imagawa Ujizane
2007-10-12T08:56:46Z
<p>桂鷺淵: 早川殿へリンク</p>
<hr />
<div>{{武士/開始|今川氏真}}<br />
{{武士/時代|[[戦国時代 (日本)|戦国時代]]から[[江戸時代]]前期}}<br />
{{武士/生誕|[[天文 (元号)|天文]]7年([[1538年]])}}<br />
{{武士/死没|[[慶長]]19年[[12月28日 (旧暦)|12月28日]]([[1615年]][[1月27日]])}}<br />
{{武士/改名|五郎(幼名)。宗誾、仙巖斎(法名)}}<br />
{{武士/別名|彦五郎(通称)}}<br />
{{武士/戒名|傳岩院殿量山泰栄大居士}}<br />
{{武士/墓所|[[萬昌院]]、[[観泉寺]]}}<br />
{{武士/官位|従四位下、[[上総]]介。刑部大輔}}<br />
{{武士/幕府|[[室町幕府]][[駿河]][[守護]]職・[[遠江]]守護職}}<br />
{{武士/氏族|[[清和源氏]][[足利氏]]流、[[今川氏]]}}<br />
{{武士/父母|父:[[今川義元]]、母:[[武田信虎]]の娘・[[定恵院]]}}<br />
{{武士/兄弟|'''今川氏真'''、[[嶺松院]]、[[隆福院]]、[[一月長得]]}}<br />
{{武士/妻|正室:[[北条氏康]]の娘・[[早川殿]]}}<br />
{{武士/子|'''[[今川範以]]'''、[[品川高久]]、[[吉良義定]]妻}}<br />
{{武士/終了}}<br />
<br />
'''今川 氏真'''('''いまがわ うじざね''')は、駿河の[[戦国大名]]。[[駿河国|駿河]][[今川氏]]10代当主で、大名としての今川家の最後の当主である。<br />
<br />
父・義元が[[桶狭間の戦い]]で[[織田信長]]によって討たれたため家督を継いだが、[[武田信玄]]と[[徳川家康]]の侵攻を受けて敗れ、大名としての今川家は滅亡した。<br />
<br />
その後、各地を流浪し、最終的には徳川家康の庇護を受けた。今川家は[[江戸幕府]]のもとで[[高家]]として生き延びた。<br />
<br />
== 生涯 ==<br />
=== 家督相続 ===<br />
天文7年([[1538年]])、[[今川義元]]と[[定恵院]]([[武田信虎]]の娘)との間に嫡子として生まれる。[[天文 (元号)|天文]]23年([[1554年]])に[[北条氏康]]の長女・[[早川殿|蔵春院早川殿]]と結婚し、[[甲相駿三国同盟]]の成立に寄与した。<br />
<br />
[[永禄]]元年([[1558年]])より駿河・遠江に文書を発給している。義元が[[隠居]]したため、[[家督]]を譲られて当主になったという説があるが、その後も義元は政治・軍事の主導権を掌握していたため、恐らくは形式的な家督相続であったものと思われる。永禄3年([[1560年]])に上総介に任官された。同年、[[尾張]]に侵攻した義元が[[桶狭間の戦い]]で[[織田信長]]に討たれたため、実質的にも家督を相続して今川家の第10代当主となった。<br />
<br />
=== 相次ぐ離反 ===<br />
[[桶狭間の戦い]]では今川氏の重臣や[[国人]]が多く討死した。このため[[三河国|三河]]・[[遠江国|遠江]]では国人・家臣団が動揺し、今川氏からの離反の動きが広がった。<br />
<br />
永禄5年([[1562年]])、[[西三河]]の[[松平元康]](翌年、徳川家康に改名)は織田信長と[[清洲同盟]]を結び、今川氏の傘下から独立する姿勢を明らかにした。氏真は、家康が[[三河一向一揆]]で多くの家臣団に離反されたことに乗じて[[牛久保城|牛久保]]に出兵したが撃退されている。永禄8年([[1565年]])には[[東三河]]の拠点である[[吉田城_(三河国)|吉田城]]が失陥し、今川氏の勢力は三河から駆逐される。<br />
<br />
遠江においても家臣団・国人の混乱と離反が広がった(遠州錯乱)。永禄5年([[1562年]])には謀反が疑われた[[井伊直親]]を重臣の[[朝比奈泰朝]]に誅殺させている。ついで[[浜松城|曳馬城]]主・[[飯尾連竜]]が家康と内通して反旗を翻した。氏真は、重臣[[三浦正俊]]らに命じて曳馬城を攻撃させるが陥落させることができず、和議に応じて降った飯尾連竜を永禄8年([[1565年]])12月に謀殺した。しかしこれらの措置も事態を収拾することはできず、かえって国人たちを徳川方に走らせることになった。<br />
<br />
氏真は祖母[[寿桂尼]]の後見を受けて領国の安定を図り、永禄9年([[1566年]])4月に[[富士宮市|富士大宮]]を[[楽市・楽座|楽市]]とし、[[徳政令|徳政]]の実施や役の免除などの産業振興政策を行ったが、衰退をとどめることはできなかった。ついに遊興に耽るようになり、家臣の[[三浦義政]](三浦正俊の一族)を寵愛して政務を任せっきりにしたため、駿河内部でも家臣の離反を招くことになった。<br />
<br />
=== 滅亡 ===<br />
今川氏の衰退を見た[[甲斐国|甲斐]]の[[武田信玄]]は[[駿河国|駿河]]への南進を画策する。信玄の嫡男で氏真の妹・[[嶺松院]]の夫である[[武田義信]]はこれに反対したが、信玄は[[永禄]]8年([[1565年]])に義信を反逆の罪で幽閉して廃嫡し、婚姻同盟を破棄した。これにより今川氏は外交的にも不利な立場に陥った。氏真は[[越後国|越後]]の[[上杉謙信]]と盟約を交わして対抗し、[[相模国|相模]]の[[北条氏康]]とともに[[甲斐国|甲斐]]への[[塩留]]を行ったが、信玄は徳川家康や織田信長と同盟を結んで対抗したため、これは決定的なものにはならなかった。<br />
<br />
永禄11年([[1568年]])12月、信玄は駿河への侵攻を開始した。氏真は武田軍を[[薩埵峠]]で迎撃すべく[[興津]]の[[清見寺]]に出陣したが、[[瀬名信輝]]や[[葛山氏元]]、[[朝比奈政貞]]、[[三浦義鏡]]など駿河の有力国人21人が信玄に通じたため、12月13日に今川軍は潰走し[[駿府]]もたちまち占領された。氏真は朝比奈泰朝の居城[[遠江国|遠江]][[掛川城]]へ逃れたが、遠江にも今川領分割を信玄と約していた徳川家康が侵攻し、その大半が制圧される。12月27日には徳川軍によって掛川城が包囲されたが、泰朝をはじめとした家臣たちの奮闘で半年近くの籠城戦となった。<br />
<br />
早川殿の父・[[北条氏康]]は救援軍を差し向け[[薩埵峠]]に布陣するが、武田軍を撃破することはできなかった。徳川軍による掛川包囲戦が長期化する中で、信玄は約定を破って遠江への圧迫を強め、家康は氏真との和睦を模索する。永禄12年([[1569年]])5月17日、氏真は家臣たちの助命と引き換えに掛川城を開城した。この時に今川氏真・徳川家康・北条氏康の間で、武田信玄の勢力を駿河から追い払った後は、氏真を再び駿河の国主とするという盟約が成立する。しかし、この盟約は結果的に履行されることはなく、氏真およびその子孫が領主の座に戻らなかったことから、一般的には、この掛川城の開城をもって戦国大名としての今川氏の滅亡(統治権の喪失)と解釈されている。<br />
<br />
=== その後 ===<br />
[[掛川城]]の開城後、氏真は妻の実家である[[後北条氏|北条氏]]を頼り、[[伊豆]][[戸倉城_(伊豆国)|戸倉城]]に入った(のち[[小田原]]に移る)。永禄12年([[1569年]])5月23日、氏真は[[北条氏政]]の嫡男・国王丸(後の[[北条氏直|氏直]])を猶子とし、国王丸の成長後に駿河を譲ることを約した(この時点で氏真の嫡男・[[今川範以|範以]]はまだ生まれていない)。また、[[武田氏]]への共闘を目的に[[上杉謙信]]のもとに使者を送り、今川・北条・上杉三国同盟を結ぶ(実態は[[越相同盟]])。駿河では、[[岡部正綱]]が一時駿府城を奪回し、花沢城の[[大原資良]]が武田氏への抗戦を継続するなど、今川勢力の活動はなお残っており、今川家支援を掲げた北条氏による出兵も行われた。しかし、蒲原城の戦いなどで北条軍は敗れ、今川遺臣も攻撃や調略により順次武田氏の軍門に降り、氏真は駿河の支配を回復することはできなかった。<br />
<br />
[[元亀]]2年([[1571年]])10月に北条氏康が死ぬと、その後を継いだ[[北条氏政|氏政]]は方針を転換し[[武田氏]]と和睦した。これにより氏真は[[相模国|相模]]を離れ、徳川家康の庇護下に入った。掛川城開城の際の講和条件を頼りにしたと見られるが、家康にとっても旧国主の保護は駿河侵攻の大義名分を得るものであった。天正3年([[1575年]])3月16日、徳川家康の同盟者にして父の仇でもある織田信長と[[京都]]の[[相国寺]]で会見、同20日、信長の面前で公家たちとともに蹴鞠を披露したことが『[[信長公記]]』に記されている。また、この年の[[長篠の戦い]]にも従軍した。一時は徳川家康が[[武田勝頼]]と争う拠点の1つ、[[遠江国|遠江]][[諏訪原城|牧野城]](元は諏訪原城、[[静岡県]][[島田市]])を任せられたともいう。しかし結局駿河復帰を諦め(城主を解任されたとも言われる)、京に定住した。のち、剃髪して'''宗誾'''(そうぎん)と号する。<br />
<br />
その後は[[徳川家康|家康]]の援助を受けながら旧知・姻戚の[[公家]]などの文化人と往来し、[[連歌]]の会などに参加していたことが、親交のあった[[山科言経]]の日記『言経卿記』から伺える。<br />
<br />
=== 晩年 ===<br />
[[慶長]]5年([[1600年]])、[[関ヶ原の戦い]]の後、嫡孫・[[今川直房|範英]]と、二男・[[品川高久]](家康より「今川の姓は宗家に限る」との沙汰上があり、今川宗家以外は「品川」を名乗った)と共に[[徳川秀忠]]に出仕して[[江戸幕府]]の[[旗本]]に列したため、[[江戸]]に移住した(嫡男の[[今川範以]]は若くして病死していた)。<br />
<br />
[[慶長]]19年([[1614年]])、江戸[[品川]]の品川高久の屋敷で死去。享年77。<br />
<br />
葬儀は氏真の弟の[[一月長得]]が[[萬昌院]]で行い、萬昌院に葬られたが、後に妻・蔵春院早河殿の墓とともに、[[東京都]][[杉並区]]今川二丁目の宝珠山[[観泉寺]]に移された。<br />
<br />
== 人物 ==<br />
*正室である北条氏康の長女・[[早川殿|蔵春院早川殿]]は、氏真が没落した後も行動をともにし、慶長18年([[1613年]])に没するまで生涯連れ添った。<br />
<br />
*和歌・連歌・蹴鞠などの技芸に通じており、文化人としての氏真の評価は高い。<br />
<br />
;[[和歌]]<br />
:権大納言[[冷泉為和]]らより学んだと言われ、現在も1000首を超える歌がのこる。また[[後水尾天皇]]選の[[集外三十六歌仙]]にも名を連ねている。観泉寺史編纂刊行委員会編『今川氏と観泉寺』には氏真の全作品が収録されている。<br />
;[[蹴鞠]]<br />
:[[飛鳥井家|飛鳥井流宗家]]の[[飛鳥井雅綱]]より手ほどきを受けたとされる。<br />
;[[剣術]]<br />
:[[塚原卜伝]]に[[鹿島新当流|新当流]]を学んだという。[[今川流剣術]]では氏真が開祖と伝えている{{要出典}}。<br />
<br />
*領国の混乱を収拾できず、大名としての今川家を終焉させたことから、戦国大名としての氏真の力量は否定的に評価されることが多い。<br />
*[[松平定信]]が随筆『閑なるあまり』で、[[足利義政]]の茶の湯、[[大内義隆]]の学問とともに今川氏真の和歌を挙げて戒めているように、[[江戸時代]]中期以降に書かれた文献の中では、[[和歌]]や[[蹴鞠]]といった「文弱」な娯楽に溺れ国を滅ぼしたように描かれていることが多い。このイメージは小説やドラマにおいて今日もしばしば踏襲されている。<br />
*ただし、戦国時代の和歌や蹴鞠には、[[公家]]との交流によって政治的影響力を強める目的や、[[神道]]と関わる行事を行うことによる権力誇示の要素もある。和歌や蹴鞠に通じていたことだけをもって「文弱」の根拠とするのは適切とは言えない。<br />
*江戸時代初期に成立した『[[甲陽軍鑑]]』では、剛勇だがわがままな人物として描かれている。三浦義政のような「奸臣」を重用したことが批判されているが、和歌や蹴鞠について言及はされていない。<br />
<br />
==参考文献==<br />
<br />
*観泉寺史編纂刊行委員会編『今川氏と観泉寺』(吉川弘文館、1974年)<br />
<br />
== 今川氏真を題材にした作品 ==<br />
<br />
'''小説'''<br />
*天下を汝に―戦国外交の雄・今川氏真([[赤木駿介]]、新潮社)<br />
<br />
<br />
{{先代次代|[[今川氏|駿河今川氏歴代当主]]|1560~1569|[[今川義元]]|[[今川直房]]}}<br />
<br />
<br />
[[Category:今川氏|うしさね]]<br />
[[Category:戦国武将|いまかわうしさね]]<br />
[[Category:戦国大名|いまかわうしさね]]<br />
[[Category:掛川市|いまかわうしさね]]<br />
[[Category:1538年生|いまかわうしさね]]<br />
[[Category:1615年没|いまかわうしさね]]<br />
<br />
[[en:Imagawa Ujizane]]<br />
[[eo:Imagawa Ujizane]]<br />
[[fr:Ujizane Imagawa]]<br />
[[zh:今川氏真]]</div>
桂鷺淵
https://de.wikipedia.org/w/index.php?title=Imagawa_Ujizane&diff=135799302
Imagawa Ujizane
2007-09-24T15:57:05Z
<p>桂鷺淵: 「今川流剣術の開祖」の出典求む</p>
<hr />
<div>{{武士/開始|今川氏真}}<br />
{{武士/時代|[[戦国時代 (日本)|戦国時代]]から[[江戸時代]]前期}}<br />
{{武士/生誕|[[天文 (元号)|天文]]7年([[1538年]])}}<br />
{{武士/死没|[[慶長]]19年[[12月28日 (旧暦)|12月28日]]([[1615年]][[1月27日]])}}<br />
{{武士/改名|五郎(幼名)。宗誾、仙巖斎(法名)}}<br />
{{武士/別名|彦五郎(通称)}}<br />
{{武士/戒名|傳岩院殿量山泰栄大居士}}<br />
{{武士/墓所|[[萬昌院]]、[[観泉寺]]}}<br />
{{武士/官位|従四位下、[[上総]]介。刑部大輔}}<br />
{{武士/幕府|[[室町幕府]][[駿河]][[守護]]職・[[遠江]]守護職}}<br />
{{武士/氏族|[[清和源氏]][[足利氏]]流、[[今川氏]]}}<br />
{{武士/父母|父:[[今川義元]]、母:[[武田信虎]]の娘・[[定恵院]]}}<br />
{{武士/兄弟|'''今川氏真'''、[[嶺松院]]、[[隆福院]]、[[一月長得]]}}<br />
{{武士/妻|正室:[[北条氏康]]の娘・早川殿}}<br />
{{武士/子|'''[[今川範以]]'''、[[品川高久]]、[[吉良義定]]妻}}<br />
{{武士/終了}}<br />
<br />
'''今川 氏真'''('''いまがわ うじざね''')は、駿河の[[戦国大名]]。[[駿河国|駿河]][[今川氏]]10代当主で、大名としての今川家の最後の当主である。<br />
<br />
父・義元が[[桶狭間の戦い]]で[[織田信長]]によって討たれたため家督を継いだが、[[武田信玄]]と[[徳川家康]]の侵攻を受けて敗れ、大名としての今川家は滅亡した。<br />
<br />
その後、各地を流浪し、最終的には徳川家康の庇護を受けた。今川家は[[江戸幕府]]のもとで[[高家]]として生き延びた。<br />
<br />
== 生涯 ==<br />
=== 家督相続 ===<br />
天文7年([[1538年]])、[[今川義元]]と[[定恵院]]([[武田信虎]]の娘)との間に嫡子として生まれる。[[天文 (元号)|天文]]23年([[1554年]])に[[北条氏康]]の長女・蔵春院早川殿と結婚し、[[甲相駿三国同盟]]の成立に寄与した。<br />
<br />
[[永禄]]元年([[1558年]])より駿河・遠江に文書を発給している。義元が[[隠居]]したため、[[家督]]を譲られて当主になったという説があるが、その後も義元は政治・軍事の主導権を掌握していたため、恐らくは形式的な家督相続であったものと思われる。永禄3年([[1560年]])に上総介に任官された。同年、[[尾張]]に侵攻した義元が[[桶狭間の戦い]]で[[織田信長]]に討たれたため、実質的にも家督を相続して今川家の第10代当主となった。<br />
<br />
=== 相次ぐ離反 ===<br />
[[桶狭間の戦い]]では今川氏の重臣や[[国人]]が多く討死した。このため[[三河国|三河]]・[[遠江国|遠江]]では国人・家臣団が動揺し、今川氏からの離反の動きが広がった。<br />
<br />
永禄5年([[1562年]])、[[西三河]]の[[松平元康]](翌年、徳川家康に改名)は織田信長と[[清洲同盟]]を結び、今川氏の傘下から独立する姿勢を明らかにした。氏真は、家康が[[三河一向一揆]]で多くの家臣団に離反されたことに乗じて[[牛久保城|牛久保]]に出兵したが撃退されている。永禄8年([[1565年]])には[[東三河]]の拠点である[[吉田城_(三河国)|吉田城]]が失陥し、今川氏の勢力は三河から駆逐される。<br />
<br />
遠江においても家臣団・国人の混乱と離反が広がった(遠州錯乱)。永禄5年([[1562年]])には謀反が疑われた[[井伊直親]]を重臣の[[朝比奈泰朝]]に誅殺させている。ついで[[浜松城|曳馬城]]主・[[飯尾連竜]]が家康と内通して反旗を翻した。氏真は、重臣[[三浦正俊]]らに命じて曳馬城を攻撃させるが陥落させることができず、和議に応じて降った飯尾連竜を永禄8年([[1565年]])12月に謀殺した。しかしこれらの措置も事態を収拾することはできず、かえって国人たちを徳川方に走らせることになった。<br />
<br />
氏真は祖母[[寿桂尼]]の後見を受けて領国の安定を図り、永禄9年([[1566年]])4月に[[富士宮市|富士大宮]]を[[楽市・楽座|楽市]]とし、[[徳政令|徳政]]の実施や役の免除などの産業振興政策を行ったが、衰退をとどめることはできなかった。ついに遊興に耽るようになり、家臣の[[三浦義政]](三浦正俊の一族)を寵愛して政務を任せっきりにしたため、駿河内部でも家臣の離反を招くことになった。<br />
<br />
=== 滅亡 ===<br />
今川氏の衰退を見た[[甲斐国|甲斐]]の[[武田信玄]]は[[駿河国|駿河]]への南進を画策する。信玄の嫡男で氏真の妹・[[嶺松院]]の夫である[[武田義信]]はこれに反対したが、信玄は[[永禄]]8年([[1565年]])に義信を反逆の罪で幽閉して廃嫡し、婚姻同盟を破棄した。これにより今川氏は外交的にも不利な立場に陥った。氏真は[[越後国|越後]]の[[上杉謙信]]と盟約を交わして対抗し、[[相模国|相模]]の[[北条氏康]]とともに[[甲斐国|甲斐]]への[[塩留]]を行ったが、信玄は徳川家康や織田信長と同盟を結んで対抗したため、これは決定的なものにはならなかった。<br />
<br />
永禄11年([[1568年]])12月、信玄は駿河への侵攻を開始した。氏真は武田軍を[[薩埵峠]]で迎撃すべく[[興津]]の[[清見寺]]に出陣したが、[[瀬名信輝]]や[[葛山氏元]]、[[朝比奈政貞]]、[[三浦義鏡]]など駿河の有力国人21人が信玄に通じたため、12月13日に今川軍は潰走し[[駿府]]もたちまち占領された。氏真は朝比奈泰朝の居城[[遠江国|遠江]][[掛川城]]へ逃れたが、遠江にも今川領分割を信玄と約していた徳川家康が侵攻し、その大半が制圧される。12月27日には徳川軍によって掛川城が包囲されたが、泰朝をはじめとした家臣たちの奮闘で半年近くの籠城戦となった。<br />
<br />
早川殿の父・[[北条氏康]]は救援軍を差し向け[[薩埵峠]]に布陣するが、武田軍を撃破することはできなかった。徳川軍による掛川包囲戦が長期化する中で、信玄は約定を破って遠江への圧迫を強め、家康は氏真との和睦を模索する。永禄12年([[1569年]])5月17日、氏真は家臣たちの助命と引き換えに掛川城を開城した。この時に今川氏真・徳川家康・北条氏康の間で、武田信玄の勢力を駿河から追い払った後は、氏真を再び駿河の国主とするという盟約が成立する。しかし、この盟約は結果的に履行されることはなく、氏真およびその子孫が領主の座に戻らなかったことから、一般的には、この掛川城の開城をもって戦国大名としての今川氏の滅亡(統治権の喪失)と解釈されている。<br />
<br />
=== その後 ===<br />
[[掛川城]]の開城後、氏真は妻の実家である[[後北条氏|北条氏]]を頼り、[[伊豆]][[戸倉城_(伊豆国)|戸倉城]]に入った(のち[[小田原]]に移る)。永禄12年([[1569年]])5月23日、氏真は[[北条氏政]]の嫡男・国王丸(後の[[北条氏直|氏直]])を猶子とし、国王丸の成長後に駿河を譲ることを約した(この時点で氏真の嫡男・[[今川範以|範以]]はまだ生まれていない)。また、[[武田氏]]への共闘を目的に[[上杉謙信]]のもとに使者を送り、今川・北条・上杉三国同盟を結ぶ(実態は[[越相同盟]])。駿河では、[[岡部正綱]]が一時駿府城を奪回し、花沢城の[[大原資良]]が武田氏への抗戦を継続するなど、今川勢力の活動はなお残っており、今川家支援を掲げた北条氏による出兵も行われた。しかし、蒲原城の戦いなどで北条軍は敗れ、今川遺臣も攻撃や調略により順次武田氏の軍門に降り、氏真は駿河の支配を回復することはできなかった。<br />
<br />
[[元亀]]2年([[1571年]])10月に北条氏康が死ぬと、その後を継いだ[[北条氏政|氏政]]は方針を転換し[[武田氏]]と和睦した。これにより氏真は[[相模国|相模]]を離れ、徳川家康の庇護下に入った。掛川城開城の際の講和条件を頼りにしたと見られるが、家康にとっても旧国主の保護は駿河侵攻の大義名分を得るものであった。天正3年([[1575年]])3月16日、徳川家康の同盟者にして父の仇でもある織田信長と[[京都]]の[[相国寺]]で会見、同20日、信長の面前で公家たちとともに蹴鞠を披露したことが『[[信長公記]]』に記されている。また、この年の[[長篠の戦い]]にも従軍した。一時は徳川家康が[[武田勝頼]]と争う拠点の1つ、[[遠江国|遠江]][[諏訪原城|牧野城]](元は諏訪原城、[[静岡県]][[島田市]])を任せられたともいう。しかし結局駿河復帰を諦め(城主を解任されたとも言われる)、京に定住した。のち、剃髪して'''宗誾'''(そうぎん)と号する。<br />
<br />
その後は[[徳川家康|家康]]の援助を受けながら旧知・姻戚の[[公家]]などの文化人と往来し、[[連歌]]の会などに参加していたことが、親交のあった[[山科言経]]の日記『言経卿記』から伺える。<br />
<br />
=== 晩年 ===<br />
[[慶長]]5年([[1600年]])、[[関ヶ原の戦い]]の後、嫡孫・[[今川直房|範英]]と、二男・[[品川高久]](家康より「今川の姓は宗家に限る」との沙汰上があり、今川宗家以外は「品川」を名乗った)と共に[[徳川秀忠]]に出仕して[[江戸幕府]]の[[旗本]]に列したため、[[江戸]]に移住した(嫡男の[[今川範以]]は若くして病死していた)。<br />
<br />
[[慶長]]19年([[1614年]])、江戸[[品川]]の品川高久の屋敷で死去。享年77。<br />
<br />
葬儀は氏真の弟の[[一月長得]]が[[萬昌院]]で行い、萬昌院に葬られたが、後に妻・蔵春院早河殿の墓とともに、[[東京都]][[杉並区]][[今川_(杉並区)|今川]]の宝珠山[[観泉寺]]に移された。<br />
<br />
== 人物 ==<br />
*正室である北条氏康の長女・蔵春院早川殿は、氏真が没落した後も行動をともにし、慶長18年([[1613年]])に没するまで生涯連れ添った。<br />
<br />
*和歌・連歌・蹴鞠などの技芸に通じており、文化人としての氏真の評価は高い。<br />
<br />
;[[和歌]]<br />
:権大納言[[冷泉為和]]らより学んだと言われ、現在も1000首を超える歌がのこる。また[[後水尾天皇]]選の[[集外三十六歌仙]]にも名を連ねている。観泉寺史編纂刊行委員会編『今川氏と観泉寺』には氏真の全作品が収録されている。<br />
;[[蹴鞠]]<br />
:[[飛鳥井家|飛鳥井流宗家]]の[[飛鳥井雅綱]]より手ほどきを受けたとされる。<br />
;[[剣術]]<br />
:[[塚原卜伝]]に[[鹿島新当流|新当流]]を学んだという。[[今川流剣術]]では氏真が開祖と伝えている{{要出典}}。<br />
<br />
*領国の混乱を収拾できず、大名としての今川家を終焉させたことから、戦国大名としての氏真の力量は否定的に評価されることが多い。<br />
*[[松平定信]]が随筆『閑なるあまり』で、[[足利義政]]の茶の湯、[[大内義隆]]の学問とともに今川氏真の和歌を挙げて戒めているように、[[江戸時代]]中期以降に書かれた文献の中では、[[和歌]]や[[蹴鞠]]といった「文弱」な娯楽に溺れ国を滅ぼしたように描かれていることが多い。このイメージは小説やドラマにおいて今日もしばしば踏襲されている。<br />
*ただし、戦国時代の和歌や蹴鞠には、[[公家]]との交流によって政治的影響力を強める目的や、[[神道]]と関わる行事を行うことによる権力誇示の要素もある。和歌や蹴鞠に通じていたことだけをもって「文弱」の根拠とするのは適切とは言えない。<br />
*江戸時代初期に成立した『[[甲陽軍鑑]]』では、剛勇だがわがままな人物として描かれている。三浦義政のような「奸臣」を重用したことが批判されているが、和歌や蹴鞠について言及はされていない。<br />
<br />
==参考文献==<br />
<br />
*観泉寺史編纂刊行委員会編『今川氏と観泉寺』(吉川弘文館、1974年)<br />
<br />
== 今川氏真を題材にした作品 ==<br />
<br />
'''小説'''<br />
*天下を汝に―戦国外交の雄・今川氏真([[赤木駿介]]、新潮社)<br />
<br />
<br />
{{先代次代|[[今川氏|駿河今川氏歴代当主]]|1560~1569|[[今川義元]]|[[今川直房]]}}<br />
<br />
<br />
[[Category:今川氏|うしさね]]<br />
[[Category:戦国武将|いまかわうしさね]]<br />
[[Category:戦国大名|いまかわうしさね]]<br />
[[Category:掛川市|いまかわうしさね]]<br />
[[Category:1538年生|いまかわうしさね]]<br />
[[Category:1615年没|いまかわうしさね]]<br />
<br />
[[en:Imagawa Ujizane]]<br />
[[eo:Imagawa Ujizane]]<br />
[[fr:Ujizane Imagawa]]<br />
[[zh:今川氏真]]</div>
桂鷺淵
https://de.wikipedia.org/w/index.php?title=Imagawa_Ujizane&diff=135799297
Imagawa Ujizane
2007-09-09T07:05:37Z
<p>桂鷺淵: </p>
<hr />
<div>{{武士/開始|今川氏真}}<br />
{{武士/時代|[[戦国時代 (日本)|戦国時代]]から[[江戸時代]]前期}}<br />
{{武士/生誕|[[天文 (元号)|天文]]7年([[1538年]])}}<br />
{{武士/死没|[[慶長]]19年[[12月28日 (旧暦)|12月28日]]([[1615年]][[1月27日]])}}<br />
{{武士/改名|五郎(幼名)。宗誾、仙巖斎(法名)}}<br />
{{武士/別名|彦五郎(通称)}}<br />
{{武士/戒名|傳岩院殿量山泰栄大居士}}<br />
{{武士/墓所|[[萬昌院]]、[[観泉寺]]}}<br />
{{武士/官位|従四位下、[[上総]]介。刑部大輔}}<br />
{{武士/幕府|[[室町幕府]][[駿河]][[守護]]職・[[遠江]]守護職}}<br />
{{武士/氏族|[[清和源氏]][[足利氏]]流、[[今川氏]]}}<br />
{{武士/父母|父:[[今川義元]]、母:[[武田信虎]]の娘・[[定恵院]]}}<br />
{{武士/兄弟|'''今川氏真'''、[[嶺松院]]、[[隆福院]]、[[一月長得]]}}<br />
{{武士/妻|正室:[[北条氏康]]の娘・早川殿}}<br />
{{武士/子|'''[[今川範以]]'''、[[品川高久]]、[[吉良義定]]妻}}<br />
{{武士/終了}}<br />
<br />
'''今川 氏真'''('''いまがわ うじざね''')は、駿河の[[戦国大名]]。[[駿河国|駿河]][[今川氏]]10代当主で、大名としての今川家の最後の当主である。<br />
<br />
父・義元が[[桶狭間の戦い]]で[[織田信長]]によって討たれたため家督を継いだが、[[武田信玄]]と[[徳川家康]]の侵攻を受けて敗れ、大名としての今川家は滅亡した。<br />
<br />
その後、各地を流浪し、最終的には徳川家康の庇護を受けた。今川家は[[江戸幕府]]のもとで[[高家]]として生き延びた。<br />
<br />
== 生涯 ==<br />
=== 家督相続 ===<br />
天文7年([[1538年]])、[[今川義元]]と[[定恵院]]([[武田信虎]]の娘)との間に嫡子として生まれる。[[天文 (元号)|天文]]23年([[1554年]])に[[北条氏康]]の長女・蔵春院早川殿と結婚し、[[甲相駿三国同盟]]の成立に寄与した。<br />
<br />
[[永禄]]元年([[1558年]])より駿河・遠江に文書を発給している。義元が[[隠居]]したため、[[家督]]を譲られて当主になったという説があるが、その後も義元は政治・軍事の主導権を掌握していたため、恐らくは形式的な家督相続であったものと思われる。永禄3年([[1560年]])に上総介に任官された。同年、[[尾張]]に侵攻した義元が[[桶狭間の戦い]]で[[織田信長]]に討たれたため、実質的にも家督を相続して今川家の第10代当主となった。<br />
<br />
=== 相次ぐ離反 ===<br />
[[桶狭間の戦い]]では今川氏の重臣や[[国人]]が多く討死した。このため[[三河国|三河]]・[[遠江国|遠江]]では国人・家臣団が動揺し、今川氏からの離反の動きが広がった。<br />
<br />
永禄5年([[1562年]])、[[西三河]]の[[松平元康]](翌年、徳川家康に改名)は織田信長と[[清洲同盟]]を結び、今川氏の傘下から独立する姿勢を明らかにした。氏真は、家康が[[三河一向一揆]]で多くの家臣団に離反されたことに乗じて[[牛久保城|牛久保]]に出兵したが撃退されている。永禄8年([[1565年]])には[[東三河]]の拠点である[[吉田城_(三河国)|吉田城]]が失陥し、今川氏の勢力は三河から駆逐される。<br />
<br />
遠江においても家臣団・国人の混乱と離反が広がった(遠州錯乱)。永禄5年([[1562年]])には謀反が疑われた[[井伊直親]]を重臣の[[朝比奈泰朝]]に誅殺させている。ついで[[浜松城|曳馬城]]主・[[飯尾連竜]]が家康と内通して反旗を翻した。氏真は、重臣[[三浦正俊]]らに命じて曳馬城を攻撃させるが陥落させることができず、和議に応じて降った飯尾連竜を永禄8年([[1565年]])12月に謀殺した。しかしこれらの措置も事態を収拾することはできず、かえって国人たちを徳川方に走らせることになった。<br />
<br />
氏真は祖母[[寿桂尼]]の後見を受けて領国の安定を図り、永禄9年([[1566年]])4月に[[富士宮市|富士大宮]]を[[楽市・楽座|楽市]]とし、[[徳政令|徳政]]の実施や役の免除などの産業振興政策を行ったが、衰退をとどめることはできなかった。ついに遊興に耽るようになり、家臣の[[三浦義政]](三浦正俊の一族)を寵愛して政務を任せっきりにしたため、駿河内部でも家臣の離反を招くことになった。<br />
<br />
=== 滅亡 ===<br />
今川氏の衰退を見た[[甲斐国|甲斐]]の[[武田信玄]]は[[駿河国|駿河]]への南進を画策する。信玄の嫡男で氏真の妹・[[嶺松院]]の夫である[[武田義信]]はこれに反対したが、信玄は[[永禄]]8年([[1565年]])に義信を反逆の罪で幽閉して廃嫡し、婚姻同盟を破棄した。これにより今川氏は外交的にも不利な立場に陥った。氏真は[[越後国|越後]]の[[上杉謙信]]と盟約を交わして対抗し、[[相模国|相模]]の[[北条氏康]]とともに[[甲斐国|甲斐]]への[[塩留]]を行ったが、信玄は徳川家康や織田信長と同盟を結んで対抗したため、これは決定的なものにはならなかった。<br />
<br />
永禄11年([[1568年]])12月、信玄は駿河への侵攻を開始した。氏真は武田軍を[[薩埵峠]]で迎撃すべく[[興津]]の[[清見寺]]に出陣したが、[[瀬名信輝]]や[[葛山氏元]]、[[朝比奈政貞]]、[[三浦義鏡]]など駿河の有力国人21人が信玄に通じたため、12月13日に今川軍は潰走し[[駿府]]もたちまち占領された。氏真は朝比奈泰朝の居城[[遠江国|遠江]][[掛川城]]へ逃れたが、遠江にも今川領分割を信玄と約していた徳川家康が侵攻し、その大半が制圧される。12月27日には徳川軍によって掛川城が包囲されたが、泰朝をはじめとした家臣たちの奮闘で半年近くの籠城戦となった。<br />
<br />
早川殿の父・[[北条氏康]]は救援軍を差し向け[[薩埵峠]]に布陣するが、武田軍を撃破することはできなかった。徳川軍による掛川包囲戦が長期化する中で、信玄は約定を破って遠江への圧迫を強め、家康は氏真との和睦を模索する。永禄12年([[1569年]])5月17日、氏真は家臣たちの助命と引き換えに掛川城を開城した。この時に今川氏真・徳川家康・北条氏康の間で、武田信玄の勢力を駿河から追い払った後は、氏真を再び駿河の国主とするという盟約が成立する。しかし、この盟約は結果的に履行されることはなく、氏真およびその子孫が領主の座に戻らなかったことから、一般的には、この掛川城の開城をもって戦国大名としての今川氏の滅亡(統治権の喪失)と解釈されている。<br />
<br />
=== その後 ===<br />
[[掛川城]]の開城後、氏真は妻の実家である[[後北条氏|北条氏]]を頼り、[[伊豆]][[戸倉城_(伊豆国)|戸倉城]]に入った(のち[[小田原]]に移る)。永禄12年([[1569年]])5月23日、氏真は[[北条氏政]]の嫡男・国王丸(後の[[北条氏直|氏直]])を猶子とし、国王丸の成長後に駿河を譲ることを約した(この時点で氏真の嫡男・[[今川範以|範以]]はまだ生まれていない)。また、[[武田氏]]への共闘を目的に[[上杉謙信]]のもとに使者を送り、今川・北条・上杉三国同盟を結ぶ(実態は[[越相同盟]])。駿河では、[[岡部正綱]]が一時駿府城を奪回し、花沢城の[[大原資良]]が武田氏への抗戦を継続するなど、今川勢力の活動はなお残っており、今川家支援を掲げた北条氏による出兵も行われた。しかし、蒲原城の戦いなどで北条軍は敗れ、今川遺臣も攻撃や調略により順次武田氏の軍門に降り、氏真は駿河の支配を回復することはできなかった。<br />
<br />
[[元亀]]2年([[1571年]])10月に北条氏康が死ぬと、その後を継いだ[[北条氏政|氏政]]は方針を転換し[[武田氏]]と和睦した。これにより氏真は[[相模国|相模]]を離れ、徳川家康の庇護下に入った。掛川城開城の際の講和条件を頼りにしたと見られるが、家康にとっても旧国主の保護は駿河侵攻の大義名分を得るものであった。天正3年([[1575年]])3月16日、徳川家康の同盟者にして父の仇でもある織田信長と[[京都]]の[[相国寺]]で会見、同20日、信長の面前で公家たちとともに蹴鞠を披露したことが『[[信長公記]]』に記されている。また、この年の[[長篠の戦い]]にも従軍した。一時は徳川家康が[[武田勝頼]]と争う拠点の1つ、[[遠江国|遠江]][[諏訪原城|牧野城]](元は諏訪原城、[[静岡県]][[島田市]])を任せられたともいう。しかし結局駿河復帰を諦め(城主を解任されたとも言われる)、京に定住した。のち、剃髪して'''宗誾'''(そうぎん)と号する。<br />
<br />
その後は[[徳川家康|家康]]の援助を受けながら旧知・姻戚の[[公家]]などの文化人と往来し、[[連歌]]の会などに参加していたことが、親交のあった[[山科言経]]の日記『言経卿記』から伺える。<br />
<br />
=== 晩年 ===<br />
[[慶長]]5年([[1600年]])、[[関ヶ原の戦い]]の後、嫡孫・[[今川直房|範英]]と、二男・[[品川高久]](家康より「今川の姓は宗家に限る」との沙汰上があり、今川宗家以外は「品川」を名乗った)と共に[[徳川秀忠]]に出仕して[[江戸幕府]]の[[旗本]]に列したため、[[江戸]]に移住した(嫡男の[[今川範以]]は若くして病死していた)。<br />
<br />
[[慶長]]19年([[1614年]])、江戸[[品川]]の品川高久の屋敷で死去。享年77。<br />
<br />
葬儀は氏真の弟の[[一月長得]]が[[萬昌院]]で行い、萬昌院に葬られたが、後に妻・蔵春院早河殿の墓とともに、[[東京都]][[杉並区]][[今川_(杉並区)|今川]]の宝珠山[[観泉寺]]に移された。<br />
<br />
== 人物 ==<br />
*正室である北条氏康の長女・蔵春院早川殿は、氏真が没落した後も行動をともにし、慶長18年([[1613年]])に没するまで生涯連れ添った。<br />
<br />
*和歌・連歌・蹴鞠などの技芸に通じており、文化人としての氏真の評価は高い。<br />
<br />
;[[和歌]]<br />
:権大納言[[冷泉為和]]らより学んだと言われ、現在も1000首を超える歌がのこる。また[[後水尾天皇]]選の[[集外三十六歌仙]]にも名を連ねている。観泉寺史編纂刊行委員会編『今川氏と観泉寺』には氏真の全作品が収録されている。<br />
;[[蹴鞠]]<br />
:[[飛鳥井家|飛鳥井流宗家]]の[[飛鳥井雅綱]]より手ほどきを受けたとされる。<br />
;[[剣術]]<br />
:[[塚原卜伝]]に[[鹿島新当流|新当流]]を学んだという。[[今川流剣術]]では氏真が開祖と伝えている。<br />
<br />
*領国の混乱を収拾できず、大名としての今川家を終焉させたことから、戦国大名としての氏真の力量は否定的に評価されることが多い。<br />
*[[松平定信]]が随筆『閑なるあまり』で、[[足利義政]]の茶の湯、[[大内義隆]]の学問とともに今川氏真の和歌を挙げて戒めているように、[[江戸時代]]中期以降に書かれた文献の中では、[[和歌]]や[[蹴鞠]]といった「文弱」な娯楽に溺れ国を滅ぼしたように描かれていることが多い。このイメージは小説やドラマにおいて今日もしばしば踏襲されている。<br />
*ただし、戦国時代の和歌や蹴鞠には、[[公家]]との交流によって政治的影響力を強める目的や、[[神道]]と関わる行事を行うことによる権力誇示の要素もある。和歌や蹴鞠に通じていたことだけをもって「文弱」の根拠とするのは適切とは言えない。<br />
*江戸時代初期に成立した『[[甲陽軍鑑]]』では、剛勇だがわがままな人物として描かれている。三浦義政のような「奸臣」を重用したことが批判されているが、和歌や蹴鞠について言及はされていない。<br />
<br />
==参考文献==<br />
<br />
*観泉寺史編纂刊行委員会編『今川氏と観泉寺』(吉川弘文館、1974年)<br />
<br />
== 今川氏真を題材にした作品 ==<br />
<br />
'''小説'''<br />
*天下を汝に―戦国外交の雄・今川氏真([[赤木駿介]]、新潮社)<br />
<br />
<br />
{{先代次代|[[今川氏|駿河今川氏歴代当主]]|1560~1569|[[今川義元]]|[[今川直房]]}}<br />
<br />
<br />
[[Category:今川氏|うしさね]]<br />
[[Category:戦国武将|いまかわうしさね]]<br />
[[Category:戦国大名|いまかわうしさね]]<br />
[[Category:掛川市|いまかわうしさね]]<br />
[[Category:1538年生|いまかわうしさね]]<br />
[[Category:1615年没|いまかわうしさね]]<br />
<br />
[[en:Imagawa Ujizane]]<br />
[[fr:Ujizane Imagawa]]<br />
[[zh:今川氏真]]</div>
桂鷺淵
https://de.wikipedia.org/w/index.php?title=Imagawa_Ujizane&diff=135799296
Imagawa Ujizane
2007-09-09T00:46:28Z
<p>桂鷺淵: 取り消しの取り消し</p>
<hr />
<div>{{武士/開始|今川氏真}}<br />
{{武士/時代|[[戦国時代 (日本)|戦国時代]]から[[江戸時代]]前期}}<br />
{{武士/生誕|[[天文 (元号)|天文]]7年([[1538年]])}}<br />
{{武士/死没|[[慶長]]19年[[12月28日 (旧暦)|12月28日]]([[1615年]][[1月27日]])}}<br />
{{武士/改名|五郎(幼名)。宗誾、仙巖斎(法名)}}<br />
{{武士/別名|彦五郎(通称)}}<br />
{{武士/戒名|傳岩院殿量山泰栄大居士}}<br />
{{武士/墓所|[[萬昌院]]、[[観泉寺]]}}<br />
{{武士/官位|従四位下、[[上総]]介。刑部大輔}}<br />
{{武士/幕府|[[室町幕府]][[駿河]][[守護]]職・[[遠江]]守護職}}<br />
{{武士/氏族|[[清和源氏]][[足利氏]]流、[[今川氏]]}}<br />
{{武士/父母|父:[[今川義元]]、母:[[武田信虎]]の娘・[[定恵院]]}}<br />
{{武士/兄弟|'''今川氏真'''、[[嶺松院]]、[[隆福院]]、[[一月長得]]}}<br />
{{武士/妻|正室:[[北条氏康]]の娘・早川殿}}<br />
{{武士/子|'''[[今川範以]]'''、[[品川高久]]、[[吉良義定]]妻}}<br />
{{武士/終了}}<br />
<br />
'''今川 氏真'''('''いまがわ うじざね''')は、駿河の[[戦国大名]]。[[駿河国|駿河]][[今川氏]]10代当主で、大名としての今川家の最後の当主である。<br />
<br />
父・義元が[[桶狭間の戦い]]で[[織田信長]]によって討たれたため家督を継いだが、[[武田信玄]]と[[徳川家康]]の侵攻を受けて敗れ、大名としての今川家は滅亡した。<br />
<br />
その後、各地を流浪し、最終的には徳川家康の庇護を受けた。今川家は[[江戸幕府]]のもとで[[高家]]として生き延びた。<br />
<br />
== 生涯 ==<br />
=== 家督相続 ===<br />
天文7年([[1538年]])、[[今川義元]]と[[定恵院]]([[武田信虎]]の娘)との間に嫡子として生まれる。[[天文 (元号)|天文]]23年([[1554年]])に[[北条氏康]]の長女・蔵春院早川殿と結婚し、[[甲相駿三国同盟]]の成立に寄与した。<br />
<br />
[[永禄]]元年([[1558年]])、義元が[[隠居]]したため、[[家督]]を譲られて当主になったという説があるが、その後も義元は政治・軍事の主導権を掌握していたため、恐らくは形式的な家督相続であったものと思われる。永禄3年([[1560年]])に上総介に任官された。同年、[[尾張]]に侵攻した義元が[[桶狭間の戦い]]で[[織田信長]]に討たれたため、実質的にも家督を相続して今川家の第10代当主となった。<br />
<br />
=== 相次ぐ離反 ===<br />
[[桶狭間の戦い]]では今川氏の重臣や[[国人]]が多く討死した。このため[[三河国|三河]]・[[遠江国|遠江]]では国人・家臣団が動揺し、今川氏からの離反の動きが広がった。<br />
<br />
永禄5年([[1562年]])、[[西三河]]の[[松平元康]](翌年、徳川家康に改名)は織田信長と[[清洲同盟]]を結び、今川氏の傘下から独立する姿勢を明らかにした。氏真は、家康が[[三河一向一揆]]で多くの家臣団に離反されたことに乗じて[[牛久保城|牛久保]]に出兵したが撃退されている。永禄8年([[1565年]])には[[東三河]]の拠点である[[吉田城_(三河国)|吉田城]]が失陥し、今川氏の勢力は三河から駆逐される。<br />
<br />
遠江においても家臣団・国人の混乱と離反が広がった(遠州錯乱)。永禄5年([[1562年]])には謀反が疑われた[[井伊直親]]を重臣の[[朝比奈泰朝]]に誅殺させている。ついで[[浜松城|曳馬城]]主・[[飯尾連竜]]が家康と内通して反旗を翻した。氏真は、重臣(傅役)[[三浦正俊]]らに命じて曳馬城を攻撃させるが陥落させることができず、和議に応じて降った飯尾連竜を永禄8年([[1565年]])12月に謀殺した。しかしこれらの措置も事態を収拾することはできず、かえって国人たちを徳川方に走らせることになった。<br />
<br />
氏真は祖母[[寿桂尼]]の後見を受けて領国の安定を図り、永禄9年([[1566年]])4月に[[富士宮市|富士大宮]]を[[楽市・楽座|楽市]]とし、[[徳政令|徳政]]の実施や役の免除などの産業振興政策を行ったが、衰退をとどめることはできなかった。ついに遊興に耽るようになり、家臣の[[三浦義政]](三浦正俊の一族)を寵愛して政務を任せっきりにしたため、駿河内部でも家臣の離反を招くことになった。<br />
<br />
今川氏の衰退を見た[[甲斐国|甲斐]]の[[武田信玄]]は[[駿河国|駿河]]への南進を画策する。信玄の嫡男で氏真の妹・[[嶺松院]]の夫である[[武田義信]]はこれに反対したが、信玄は[[永禄]]8年([[1565年]])に義信を反逆の罪で幽閉して廃嫡し、婚姻同盟を破棄した。これにより今川氏は外交的にも不利な立場に陥った。<br />
<br />
=== 滅亡 ===<br />
武田信玄の裏切り行為に対し、氏真は[[越後国|越後]]の[[上杉謙信]]と盟約を交わし、[[相模国|相模]]の[[北条氏康]]とともに[[甲斐国|甲斐]]への[[塩留]]を行うことで報復したが、信玄は織田信長や徳川家康と同盟を結んで対抗したため、これは決定的なものにはならなかった。<br />
<br />
永禄11年([[1568年]])12月、武田信玄は徳川家康と今川領分割を条件にして同盟を結び、駿河への侵攻を開始した。これに対して氏真は迎撃しようとしたが、[[瀬名信輝]]や[[葛山氏元]]、[[朝比奈政貞]]、[[三浦義鏡]]など駿河の有力国人の21人も信玄に通じて裏切ったため、[[駿府]]は短期間で占領され、氏真は朝比奈泰朝の居城[[遠江国|遠江]][[掛川城]]へ逃れた。しかし、遠江においても徳川家康の侵攻によって大半が制圧され、12月27日には徳川軍によって掛川城が包囲され、氏真は窮地に立たされた。泰朝をはじめとした家臣の奮闘で半年近くの籠城戦となったが、ついに永禄12年([[1569年]])、氏真は家臣達の助命と引き換えに和睦開城した。この時に今川氏真・徳川家康・北条氏康の間で、武田信玄の勢力を駿河から追い払った後は、氏真を再び駿河の国主とするという盟約が成立する。しかし、この盟約は結果的に履行されることはなく、氏真およびその子孫が領主の座に戻らなかったことから、一般的には、この掛川城の開城をもって戦国大名としての今川氏の滅亡(統治権の喪失)と解釈されている。<br />
<br />
=== その後 ===<br />
氏真は[[掛川城]]の開城後は妻の実家[[後北条氏|北条氏]]を頼って[[相模国|相模]]に逃れた。永禄12年(1569年)5月23日に[[後北条氏|北条氏]]との同盟強化のため、[[北条氏政]]の嫡男・国王丸(後の[[北条氏直|氏直]])を猶子とする。また、[[上杉謙信]]のもとに使者を送り、今川・北条・上杉三国同盟を結ぶ。この盟約は[[武田氏]]への共闘を目的とするものであった。<br />
<br />
しかし、[[元亀]]2年([[1571年]])に北条氏康が死ぬと、その後を継いだ[[北条氏政|氏政]]は方針を転換し[[武田氏]]と和睦した。これにより氏真は[[相模国|相模]]を離れ、武田信玄と対立し始めたため駿河侵攻の大義名分を得たい徳川家康の庇護下に入った。これは掛川城開城の際の講和条件を頼りにしたとも見られる。そして、徳川家康の同盟者にして父の仇でもある織田信長とも[[京都]]の[[相国寺]]で会見し、[[天正]]3年([[1575年]])の[[長篠の戦い]]にも従軍している。<br />
<br />
一時は徳川家康が[[武田勝頼]]と争う拠点の1つ、[[遠江国|遠江]][[諏訪原城|牧野城]](元は諏訪原城、[[静岡県]][[島田市]])を任せられたともいうが、結局、駿河復帰を諦め(解任されたとも言われる)て京に定住した。のち、剃髪して'''宗誾'''(そうぎん)と号する。その後は[[徳川家康|家康]]の援助を受けながら旧知・姻戚の[[公家]]などの文化人と往来し、[[連歌]]の会などに参加していたことが、親交のあった[[山科言経]]の日記『言経卿記』から伺える。<br />
<br />
=== 晩年 ===<br />
[[慶長]]5年([[1600年]])、[[関ヶ原の戦い]]の後、嫡孫・[[今川直房|範英]]と、二男・[[品川高久]](家康より「今川の姓は宗家に限る」との沙汰上があり、今川宗家以外は「品川」を名乗った)と共に[[徳川秀忠]]に出仕して[[江戸幕府]]の[[旗本]]に列したため、[[江戸]]に移住した(嫡男の[[今川範以]]は若くして病死していた)。<br />
<br />
[[慶長]]19年([[1614年]])、江戸[[品川]]の品川高久の屋敷で死去。享年77。<br />
<br />
葬儀は氏真の弟の[[一月長得]]が[[萬昌院]]で行い、萬昌院に葬られたが、後に妻・蔵春院早河殿の墓とともに、[[東京都]][[杉並区]]今川町の宝珠山[[観泉寺]]に移された。<br />
<br />
== 人物 ==<br />
;[[和歌]]<br />
:権大納言[[冷泉為和]]らより学んだと言われ、現在も1000首を超える歌が遺る。また[[後水尾天皇]]選の[[集外三十六歌仙]]にも名を連ねている。[[北条五代記]]には、氏真が後北条家から去るときに残した歌が記されている。<br />
;[[蹴鞠]]<br />
:飛鳥井流宗家の[[飛鳥井雅綱]]より手ほどきを受けたとされる。<br />
;[[剣術]]<br />
:[[塚原卜伝]]に[[鹿島新当流|新当流]]を学んだという。また、[[今川流剣術]]では氏真が開祖と伝えている。<br />
<br />
*[[江戸時代]]中期以降に書かれた文献の中では、[[和歌]]や[[蹴鞠]]といった娯楽に溺れ国を滅ぼしたように描かれていることが多いが、実際には[[公家]]との交流によって政治的影響力を強める目的や、[[神道]]と関わる行事を行うことによる権力誇示の要素もあり、これだけをもって「文弱」の根拠とするのは適切とはいえない。また人物像についても描かれた作品によって、意志薄弱で頼りないもの、剛胆でさっぱりしたもの(江戸時代初期の『[[甲陽軍鑑]]』)、思慮深く情あふれるものなど様々で一致を見ない。<br />
*戦国大名としての氏真は、奸臣の三浦義政を重用して次第に政務から遠ざかったり、疑心暗鬼に陥って重臣に謀反の罪を着せて粛清するなどしたことから、非難されることが多い。しかし、和歌・連歌・蹴鞠に通じた戦国時代でも特に秀でた文化人であったことは事実で、文化人氏真としての評価は大変高いのは事実である。<br />
*正室である北条氏康の長女・蔵春院早川殿とはとても仲がよく、氏真が戦国大名の地位から没落した後も、二人は離縁することなく、生涯連れ添った。ちなみに早川殿は、氏真に先立つ1年前の慶長18年([[1613年]])に亡くなっている。翌年に後を追うように氏真も亡くなっている。<br />
<br />
{{先代次代|[[今川氏|駿河今川氏歴代当主]]|1560~1569|[[今川義元]]|[[今川直房]]}}<br />
<br />
==参考文献==<br />
<br />
*観泉寺史編纂刊行委員会編『今川氏と観泉寺』(吉川弘文館、1974年)<br />
<br />
== 関連項目 ==<br />
<br />
'''小説'''<br />
*天下を汝に―戦国外交の雄・今川氏真([[赤木駿介]]、新潮社)<br />
<br />
[[Category:今川氏|うしさね]]<br />
[[Category:戦国武将|いまかわうしさね]]<br />
[[Category:戦国大名|いまかわうしさね]]<br />
[[Category:掛川市|いまかわうしさね]]<br />
[[Category:1538年生|いまかわうしさね]]<br />
[[Category:1615年没|いまかわうしさね]]<br />
<br />
[[en:Imagawa Ujizane]]<br />
[[fr:Ujizane Imagawa]]<br />
[[zh:今川氏真]]</div>
桂鷺淵
https://de.wikipedia.org/w/index.php?title=Imagawa_Ujizane&diff=135799295
Imagawa Ujizane
2007-09-09T00:42:14Z
<p>桂鷺淵: Undo revision 14743823 by 桂鷺淵 (会話)</p>
<hr />
<div>{{武士/開始|今川氏真}}<br />
{{武士/時代|[[戦国時代 (日本)|戦国時代]]から[[江戸時代]]前期}}<br />
{{武士/生誕|[[天文 (元号)|天文]]7年([[1538年]])}}<br />
{{武士/死没|[[慶長]]19年[[12月28日 (旧暦)|12月28日]]([[1615年]][[1月27日]])}}<br />
{{武士/改名|五郎(幼名)。宗誾、仙巖斎(法名)}}<br />
{{武士/別名|彦五郎(通称)}}<br />
{{武士/戒名|傳岩院殿量山泰栄大居士}}<br />
{{武士/墓所|[[萬昌院]]、[[観泉寺]]}}<br />
{{武士/官位|従四位下、[[上総]]介。刑部大輔}}<br />
{{武士/幕府|[[室町幕府]][[駿河]][[守護]]職・[[遠江]]守護職}}<br />
{{武士/氏族|[[清和源氏]][[足利氏]]流、[[今川氏]]}}<br />
{{武士/父母|父:[[今川義元]]、母:[[武田信虎]]の娘・[[定恵院]]}}<br />
{{武士/兄弟|'''今川氏真'''、[[嶺松院]]、[[隆福院]]、[[一月長得]]}}<br />
{{武士/妻|正室:[[北条氏康]]の娘・早川殿}}<br />
{{武士/子|'''[[今川範以]]'''、[[品川高久]]、[[吉良義定]]妻}}<br />
{{武士/終了}}<br />
<br />
'''今川 氏真'''('''いまがわ うじざね''')は、駿河の[[戦国大名]]。[[駿河国|駿河]][[今川氏]]10代当主で、大名としての今川家の最後の当主である。<br />
<br />
父・義元が[[桶狭間の戦い]]で[[織田信長]]によって討たれたため、家督を継いで今川家を支えようとするが、[[武田信玄]]と[[徳川家康]]の侵攻を受けて敗れ、大名としての今川家は滅亡した。<br />
<br />
その後、各地を流浪し、最終的には徳川家康の庇護を受けた。[[江戸幕府]]のもとでは[[高家]]として生き延びた。<br />
<br />
== 生涯 ==<br />
=== 家督相続 ===<br />
天文7年([[1538年]])、[[今川義元]]と[[定恵院]]([[武田信虎]]の娘)との間に嫡子として生まれる。[[天文 (元号)|天文]]23年([[1554年]])に[[北条氏康]]の長女・蔵春院早川殿と結婚し、[[甲相駿三国同盟]]の成立に寄与した。<br />
<br />
[[永禄]]元年([[1558年]])、義元が[[隠居]]したため、[[家督]]を譲られて当主になったという説があるが、その後も義元は政治・軍事の主導権を掌握していたため、恐らくは形式的な家督相続であったものと思われる。永禄3年([[1560年]])に上総介に任官された。そして義元が侵攻した[[尾張]]において[[織田信長]]に桶狭間で討たれたため、実質的にも家督を相続して今川家の第10代当主となった。<br />
<br />
=== 相次ぐ離反 ===<br />
永禄5年([[1562年]])、義元時代より従属していた[[松平元康]]が織田信長と[[清洲同盟]]を結び、永禄6年([[1563年]])には[[徳川家康]]へと改名するなど、事実上今川氏の傘下から独立する姿勢を明らかにした。これに対して氏真は、家康が[[三河一向一揆]]で多くの家臣団に離反されたことにつけ込んで三河に出兵したが、家康が一揆を鎮圧して今川軍も撃退されてしまったことから三河を失ってしまう。<br />
<br />
さらに[[遠江]]においても、曳馬城主・[[飯尾連竜]]が家康と内通するなど、離反する家臣団の動きが活発になる。このため、氏真は重臣の[[朝比奈泰朝]]に謀反の兆しがあった[[井伊直親]](ただし直親に関しては氏真の一方的な粛清ともいわれる)や飯尾連竜らを誅殺させるが、さらなる今川家の勢力衰退につながった。氏真は[[楽市・楽座|楽市]]や[[徳政令|徳政]]、役の免除などの産業振興政策によって領国の建て直しを計ろうとしたが、相次ぐ[[国人]]の離反を止めることはできず、また、家臣の[[三浦義政]](傅役[[三浦正俊]]の一族)を寵愛して政務を任せっきりにして、政務から遠ざかって遊興に耽るようになったため、同様に駿河内部でも家臣の離反を招くことになった。<br />
<br />
このように、今川氏の衰退を見た[[甲斐国|甲斐]]の[[武田信玄]]は、[[今川氏]]との同盟破棄と[[駿河国|駿河]]への南進を画策する。そして、氏真の妹婿である[[武田義信]]を[[永禄]]8年([[1565年]])に反逆の罪で幽閉して廃嫡、正室の[[嶺松院]]を強制的に離縁させた。これによって[[武田氏]]は今川氏との婚姻同盟を一方的に破棄することとなるなど、外交的にも不利な立場に陥った。<br />
<br />
=== 滅亡 ===<br />
武田信玄の裏切り行為に対し、氏真は[[越後国|越後]]の[[上杉謙信]]と盟約を交わし、[[相模国|相模]]の[[北条氏康]]とともに[[甲斐国|甲斐]]への[[塩留]]を行うことで報復したが、信玄は織田信長や徳川家康と同盟を結んで対抗したため、これは決定的なものにはならなかった。<br />
<br />
永禄11年([[1568年]])12月、武田信玄は徳川家康と今川領分割を条件にして同盟を結び、駿河への侵攻を開始した。これに対して氏真は迎撃しようとしたが、[[瀬名信輝]]や[[葛山氏元]]、[[朝比奈政貞]]、[[三浦義鏡]]など駿河の有力国人の21人も信玄に通じて裏切ったため、[[駿府]]は短期間で占領され、氏真は朝比奈泰朝の居城[[遠江国|遠江]][[掛川城]]へ逃れた。しかし、遠江においても徳川家康の侵攻によって大半が制圧され、12月27日には徳川軍によって掛川城が包囲され、氏真は窮地に立たされた。泰朝をはじめとした家臣の奮闘で半年近くの籠城戦となったが、ついに永禄12年([[1569年]])、氏真は家臣達の助命と引き換えに和睦開城した。この時に今川氏真、徳川家康、北条氏康の間で、武田信玄の勢力を駿河から追い払った後は、氏真を再び駿河の国主とするという盟約が成立する。しかし、この盟約は結果的に履行されることはなく、氏真およびその子孫が領主の座に戻らなかったことから、一般的には、この掛川城の開城をもって戦国大名としての今川氏は滅びた(統治権の喪失)と解釈されている。<br />
<br />
=== その後 ===<br />
氏真は[[掛川城]]の開城後は妻の実家[[後北条氏|北条氏]]を頼って[[相模国|相模]]に逃れた。永禄12年(1569年)5月23日に[[後北条氏|北条氏]]との同盟強化のため、[[北条氏政]]の嫡男・国王丸(後の[[北条氏直|氏直]])を猶子とする。また、[[上杉謙信]]のもとに使者を送り、今川・北条・上杉三国同盟を結ぶ。この盟約は[[武田氏]]への共闘を目的とするものであった。<br />
<br />
しかし、[[元亀]]2年([[1571年]])に北条氏康が死ぬと、その後を継いだ[[北条氏政|氏政]]は方針を転換し[[武田氏]]と和睦した。これにより氏真は[[相模国|相模]]を離れ、武田信玄と対立し始めたため駿河侵攻の大義名分を得たい徳川家康の庇護下に入った。これは掛川城開城の際の講和条件を頼りにしたとも見られる。そして、徳川家康の同盟者にして父の仇でもある織田信長とも[[京都]]の[[相国寺]]で会見し、[[天正]]3年([[1575年]])の[[長篠の戦い]]にも従軍している。<br />
<br />
一時は徳川家康が[[武田勝頼]]と争う拠点の1つ、[[遠江国|遠江]][[諏訪原城|牧野城]](元は諏訪原城、[[静岡県]][[島田市]])を任せられたともいうが、結局、駿河復帰を諦め(解任されたとも言われる)て京に定住した。のち、剃髪して'''宗誾'''(そうぎん)と号する。その後は[[徳川家康|家康]]の援助を受けながら旧知・姻戚の[[公家]]などの文化人と往来し、[[連歌]]の会などに参加していたことが、親交のあった[[山科言経]]の日記『言経卿記』から伺える。<br />
<br />
=== 晩年 ===<br />
[[慶長]]5年([[1600年]])、[[関ヶ原の戦い]]の後、嫡孫・[[今川直房|範英]]と、二男・[[品川高久]](家康より「今川の姓は宗家に限る」との沙汰上があり、今川宗家以外は「品川」を名乗った)と共に[[徳川秀忠]]に出仕して[[江戸幕府]]の[[旗本]]に列したため、[[江戸]]に移住した(嫡男の[[今川範以]]は若くして病死していた)。<br />
<br />
[[慶長]]19年([[1614年]])、江戸[[品川]]の品川高久の屋敷で死去。享年77。<br />
<br />
葬儀は氏真の弟の[[一月長得]]が[[萬昌院]]で行い、萬昌院に葬られたが、後に妻・蔵春院早河殿の墓とともに、[[東京都]][[杉並区]]今川町の宝珠山[[観泉寺]]に移された。<br />
<br />
== 人物 ==<br />
;[[和歌]]<br />
:権大納言[[冷泉為和]]らより学んだと言われ、現在も1000首を超える歌が遺る。また[[後水尾天皇]]選の[[集外三十六歌仙]]にも名を連ねている。[[北条五代記]]には、氏真が後北条家から去るときに残した歌が記されている。<br />
;[[蹴鞠]]<br />
:飛鳥井流宗家の[[飛鳥井雅綱]]より手ほどきを受けたとされる。<br />
;[[剣術]]<br />
:[[塚原卜伝]]に[[鹿島新当流|新当流]]を学んだという。また、[[今川流剣術]]では氏真が開祖と伝えている。<br />
<br />
*[[江戸時代]]中期以降に書かれた文献の中では、[[和歌]]や[[蹴鞠]]といった娯楽に溺れ国を滅ぼしたように描かれていることが多いが、実際には[[公家]]との交流によって政治的影響力を強める目的や、[[神道]]と関わる行事を行うことによる権力誇示の要素もあり、これだけをもって「文弱」の根拠とするのは適切とはいえない。また人物像についても描かれた作品によって、意志薄弱で頼りないもの、剛胆でさっぱりしたもの(江戸時代初期の『甲陽軍艦』)、思慮深く情あふれるものなど様々で一致を見ない。<br />
*戦国大名としての氏真は、奸臣の三浦義政を重用して次第に政務から遠ざかったり、疑心暗鬼に陥って重臣に謀反の罪を着せて粛清するなどしたことから、非難されることが多い。しかし、和歌・連歌・蹴鞠に通じた戦国時代でも特に秀でた文化人であったことは事実で、文化人氏真としての評価は大変高いのは事実である。<br />
*正室である北条氏康の長女・蔵春院早川殿とはとても仲がよく、氏真が戦国大名の地位から没落した後も、二人は離縁することなく、生涯連れ添った。ちなみに早川殿は、氏真に先立つ1年前の慶長18年([[1613年]])に亡くなっている。翌年に後を追うように氏真も亡くなっている。<br />
<br />
{{先代次代|[[今川氏|駿河今川氏歴代当主]]|1560~1569|[[今川義元]]|[[今川直房]]}}<br />
<br />
==参考文献==<br />
<br />
*観泉寺史編纂刊行委員会編『今川氏と観泉寺』(吉川弘文館、1974年)<br />
<br />
== 関連項目 ==<br />
<br />
'''小説'''<br />
*天下を汝に―戦国外交の雄・今川氏真([[赤木駿介]]、新潮社)<br />
<br />
[[Category:今川氏|うしさね]]<br />
[[Category:戦国武将|いまかわうしさね]]<br />
[[Category:戦国大名|いまかわうしさね]]<br />
[[Category:掛川市|いまかわうしさね]]<br />
[[Category:1538年生|いまかわうしさね]]<br />
[[Category:1615年没|いまかわうしさね]]<br />
<br />
[[en:Imagawa Ujizane]]<br />
[[fr:Ujizane Imagawa]]<br />
[[zh:今川氏真]]</div>
桂鷺淵
https://de.wikipedia.org/w/index.php?title=Imagawa_Ujizane&diff=135799294
Imagawa Ujizane
2007-09-09T00:39:45Z
<p>桂鷺淵: </p>
<hr />
<div>{{武士/開始|今川氏真}}<br />
{{武士/時代|[[戦国時代 (日本)|戦国時代]]から[[江戸時代]]前期}}<br />
{{武士/生誕|[[天文 (元号)|天文]]7年([[1538年]])}}<br />
{{武士/死没|[[慶長]]19年[[12月28日 (旧暦)|12月28日]]([[1615年]][[1月27日]])}}<br />
{{武士/改名|五郎(幼名)。宗誾、仙巖斎(法名)}}<br />
{{武士/別名|彦五郎(通称)}}<br />
{{武士/戒名|傳岩院殿量山泰栄大居士}}<br />
{{武士/墓所|[[萬昌院]]、[[観泉寺]]}}<br />
{{武士/官位|従四位下、[[上総]]介。刑部大輔}}<br />
{{武士/幕府|[[室町幕府]][[駿河]][[守護]]職・[[遠江]]守護職}}<br />
{{武士/氏族|[[清和源氏]][[足利氏]]流、[[今川氏]]}}<br />
{{武士/父母|父:[[今川義元]]、母:[[武田信虎]]の娘・[[定恵院]]}}<br />
{{武士/兄弟|'''今川氏真'''、[[嶺松院]]、[[隆福院]]、[[一月長得]]}}<br />
{{武士/妻|正室:[[北条氏康]]の娘・早川殿}}<br />
{{武士/子|'''[[今川範以]]'''、[[品川高久]]、[[吉良義定]]妻}}<br />
{{武士/終了}}<br />
<br />
'''今川 氏真'''('''いまがわ うじざね''')は、駿河の[[戦国大名]]。[[駿河国|駿河]][[今川氏]]10代当主で、大名としての今川家の最後の当主である。<br />
<br />
父・義元が[[桶狭間の戦い]]で[[織田信長]]によって討たれたため家督を継いだが、[[武田信玄]]と[[徳川家康]]の侵攻を受けて敗れ、大名としての今川家は滅亡した。<br />
<br />
その後、各地を流浪し、最終的には徳川家康の庇護を受けた。今川家は[[江戸幕府]]のもとで[[高家]]として生き延びた。<br />
<br />
== 生涯 ==<br />
=== 家督相続 ===<br />
天文7年([[1538年]])、[[今川義元]]と[[定恵院]]([[武田信虎]]の娘)との間に嫡子として生まれる。[[天文 (元号)|天文]]23年([[1554年]])に[[北条氏康]]の長女・蔵春院早川殿と結婚し、[[甲相駿三国同盟]]の成立に寄与した。<br />
<br />
[[永禄]]元年([[1558年]])、義元が[[隠居]]したため、[[家督]]を譲られて当主になったという説があるが、その後も義元は政治・軍事の主導権を掌握していたため、恐らくは形式的な家督相続であったものと思われる。永禄3年([[1560年]])に上総介に任官された。同年、[[尾張]]に侵攻した義元が[[桶狭間の戦い]]で[[織田信長]]に討たれたため、実質的にも家督を相続して今川家の第10代当主となった。<br />
<br />
=== 相次ぐ離反 ===<br />
[[桶狭間の戦い]]では今川氏の重臣や[[国人]]が多く討死した。このため[[三河国|三河]]・[[遠江国|遠江]]では国人・家臣団が動揺し、今川氏からの離反の動きが広がった。<br />
<br />
永禄5年([[1562年]])、[[西三河]]の[[松平元康]](翌年、徳川家康に改名)は織田信長と[[清洲同盟]]を結び、今川氏の傘下から独立する姿勢を明らかにした。氏真は、家康が[[三河一向一揆]]で多くの家臣団に離反されたことに乗じて[[牛久保城|牛久保]]に出兵したが撃退されている。永禄8年([[1565年]])には[[東三河]]の拠点である[[吉田城_(三河国)|吉田城]]が失陥し、今川氏の勢力は三河から駆逐される。<br />
<br />
遠江においても家臣団・国人の混乱と離反が広がった(遠州錯乱)。永禄5年([[1562年]])には謀反が疑われた[[井伊直親]]を重臣の[[朝比奈泰朝]]に誅殺させている。ついで[[浜松城|曳馬城]]主・[[飯尾連竜]]が家康と内通して反旗を翻した。氏真は、重臣(傅役)[[三浦正俊]]らに命じて曳馬城を攻撃させるが陥落させることができず、和議に応じて降った飯尾連竜を永禄8年([[1565年]])12月に謀殺した。しかしこれらの措置も事態を収拾することはできず、かえって国人たちを徳川方に走らせることになった。<br />
<br />
氏真は祖母[[寿桂尼]]の後見を受けて領国の安定を図り、永禄9年([[1566年]])4月に[[富士宮市|富士大宮]]を[[楽市・楽座|楽市]]とし、[[徳政令|徳政]]の実施や役の免除などの産業振興政策を行ったが、衰退をとどめることはできなかった。ついに遊興に耽るようになり、家臣の[[三浦義政]](三浦正俊の一族)を寵愛して政務を任せっきりにしたため、駿河内部でも家臣の離反を招くことになった。<br />
<br />
今川氏の衰退を見た[[甲斐国|甲斐]]の[[武田信玄]]は[[駿河国|駿河]]への南進を画策する。信玄の嫡男で氏真の妹・[[嶺松院]]の夫である[[武田義信]]はこれに反対したが、信玄は[[永禄]]8年([[1565年]])に義信を反逆の罪で幽閉して廃嫡し、婚姻同盟を破棄した。これにより今川氏は外交的にも不利な立場に陥った。<br />
<br />
=== 滅亡 ===<br />
武田信玄の裏切り行為に対し、氏真は[[越後国|越後]]の[[上杉謙信]]と盟約を交わし、[[相模国|相模]]の[[北条氏康]]とともに[[甲斐国|甲斐]]への[[塩留]]を行うことで報復したが、信玄は織田信長や徳川家康と同盟を結んで対抗したため、これは決定的なものにはならなかった。<br />
<br />
永禄11年([[1568年]])12月、武田信玄は徳川家康と今川領分割を条件にして同盟を結び、駿河への侵攻を開始した。これに対して氏真は迎撃しようとしたが、[[瀬名信輝]]や[[葛山氏元]]、[[朝比奈政貞]]、[[三浦義鏡]]など駿河の有力国人の21人も信玄に通じて裏切ったため、[[駿府]]は短期間で占領され、氏真は朝比奈泰朝の居城[[遠江国|遠江]][[掛川城]]へ逃れた。しかし、遠江においても徳川家康の侵攻によって大半が制圧され、12月27日には徳川軍によって掛川城が包囲され、氏真は窮地に立たされた。泰朝をはじめとした家臣の奮闘で半年近くの籠城戦となったが、ついに永禄12年([[1569年]])、氏真は家臣達の助命と引き換えに和睦開城した。この時に今川氏真・徳川家康・北条氏康の間で、武田信玄の勢力を駿河から追い払った後は、氏真を再び駿河の国主とするという盟約が成立する。しかし、この盟約は結果的に履行されることはなく、氏真およびその子孫が領主の座に戻らなかったことから、一般的には、この掛川城の開城をもって戦国大名としての今川氏の滅亡(統治権の喪失)と解釈されている。<br />
<br />
=== その後 ===<br />
氏真は[[掛川城]]の開城後は妻の実家[[後北条氏|北条氏]]を頼って[[相模国|相模]]に逃れた。永禄12年(1569年)5月23日に[[後北条氏|北条氏]]との同盟強化のため、[[北条氏政]]の嫡男・国王丸(後の[[北条氏直|氏直]])を猶子とする。また、[[上杉謙信]]のもとに使者を送り、今川・北条・上杉三国同盟を結ぶ。この盟約は[[武田氏]]への共闘を目的とするものであった。<br />
<br />
しかし、[[元亀]]2年([[1571年]])に北条氏康が死ぬと、その後を継いだ[[北条氏政|氏政]]は方針を転換し[[武田氏]]と和睦した。これにより氏真は[[相模国|相模]]を離れ、武田信玄と対立し始めたため駿河侵攻の大義名分を得たい徳川家康の庇護下に入った。これは掛川城開城の際の講和条件を頼りにしたとも見られる。そして、徳川家康の同盟者にして父の仇でもある織田信長とも[[京都]]の[[相国寺]]で会見し、[[天正]]3年([[1575年]])の[[長篠の戦い]]にも従軍している。<br />
<br />
一時は徳川家康が[[武田勝頼]]と争う拠点の1つ、[[遠江国|遠江]][[諏訪原城|牧野城]](元は諏訪原城、[[静岡県]][[島田市]])を任せられたともいうが、結局、駿河復帰を諦め(解任されたとも言われる)て京に定住した。のち、剃髪して'''宗誾'''(そうぎん)と号する。その後は[[徳川家康|家康]]の援助を受けながら旧知・姻戚の[[公家]]などの文化人と往来し、[[連歌]]の会などに参加していたことが、親交のあった[[山科言経]]の日記『言経卿記』から伺える。<br />
<br />
=== 晩年 ===<br />
[[慶長]]5年([[1600年]])、[[関ヶ原の戦い]]の後、嫡孫・[[今川直房|範英]]と、二男・[[品川高久]](家康より「今川の姓は宗家に限る」との沙汰上があり、今川宗家以外は「品川」を名乗った)と共に[[徳川秀忠]]に出仕して[[江戸幕府]]の[[旗本]]に列したため、[[江戸]]に移住した(嫡男の[[今川範以]]は若くして病死していた)。<br />
<br />
[[慶長]]19年([[1614年]])、江戸[[品川]]の品川高久の屋敷で死去。享年77。<br />
<br />
葬儀は氏真の弟の[[一月長得]]が[[萬昌院]]で行い、萬昌院に葬られたが、後に妻・蔵春院早河殿の墓とともに、[[東京都]][[杉並区]]今川町の宝珠山[[観泉寺]]に移された。<br />
<br />
== 人物 ==<br />
;[[和歌]]<br />
:権大納言[[冷泉為和]]らより学んだと言われ、現在も1000首を超える歌が遺る。また[[後水尾天皇]]選の[[集外三十六歌仙]]にも名を連ねている。[[北条五代記]]には、氏真が後北条家から去るときに残した歌が記されている。<br />
;[[蹴鞠]]<br />
:飛鳥井流宗家の[[飛鳥井雅綱]]より手ほどきを受けたとされる。<br />
;[[剣術]]<br />
:[[塚原卜伝]]に[[鹿島新当流|新当流]]を学んだという。また、[[今川流剣術]]では氏真が開祖と伝えている。<br />
<br />
*[[江戸時代]]中期以降に書かれた文献の中では、[[和歌]]や[[蹴鞠]]といった娯楽に溺れ国を滅ぼしたように描かれていることが多いが、実際には[[公家]]との交流によって政治的影響力を強める目的や、[[神道]]と関わる行事を行うことによる権力誇示の要素もあり、これだけをもって「文弱」の根拠とするのは適切とはいえない。また人物像についても描かれた作品によって、意志薄弱で頼りないもの、剛胆でさっぱりしたもの(江戸時代初期の『[[甲陽軍鑑]]』)、思慮深く情あふれるものなど様々で一致を見ない。<br />
*戦国大名としての氏真は、奸臣の三浦義政を重用して次第に政務から遠ざかったり、疑心暗鬼に陥って重臣に謀反の罪を着せて粛清するなどしたことから、非難されることが多い。しかし、和歌・連歌・蹴鞠に通じた戦国時代でも特に秀でた文化人であったことは事実で、文化人氏真としての評価は大変高いのは事実である。<br />
*正室である北条氏康の長女・蔵春院早川殿とはとても仲がよく、氏真が戦国大名の地位から没落した後も、二人は離縁することなく、生涯連れ添った。ちなみに早川殿は、氏真に先立つ1年前の慶長18年([[1613年]])に亡くなっている。翌年に後を追うように氏真も亡くなっている。<br />
<br />
{{先代次代|[[今川氏|駿河今川氏歴代当主]]|1560~1569|[[今川義元]]|[[今川直房]]}}<br />
<br />
==参考文献==<br />
<br />
*観泉寺史編纂刊行委員会編『今川氏と観泉寺』(吉川弘文館、1974年)<br />
<br />
== 関連項目 ==<br />
<br />
'''小説'''<br />
*天下を汝に―戦国外交の雄・今川氏真([[赤木駿介]]、新潮社)<br />
<br />
[[Category:今川氏|うしさね]]<br />
[[Category:戦国武将|いまかわうしさね]]<br />
[[Category:戦国大名|いまかわうしさね]]<br />
[[Category:掛川市|いまかわうしさね]]<br />
[[Category:1538年生|いまかわうしさね]]<br />
[[Category:1615年没|いまかわうしさね]]<br />
<br />
[[en:Imagawa Ujizane]]<br />
[[fr:Ujizane Imagawa]]<br />
[[zh:今川氏真]]</div>
桂鷺淵